細かいことはあとで決めるとして——とぐずぐずして、互いの絵を五枚づつ選ぶことにした。詳しいことはわからないけれど、全体で十枚ほど展示するくらいの規模がちょうどいいように思えた。もしも売れればそれだけまた描かなくてはいけないのだし、水月はわからないけれども、わたしには五枚づつが限度という気もしたのだ。

 水月の絵はとにかく綺麗だ。モデルは自分だというのに、見ていてうっとりしてしまう。それはひとえに、水月の色づかいや描き方が美しいからだ。この絵を見て、モデルがこのわたしだとわかる人が果たしてどれほどいることだろう。一人でもいたなら、わたしはもう息が止まるほど驚く。

 絵を見ていくだけで、水月との楽しい時間が鮮明に蘇ってくる。公園のベンチに座った腰のあたりを描かれた絵、あるいはそういう足元を描かれた絵。一方の目をカンヴァスいっぱいに描かれた絵。この目は、まるでそのときの華やかなときめきをそのまま映したように輝いている。その輝きはまるで、満天の星やオーロラや、天の川のようだ。

 水月はとにかく、人物を描くのがうまい。というか、彼の描く人物画にはどうも惹かれる。たとえばこの、唇のそばで竹笛を持つ人物。このモデルが葉月であることはわたしは知っているけれど、それでも美しいと思う。わたしが彼自身を実際に見たのではわからない美しさが、カンヴァスの中の彼にはある。

 この絵、その人が若い男性であるとわかるのは、唇のふくよかさと、すらりとしていてかたそうでありながらしわのない手の甲、女性よりも太く骨張った指、すらりと長い首に浮かぶ色っぽい喉仏だけだ。

この人物が着ているのはほんのり黄味を帯びた白のティーシャツで、背景は静謐(せいひつ)な和室だ。年齢や性別を感じさせるものは、この人物自身の口元から首元にかけて、それから手元のほかには、なにもない。

 水月の絵には余計なものがないように思う。人物を描くならその人物にしか目がいかないように描かれている。この絵でいうなら、背景が和室であるのに気がつくのは、この人物が若い男性であることに気がついたあとだ。写真では背景をぼかしたりするけれど、水月は水彩でそれをやる。

 水月の絵では、彼の心の清らかさがわかるようだ。わたしは、好きとか嫌いではなく、葉月の容姿を特別に優れたものだとは思わない。けれども、水月がこうして描けば、彼はどうしようもなく美しくなる。それはその唇かもしれないし、首元や手元かもしれない。あるいはそれ以上の、目に見えない雰囲気かもしれない。

水月は葉月に対して、この穏やかで麗しい雰囲気を感じているのかもしれない。そう思うと、彼の心の清らかさ、美しさがわかるような気がしてくる。彼自身の目が心が穢れたりくすんだりしていないから、こうも美しくものを見ることができるのだろうと。