「奥様の御髪、きれいですわ」

「本当にお肌がつるつるでお化粧のしがいがあります」

 カトリーナの支度をするのは、奥方付きになった二人の侍女だった。

 大人びた女性はソニア。カトリーナの髪を梳いている。
 鼻歌でも歌い出しそうにご機嫌に今日の衣装を見繕っているのはエリン。

 カトリーナがランゲ伯爵邸に来たときに湯浴みを手伝った二人はそのまま奥方付きの侍女となった。

『記憶が無くてご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします』

 心細く笑うカトリーナに、二人は戸惑いつつも了承した。

 二人とてカトリーナの噂は知っていた。
 目下の者に辛くあたる性悪な女性。
 それが他家の侍女仲間に拡がっていたカトリーナの評判だった。
 だが雇い主が心に秘めた想いを抱いた女性という一面もあった為、実際に見てから判断したかった。

 以前はどうあれ、今は記憶が無い。その為か態度はしおらしく、いつも不安そうにしている。
 そのためどうにも毒気を抜かれ、噂通りとは思えないのだ。

 今だって少し褒めたくらいで顔を赤らめ照れている。誰よりも美しいと評判の女性がそんな仕草をすれば、どんな男も惚れてしまうんじゃないかと二人は思いながら支度を進めた。

 時折「そんな事、ないわ……」と遠くを見るような表情をする事が気にはなるが、カトリーナはすぐにハッとして取り繕うのだ。
 そんな危うい存在の奥方を、侍女二人は放っておけなかった。

「奥様が心穏やかにお過ごし頂けるように努めて参りますね」

「……ありがとう、二人とも」

 照れたように柔らかく笑むと、エリンとソニアは目を合わせて微笑んだ。


 カトリーナのケガは良くなってはいるが、行動範囲はもっぱら屋敷の中。
 暇はたっぷりあるので少しでも記憶の欠片を取り戻そうと王国の歴史書や市井の話題が載った書物を読んでみるがイマイチぴんと来ない。

「五感に訴えてみてはいかがでしょうか」

 触れる、嗅ぐ、味わう、聞く、見る。
 全てを手探りで感じるがやはりぱっとしない。

「……君は記憶を取り戻したいのか……?」

 捨てられた子犬のような顔をしたディートリヒを見る度胸の奥がざわつく。
 快とも不快とも言えないそれは、カトリーナを不安にさせた。

「あなたが好きだと仰ってくれた私の方が良いかと思って……」

「記憶が無くても……好きだよ」

「でも……」

 なおも言い募ろうとした妻を、ディートリヒは優しく抱き締めた。

「君がこうしていてくれるだけで幸せなんだ。
 ずっと、願っていたから。
 どんな君でも、変わらない」

「だんなさま……」

 躊躇いがちに、だが優しく。
 ディートリヒはカトリーナの頬に触れた。

「愛しているんだ」

 懇願するような瞳に、カトリーナの胸はざわついた。

『ワタシヲアイスルヒトナンテイナイ』

 一瞬浮かんで消えた言葉を、カトリーナは拾わず見過ごした。なぜそう思うのか分からなかったからだ。

『ダレモワタシヲアイサナイ』

 再び浮かぶ言葉を振り払うように、夫を抱き締めた。

(どうして……こんなにも不安になるの)

 夫からの愛を素直に受け取れないもどかしさで、カトリーナは何も言えなかった。
 そんな妻を、ディートリヒは優しく抱き締める。
 ここにいるのを確かめるように。
 確かにある温もりを、忘れないように。

(記憶を取り戻したい)
(どうかこのままで……)

 二人の相反する想いは、互いに伝えられないまま。

 ただ、今だけは温もりを、幸せを享受していたかった。


 ディートリヒは妻の実家であるオールディス公爵邸へ手紙を送っていた。
 公爵不在の中、婚姻してしまった事、記憶が無いまま初夜を迎えてしまった事を詫び、伯爵邸での様子などを綴った。

 元来机仕事が苦手な為、実力はあれど副騎士団長の地位に甘んじているディートリヒであるが、こればかりは思考をフル回転させてしたためた。
 オールディス公爵に誠実な婿と思ってほしかったからだ。

 国王陛下と共に視察に行き、未だ戻ったという知らせは無い。おそらく婚約破棄騒動は王宮の者が使いを出しているだろうが、帰ってくるまでにはまだ時間を要するだろう。

 それまでにカトリーナの記憶は戻るだろうか。
 ──もしも、戻ったとしたら。

 幸せなはずなのに、心の底から喜べない。
 今更手放すなど考えられない。

 だが騙し討ちのような歪な関係に、段々と心苦しさを感じてしまう事もあったのだ。

 元来誠実で優しさの塊のような男。
 戦場では敵から悪魔のように恐れられても、恋した相手から嫌われる事を恐れる臆病さもある。

 夢のような日々を、愛しさであふれる想いを受け取って貰える日々がどうしようもなく幸せで、どうかこのまま──と願ってしまう。


 一方のカトリーナは、何としても記憶を取り戻したいと思っていた。
 今の関係は幸せだが、どこかよそよそしいものでもあった。

 夜、閨ごとはするがディートリヒが満足しているとは思えなかった。
 優しく労るようなものはカトリーナの身体を気遣って、ではあるけれど、どこか遠慮しているように感じてもいたのだ。

 その腕の中で眠る幸せは自分を満たすが、身体を繋げても心は繋がっていないような気がしていた。

(早く思い出さなくては)

 そう思う度頭の中にモヤがかかる。
『このままでいいのでは』という気持ちと『早く思い出したい』という相反する気持ちが、カトリーナを苛んだ。

 思い出せば何かが変わる。

 自分の事すら忘れているのだ。
 性格だって変わっているかもしれない。
 好みも、何も、分からない。

 だが本当の意味で夫と向き合う為にも、カトリーナは記憶を取り戻したかった。


 それが、二人の仲を変えるものだとしても。