花水木

 錆びて激しく軋みながらほとんど動かなかった歯車が、一度二度と大きな音を立てて、それからするすると動きだしたような心地だ。

 頭の中で喜びがぱんぱんと弾けている。飛び跳ねたいような激しい期待と興奮に体が熱くなる。

 頭の中はあまりに騒々しく、わたしと水月の間はあまりに静かな時間だった。ただ、雑踏と互いの足音だけが心地よい沈黙を包んでいた。

 わたしはそのすべてに意識を向けた。車の通る音、すれ違う人の話し声、自分の足音、水月の足音、外の空気のにおい、歩幅に合わせて流れていく地面と風景、遠くで聞こえる鳥の声、細い枝に止まった小鳥、どこからか聞こえてくる犬のかわいらしい鳴き声、遠くで響くサイレンの音、そしてなにより、期待と興奮に騒がしい頭の中。

 雑踏が、見飽きた町並みが、意味を持ち始めた。今までだって、観察するような気持ちでこの町を見たことはある。けれども、そのどれもが今ほど価値を持っていなかった。わたしに刺激をくれなかった。ただそこにあるだけで、こちらに入ってくることがなかった。わたしもまた、目に見えているそれらに、自分から入っていこうと思わなかった。

 こう集中してしまえば、気がどうにかなってしまいそうなほど騒々しいのに、そのすべてが意味を価値を持っているから、逃すわけにいかない、狂ってしまうわけにいかない。

頭が拒絶するほどの情報を、五感のすべてが受けとる。これほど感じていても、期待と興奮に酔っている頭がどれだけ処理できているかわからない。

 ほしい。もっと見たい、もっと聞きたい、もっと、もっといろんなものを感じたい。頭が動かなくなるほど、なにも感じなくなるほど、感じたい。

 ああ、水月——。

 彼はただ美しく、静かに歩いている。まるで、なにも感じていないように。確かに歩いていて、そこにいるのに、まるでここに、そこに存在しないかのように。呼吸も脈も感じさせず、ただ美しく、そこにある。わたしの隣を、歩いている。

 彼もわたしと同じように、たくさんの音を、空気のにおいを、感じているのだろうか。

 彼の見ているものが見たい。そう思ってしまうほど、今、水月は、音もにおいもなく、ただ美しく、儚げに朧げに、そこに見えている。本当に存在するのかどうかも疑えるような様子で、わたしに見えている。

 「水月」と名前を呼ぶのにいくらかの勇気が要ったことに気づいたとき、彼がどこかぼんやりした表情でこちらを向いたのにも気がついた。

 「……なにか、見えた?」

 「ああ、綺麗なものが。俺はこれを、自分で操りたい。絵筆を魔法の杖にしたい。紙からにおいがして、音が聞こえて、空気のやわらかさ、かたさ、熱さ冷たさを感じられるようにしたい。今感じてるものの全部を、紙の中に持っていきたい」

 「できるかな、そんなこと」

 彼は余裕と挑発を心地よく混ぜた笑みを浮かべ、「やるんだ」と静かにいった。なんだか自分まで強くなったような心地がして、わくわくする。

 そうだ、やるんだ。

 「ねえ、水月。わたし、公園いきたい」

 「公園?」

 「いろんな人がいて、いろんな音が聞こえて、でも見るものは限ることもできて、ちょうどいいと思うの」