初夜が明け、気を取り直して騎士団へ向かうディートリヒ。
 馬車の中でも彼の葛藤は続いていた。

 カトリーナにとっては嫌う相手との婚姻。
 だが彼にとっては密かに想う相手との婚姻。
 記憶が無いカトリーナに騙し討ちのように初夜を済ませてしまった事に自己嫌悪していたのだ。

 元来のディートリヒは騎士団の中でも真面目な方で、娼館の利用も数える程。
 良い年の男ではあるが身を崩す程溺れはしない、理性的な男である。
 よほどの時に付き合いで行く事はあっても、酒だけを嗜み行為はしない。
 騎士団に入団したての頃、先輩に誘われて一度だけ途中までの行為をした事もあったが、虚しさを感じた彼は一晩買っただけの金を置いて帰った。
 それ故彼は娼館では楽に稼げる太客として娼婦の間で心待ちにされていたのだが滅多に行く事は無かった。


 それだけ彼は身持ちが堅かったし、気持ちの伴わない行為が好きではなかった。
 カトリーナと出会ってからは付き合いの為の娼館に行く事も無かった。

 そんな彼の理性を一瞬にして弾き飛ばしたのがカトリーナだった。

(すごく、柔らかくて、ふわふわで……)

 昨夜の事を思い出すと途端に身体が熱くなる。まるで初めてを覚えた若者のようだと苦笑した。
 だがこれきりにしようと。
 いくら誘惑されたとはいえ、記憶が戻った時の事を考えればこれ以上手を出さない方がいいだろうと、ディートリヒは頭を振った。


「よぉ、昨夜は大変だったな」

 団長執務室に入ると出迎えたのは騎士団長であるディアドーレ侯爵だった。
 剣を振るうより執務のほうが性に合ってると、訓練はディートリヒに任せている変わり者だ。

「団長……、その…」

「おめでとう、になるのかな?」

 ディアドーレ侯爵はにやりと笑う。彼もまた、ディートリヒの想いを知る人物であった。

「自分は……奇跡のようですが、彼女にとっては…」

 目を伏せ顔を歪ませるディートリヒを見て、侯爵は「ま、そうだろうな」と小さく溜息を吐いた。

「だが婚姻届は受理されてるんだろう?」

「……王太子殿下が提出されたようです」

 騎士団へ寄る前に貴族院にて確かめた。
 もしも受理される前ならば撤回を求められるかもしれない、と。
 だが王太子命令により朝一番で受理され、ディートリヒとカトリーナは正式に夫婦として届けられていたのだ。

「ならば腹を括れ。お前の傷は嫌われる一因かもしれないが、誠実な態度で接していればそれなりの関係は築けるだろう」

 ディアドーレ侯爵の言葉にディートリヒは俯いた。
『それだけでは嫌だ』と思ってしまうのだ。

 こんな事になるまでは遠くから見ているだけで良い、守れるだけで良いと思っていた。
 だが自分だけに見せた表情を、これからも見せてほしいと願ってしまった。
 そしてできれば、愛し合える関係に──

 そこまで思考してディートリヒは自嘲した。

 いつの間に欲深くなってしまったのか。
 記憶が無いから拒否されなかったが、記憶が戻ったらどうなるのだ、と。
 あの冷たい眼差しを思い返す。
 ──やはり誠心誠意謝ろう。
 そして今夜からは別々の寝室で寝よう。
 たった一度きり、幸せな温もりを貰えた。それを思い出にしようと、決意をしたのだ。

「今日は書類を提出しに来ただけですので、少し身体を動かしたら帰ります」

「失礼しました」と言ってディートリヒは団長室を後にした。

「もっと欲深くなれよ、ランゲ伯爵」

 残されたディアドーレ侯爵はぽつりと呟いた。




 帰宅した後にディートリヒとカトリーナは話し合い、その後入用の物を買い出しに出掛けた。
 昨夜使用した分は客用(主にディートリヒの姉が来た時にと買っておいたもの)だったので、買う物はカトリーナ自身の服や小物などが主な物だ。
 ドレスなどはディートリヒが見立てたり店員の意見を参考に既製服を購入した。

「好きなように仕立てても構わないよ」

 そう言ったが、カトリーナはふるふると横に振った。

「好みが分からないので……仕立てるのは記憶が戻ってからにします」

「……そうか」

「だんなさまはどんなものがお好みですか?」

「私?私は……君が着るなら何でも…」

「そっ、そう、ですか……」

「あ、ああ……」

 お互い照れながら、顔を赤らめながらの会話は周りからすれば甘くなる。
 店先で二人だけの甘い空気を出す夫婦に、店員は空気になるように徹していた。

(幸せだな……。しっかり記憶しておこう)

 日常の、何でもない事を胸に留める。記憶が戻ればこういう事もなくなるかもしれないと思ったからだ。

 晩餐後、ディートリヒはカトリーナに告げた。
『君の記憶が戻るまで閨ごとはやめておこう』と。
 カトリーナは一瞬目を見開き、小さく頷いた。


 だがその夜、湯浴みを終え寝室にやって来たディートリヒは驚愕した。何故ならベッドに腰掛けていたのは先程閨事はやめておこうと言って承諾したはずの妻だったからだ。

「カッ、カトリー、ナ……?な、んでいるのカな?」

「ふ、夫婦、ですから、やっぱり同じ部屋で寝たいな、って」

 薄い夜着に身を包み、指をもちもちさせながらチラチラと見る様はディートリヒの理性をかすめ取って行く。

「カトリーナ……その。君に無体な事はしたくないんだ。だから、君の……部屋で…その」

 意図的に見ないようにして言葉を絞り出す。見たら最後だと己に言い聞かせて。

「独りは……寂しいのです…」

 ぽつりと呟いたその言葉は、小さくディートリヒを跳ねさせた。

「朝、あなたが隣にいて、温かくて。記憶も何も無いのに、嬉しくて」

 ごくりと唾を飲み込む。

「そ、それに……貴族の結婚は、後継をもうけるのも、ありますし……」

「私はその為に君を抱きたいわけでは無いよ…」

 ディートリヒは少し悲しげな目をしてカトリーナを見た。

「義務で、したわけじゃないんだ。君を……君の事が好きだったから、だから嬉しかったんだ」

「だんなさま……」

「今だって君と一緒に眠りたい。だが、君の身体の事もあるし、それに……」

 そこまで言うと、カトリーナはディートリヒの手にそっと自分の手を重ねた。

「私も、あなたと一緒にいたいのです……」

 そう言って、えいっと口付けられる。
 ディートリヒはいきなりの事に驚いた。

「だ、だから、誘惑しますっ」

 顔を赤くして、カトリーナは宣言する。
 拙い口付けによる攻撃は、ディートリヒには会心の一撃であった。
 どんな敵よりも手強いと、その時彼は悟った。


 ブツリと何かが切れた音がする。


「カトリーナ、俺は反対したぞ。煽ったのは君だからな」

「えっ」

「俺は君には勝てないよ」

 そうして口付けは深くなる。
 結局彼の誓いはアッサリとカトリーナに突破され、新婚夫婦の夜は甘く続く。

 続く度溺れ、手放せなくなる。
 卑怯でも、ずっと一緒にいたい。

(記憶が戻っても、君を愛したい)

 疲れ果て眠ってしまった妻を抱き寄せ眠りにつく。

 そして翌日再び悩み、夜の誘惑に勝てず、数日繰り返すうちにとうとう彼は陥落した。
 開き直ったと言ったほうが早いのか。


 ともあれ、そんな攻防が、これからのディートリヒに与えられた試練となるのだが。

 それすら今の彼には幸せの一助となるのであった。