それでも、彼の袖を握る手はわずかに震えていた。

 目を丸くして私を見ていた彼は、少し経って小さく息を吐いた。無言で救急箱を開き、私に言った。

「後ろを向いて」

 言われた通りそのまま後ろを向く。こんな時に考えているのは、ああお腹のぜい肉を何とかすべきだったとか、背中だけならお腹は見えないから大丈夫だとか、そんなくだらない言いあいばかりなのだ。

「どのあたりですか」

「腰ぐらいです」

 すぐさま着ていたパジャマが捲られる。すっと冷たい空気が肌に触れ、ドキッとした。胸がうるさいぐらいに鳴り響く。部屋中に反響してるんじゃないかと勘違いしてしまうほどに。

 そこへ手が少し触れた。想像以上に彼の手が熱くて驚く。叫びだしそうなのを何とか堪えて、ぎゅっと強く目を閉じた。早く終われ、早く終われ!

 素早く手当てが済まされる。ガーゼか何かが貼られたのを感じをほっと息を吐いた。安堵して目を開ける。何事もなかったかのように振り返り、無表情でソファに座りなおした。

「どうもありがとうございました」

 すましてそう言った。だが、理人さんは返事を返さない。しゃがみ込んだままじっとこちらを見て、その黒い瞳に私を映した。

「京香さん、顔、赤いですね」

「え?」

「何か意識しましたか?」

 カッと全身が熱を帯びる。意地悪く言ってきた相手を睨みつけ、反論した。

「別に。風呂上りだからですよ」

「風呂から上がってきた時よりずっと赤い」

「気のせいでしょう。それとも、理人さんこそ何か意識したのをごまかしたいんじゃないんですか?」

 挑発的に言ってみる。だが、彼はあっさりそれを認めたのだ。

「当たり前じゃないですか」

「……え」

「今日、僕がどれほど心配したと思ってるんですか。あなたが無事でいることを、本当は抱きしめて喜びたいところですよ、それともそうしてもいいという誘いですか?」

 淡々と言われたそのセリフに、私はぽかんとした。こんな返事が返ってくるとは想定していなかったのだ。

 間抜けみたいに口を開けたまま理人さんを見る。彼は立ち上がり、一歩私に近づいた。背の高い彼を見るのに、首を痛いほど持ち上げる。

 至って真剣なその瞳が、魔法をかけているみたいだった。私の動きを封じ込める魔法だ。私は瞬きすらできないほど、固まり動けなくなっている。

 彼が片膝を私の隣に掛けた。革のソファが沈む。その感触が自分を現実に起こした。顔を熱くしたまま、私は非難する。

「な、なんですか、近いです!」

「近づいてるので」

「なん」

「もうちょっと人に頼るということを覚えた方がいい。その真っすぐで全力な生き方は尊敬しますが、見ているこっちは心配でならない」

「は、はあ?」

 彼が何を言っているのかよく分からない。先日会ったばかりの女を、そんなに心配するのも変な話ではないか。裏がある結婚をするだけの相手なのに。

 すっとその顔が近づいた瞬間、反射的に両手を顔の前に運んだ。だがそれは呆気なく彼に解かれた。両手首を掴まれ、そのまま下ろされる。身動きできないまま、私は正面から見るその顔に、息が苦しくなるのを感じた。

 それでも力が入らない。理人さんの手なんか強く振り払って、殴ってやってもいいというのに、

 私はそれが出来ないのだ。

「ど、いてください」

「どうして」

「どうしても!」

 そう大きな声で言ったと同時に、顔が近づいてきた。耳元で、低い声がする。



「こんなに物欲しそうな顔をしてるのに」



 私の恋心を見抜かれた、そんな声。

 何かを返す暇もなく、彼の口で塞がれた。やっぱり、抵抗できなかった。

 ああ、ハマったらダメなのに。

 私は自分に嘘がつけない。