わたしはせっかく持って帰ってきた画材を引っつかんで庭に飛びだした。

 嫌だ嫌だ、消えたい消えたい。そんなときに、かつ丼が食べられないのなら絵を描くに限る。庭にだって描けるものはある。

 わたしは花壇に咲いているすずらんに目をつけた。紙に下地材を塗っていく。これで油絵が紙にも描けると知ったのは、薫風堂のおいちゃんに教わったからだ。さすが画材屋さんだなと思ったのを憶えている。

しかも初めて使った下地材はおいちゃんからのプレゼントだった。「一個くらいいいよ、持ってけ」といってくれたのだ。

普段からちょっといってみれば安く売ってくれるし、結構儲かってるんだ、なんて現実的なことを考えたとき、「ちなみにそれ、カンヴァスにも塗るといい」といわれたのには、早く教えてよと思ってちょっとむっとしたけれど、画材をくれた厚意に意識を押し戻して、感謝して薫風堂をでた。

 その日、下地材というのは、描きたい絵の雰囲気に合わせて使うといいとおいちゃんはいった。カンヴァスの編み目——布らしい感じ——を見せて、優しく素朴な感じの絵にしたいときには塗らなくてよし、そうでないときには塗ればいいということだった。そういう豆知識はまじでもっと早く教えてよと思ってしまった性格の悪さをお腹の底に押しこんでお礼をいった。

 ふと、自分が今どこにいるのかが気になった。習っているわけじゃない、美術部にいるわけでもない、ただ近所の画材屋のおいちゃんから話を聞いて、気ままに描いているだけで知識なんてありやしない。画力だって大したものじゃないに違いない。

 数年続けているくせに下地材の存在もその使い方も知らずにいて、本当にただ、遊びのように——それこそ、落書きをしているだけだ。

 今この状態で、果たして画展など開けるのだろうか。あの日観たような美しいもの、綺麗なものを——あそこまでのものを描けるわけではないにしても、それに匹敵するようなものを——わたしは今、描けるのだろうか。

 いや、描けない。描けるはずがない。わたしには、なにも足りない。知識も、経験も。こんな状態で画展を開き、うまいこといってしまえば、それはもう、そんなに格好いいものはない。けれどもそれをやって退けるのは、俗にいう天才たちだ。

 理屈をこねくり回すのであれば、そりゃあ、わたしだってその天才と呼ばれる少数の中に入っている可能性はある。これまでそうしたことがなかっただけで、描いた絵をすごい人に見てもらえば、天才という冠をかぶって、画家という肩書きをもらえるかもしれない。

理屈をこねくり回したりものすごく広い目で見てみれば、そういう可能性はある。素晴らしいと賞讃されたことがないのと同じように、なんてひどい絵だと批難されたり罵倒されたりということもない。天才は初めから天才なのではないなんて聞いたりもする。わたしはまだ、天才である可能性がある。

 もちろんそれは事実だけれど、現実的だとはあまり思えない。

 わたしは今、どこにいるのだろう?

 オン・ユア・マーク——セット。

 わたしは、自分の位置についているのだろうか。

 自分の位置で、『用意』はできているだろうか。

 わたしは今、どこにいるのだろう——?