さんざん遊んで帰っても、水月はまだいなかった。下駄箱に並ぶ水月の下駄の間が一か所広がっているのを見て、そんなことだから八月の半ばを過ぎても課題が終わらないんだと腹の中でつぶやく。

 荷物を部屋に置いて、笛を持って和室に入った。

 縁側の手前から夕刻の空を眺めて、息をつく。笛を口にあて、そっと吹く。

 誰も一秒先の音を、ひとつ先の音を知らない。楽譜のない気まぐれであいまいな音。それにつづく鼓の音も、鋭いかけ声もない。

 俺は負けた。水月に負けた。争う気は起きなかった。天女はぞっとするほど美しい、悲しくなるほどかわいい顔をした。水月を見て初めて、天女はあの顔をした。俺には決して引きだせない表情。当然だ、俺は彼女を気に入らなかったのだから。

 なにかが悔しい。なにかが惜しい。

 水月はまた絵を描き始め、好きな人は楽しそうにしている。こんなにも満ち足りた現状などないはずだ。

 それなのに、なにかが悔しい。なにか、どうしてか、寂しい。

 鼓の音が聞こえないことかもしれない。好きな人がもう二度と自分を見てくれないことかもしれない。

 俺は水月が絵を描くことを望んだ。俺は、時本はなが自分のそばからいなくなるのを望んだ。そのどちらも、今、完全に叶っている。

 時本はなは俺を見ることがない。あのこぼれそうな大きな目で見あげてくることも、いたずらに笑顔を見せることもない。そのすべては水月に向けられている。彼も大いに悩まされていることだろう。あの表情は、あの声は、あの仕草は、蔓のように絡みついて離れることがない。こうして枯れてなお絡んだまま、解けることはない。

 ああ水月、俺はおまえに嫉妬している。おまえは、俺にないものをすべて持っている。

 ああ水月、水月——俺は……!——

 「葉月」と声がして、不恰好な音が残響をくゆらせた。見れば、水月が鼓を片手に立っていた。

 「水月……帰ったのか」

 「いましがたね」

 「……おかえり」

 「ちょっと、やるか」

 「ああ……久しぶりだな」

 水月が隣にきた。隣に座ったので、俺も座った。

 満ち足りている。水月は絵を描き、好きな人は楽しんでいる。こんなにも満ち足りた現状などないはずだ。

 俺はそっと、笛を口にあてた。

 満ち足りている。そのはずだ。

 そっと、息を吹きこむ。

 なのに、なにか、どこか、惜しい、悔しい、寂しい。

 水月が、ぽんと鼓を鳴らした。

 このいくつもの感情が渦巻くその理由が、なんとなく、わかった気がする。

 音を強めると、鼓の音も激しくなった。

 嫉妬は、己の内側だけじゃなく、目に見える兄の姿さえ穢してしまうのだ。

 だからこんなにも、惜しく、悔しく、寂しいのだ。

 俺は水月が好きだった、尊敬していた。俺はそれに対して充実を知った。けれども今は、水月を腹のどこかで厭わしく、穢らわしく感じている。だからこんなにも、惜しく悔しく、寂しいのだ。

 時本はなを失ったのが惜しく、水月をこんなふうに思うのが悔しく、孤独が寂しいのだ。

 幸せにして幸せになれといった言葉に嘘はなく、その上で、これほどの感情が渦巻いている。