それからの二人は、誰から見ても仲良し夫婦だった。日中はぎこちなく触れ合い、慈しみ合う夫婦。
 夜は情熱的に愛し合う夫婦。

 貴族としては珍しいかもしれないが、理想的な夫婦。

 カトリーナからすれば、記憶が無いが為に頼れる者が夫しかいないから、というのはあるが、すっかりと自身を守ってくれる存在に心を許している。

 けれどもディートリヒにとっては砂上の楼閣のように儚さも感じるものでもあった。
 いつかは記憶が戻り、その瞳が再び嫌悪に染まる日が来るかもしれない。
 だが今はただ、妻の瞳には己に対し安心しきり、寄り添い、優しさだけが含まれている。
 紛れもない、愛情だけがそこにあった。
 それは彼にとって幸せであり、奇跡とも呼べるものだった。

 いつ、記憶が戻るかもしれない。戻らないかもしれない。それゆえ日々を大切にしようと改めて思うのだった。


「旦那様の事を教えて頂けますか?」

 休日にサロンでお茶を嗜んでいると、カトリーナがディートリヒに問うた。

 窓から入り込む陽の光に照らされ、ディートリヒの目に妻の笑顔が眩しく映る。
 自分に興味を持って貰えるとは、と戸惑い、ディートリヒは姿勢を正した。

「私の事……と言うと、何から話そうか」

 ディートリヒの女性経験は少ない。
 なのでこういう時に気の利いた事が言えない。

 以前婚約者はいるにはいたが、貴族として必要最低限の交流だった。積極的に交流しよう、というものは無かったのだ。
 騎士団に入団し日々を鍛錬に費やしていたせいでもあるが、さほど興味が無かった。
 だから愛情を育むには至らず、顔に大きな傷ができた時、互いに容易く手放してしまえたといえるだろう。

 だがカトリーナに対しては違った。
 何から話せばいいか、頭の中が真っ白になるくらいには緊張するし、余裕も無くなる。
 年上なのだし、リードしなければと思う程格好がつかなくなる。

 今でさえ全てを知ってほしい気持ちと、それを聞いて嫌われたくない思いが混ざり彼の中では混沌としていた。

 ぐるぐると思考を回すディートリヒの様子は、カトリーナからは微動だにせずに固まっているように見えた。そんな夫の様子に、くすりと笑う。

「旦那様の職業は……先日聞きましたわね。
 ……では、ご家族の方を教えて下さい」

「家族……。そうだな。……両親は数年前に馬車の事故で他界したよ」

「……っ、すみません、私……」

 カトリーナの顔色がみるみるうちに悪くなる。

「いや、構わない。もう、ふっきれているから、大丈夫だ」

「そうですか……。あの……お悔やみ申し上げますわ」

 カトリーナは頭を下げる。ディートリヒが慌てて頭を上げるように言うと、カトリーナの瞳は少し潤んでいた。両親の死を悼んでくれた事がじんわりと胸に広がり、ディートリヒは温かな気持ちになった。

「あと、姉と弟がいる。姉は他国に嫁に行ってるし、弟は騎士団の寄宿学校に入ってるから二人とも滅多に会わないな」

「そうなんですか。……寂しくはありませんか?」

 その言葉にディートリヒは瞬いた。思案すると、寂しいと思った事は無かったように感じた。

「いや、……そうだな。……使用人たちが何かと気にかけてくれていたから、寂しいとかは無かったな」

 ランゲ伯爵家の使用人たちはみな主思いだった。
 先代の頃からいる執事のハリー、元乳母で現在侍女長のマルタを始めとした使用人たちは主に寄り添い過ごしてきたのだ。

 ディートリヒが婚約を解消された時も、その後人知れず失恋した時も。
 変わらない態度で、だがさり気なく慰めた。
 だから彼は家族がいなくなっても寂しいと感じる事は無かった。

「それは良かったです。……私は……いつも独りで……」

 言いかけてカトリーナは止まる。
『いつも独り』
 その言葉がするりと出てきたことに驚いたからだ。
 ディートリヒも息を飲む。

「記憶が……?」

「いえ、戻ってはいません。……いつも、独り、だったのかな、私……」

 自分の事が分からぬという事が不安になり、カトリーナは俯いた。だが。

「君を独りにはしない」

 力強い言葉に顔を上げると、ディートリヒはカトリーナを真っ直ぐに見ていた。

「これからは私がいる。何があっても、君を手放す事はしないと約束する」

「だんなさま……」

「ずっと、好きだったんだ。諦め悪くてすまない」

 熱のこもった瞳に見つめられ、カトリーナの心臓が跳ねた。反らせぬ視線に釘付けになる。だが恥ずかしさが限界に来て、カトリーナは必死の思いで顔を下に向けた。

「いつ頃から私を好きになって下さっていたのですか?」

 相変わらず鼓動は早い。ディートリヒが自身を好きでいてくれて、そして守ってくれる。それがカトリーナにとってくすぐったかった。

「いつから……、そうだな。自分の気持ちに気付いたのは君のデビュタントの夜会だった。私は警護担当で、……君は王太子殿下のエスコートで入場してきた。
 その時婚約が発表されたから、気付いたと同時に失恋したんだ」

 あの時を思い出すと胸に刺すような痛みが走る。
 自覚しても、手を伸ばせない事に絶望したあの時の事が、ディートリヒの中に苦い思い出として残っていた。

「その前から、君の姿に勝手ながら励まされていたんだ。この顔の傷で周りから蔑まれていたからね」

 苦笑しながら自身の傷を撫でた。
 その様を見ていたカトリーナは、眉根を寄せ俯いた。

「どうして……。あなたは騎士様なのに……」

「戦争で得た名誉の負傷も平和な場所ではただのキズモノになるんだろう」

 今はこうして痛ましく見てくれている貴女も、きっとそうした思いがあったのだろうというものをディートリヒは飲み込んだ。
 今の彼女に言っても分からないからだ。
 全てを忘れ、頼れる者が己だけだから、こうして怖がらずに真正面から対峙してくれているだけだ、と言い聞かせる。

「……私は……同じ事をしていたのかしら」

 ぽつりとこぼれたカトリーナの言葉に、ディートリヒは拳を握った。
 〝同じ事〟とは、〝彼を蔑む態度があったか〟と言うことであるが。

「……いや、君は……話題を反らしてくれていたよ」

「本当ですか?」

「ああ、……だから、諦めがつかなかったんだ」

 ずっと不快な表情のままでいられたら嫌われていると踏ん切りもついた。だが、ある時を境に表情がやわらぎ何か言いたげに見られる事もあった。
 そこに恋情などは無くても、申し訳無い気持ちは伝わって来た為、彼女を、彼女が治める国を守ろうと決意したのだ。

 ディートリヒにできる事は剣の道を行く事。
 側にいる事ははばかられた為近衛の話は辞退した。
 隣国に攻め入られた時の様に、国を守る事がひいては彼女を守る事に繋がると思い、日々鍛錬を欠かさなかった。
 戦力は多い方がいいと、後進を育てるのにも注力した。

 唯一人を想うだけで強くなれた。

 ただ、ディートリヒとて伯爵、貴族としての義務がある。
 いずれは誰かと結婚し、子をなさねばならぬ時が来る。
 今はそんな気になれずとも、いつかは。そう、思いつつずるずると引き摺り今に至るまで浮いた話も無かった。
 独り身でいたのは顔の傷だけのせいではなかったのだ。

「私を……想って下さりありがとうございます。あの時……、目覚めて、独りでは無い事がとても心強かったのです。
 王太子殿下とあの女性は……、何だか嫌な感じがして胸がざわざわしていたので」

 カトリーナは胸を押さえ、ディートリヒに微笑んだ。
 金の髪がさらりと揺れる。
 その眩しさに、ディートリヒは目をそらした。

「私はそんなに良い人間では無いよ……」

「え?」

 記憶が無いから、こうして向き合える事につけ込んでいる。誰にも頼れない事をいい事に囲い込んでいる自覚があった。

 記憶が戻ったら。

 この幸せはおそらく崩れてしまう。

 だから思案せずにはいられない。

 こうして向き合い、話す事ができている今は現実なのだろうか。


 自分に向けて欲しいと願って止まなかった笑みを見て、ディートリヒは願った。


『夢なら醒めないでくれ……』