地面が——車の窓が——水たまりが——凍らなくなって、少なくなった雪から緑が顔を覗かせて、残った雪が溶けて、雪に濡れていたものが乾いて、少しずつ、町に自然の色彩が戻ってくる。どこか眠たげな白の濃淡に飾られていた町が、少しずつ目醒めるように、花々に彩られ始める。

 その様子は、ただ部屋にこもって、窓から眺めているだけでも楽しいほどだった。むしろ、窓枠という額に飾られたその自然の芸術を眺めるのは、至上の贅沢のようにも思えた。

 季節が変わっていく。冬が溶けていく。春が芽吹いてくる。

 冬と春の、そのちょうど中間といった瞬間は、優しさと幸福、希望を感じさせる物悲しさに満ちていて、なんとも表せない美しさをまとっていた。

 ちょっと前の二月十四日、わたしは初めて、誰かにチョコレートを贈った。スーパーマーケットの一角を華やかにしていた箱に入れられたものではなく、袋にたくさん入った手作り用のもの、そのすぐ近くに置いてあった、板チョコレートだ。ビターでもホワイトでもない、ごく普通の板チョコレート。しかもその全部をというのではなく、直前に恥ずかしくなって、半分づつ食べた。ぱりぱりと。バレンタインという言葉をだすことさえなかった。

 高校一年生として最後の一か月は、二十一日で終わりを迎えた。その次の日から、春休みという、課題に追われることのないこの上なく幸せな連休を与えられた。そりゃあ、こういうときにも教科書を読んでみたり、問題集と向き合ってみたりするべきなのだろうけれども、わたしはそういうことはしない。

 春休みの始まる一週間ほど前に、水月は三つ、飴玉をくれた。いちごミルク味とプリン味とカフェオレ味。いつかのように服のポケットからでてくるようにしてはいけないと、すぐにいちごミルク味の一粒を口に入れた。優しい甘さは幸せを連れてきた。

 絵を描くことに集中できる幸せな時間はたった二週間。四月の五日には始業式があった。選択科目によって分けられるクラスは限られるので、四組から六組の間でどの教室に入れられたのかを確認した。それ以外に楽しい時間はなかった。ただ二年五組の仲間たちの中で、ああ学校が始まったなあとぼんやり感じているだけだった。

担任の先生もそれぞれの教科を教えてくれる先生もさっぱり変わり、一年生のときとはまるで別世界のようですらあるのに、それに馴染もうと努力しようとも思わない。クラスの担任であり数学担当でもある吉田先生は去年の数学の藤木先生より感じがいいとか、英語の先生は去年の先生の方が好きだなとか思ったりするけれど、努力しなくても結構すぐに馴染めるものなのだ。

 それよりも、この先生たちの、まるで昨日までの二週間もずっとこうしていましたというような精力的な感じに振り落とされないことに集中する必要があった。それには、こんなことをしているより絵を描きたいんだけどという愚痴とか怠惰(たいだ)な感じを押しこまなければならなかった。

 わたしはそこに救いでもあるように、窓越しに、空という不思議な青を見た。胸の奥が、甘やかにうずうずとする。

 水月に会いたい。