王宮に行く時、彼の心はそわそわしている。
 鏡に映る自分を何度もチェックしながら、百面相になりながら。

 そして鏡を見る度目に入る大きな傷に一憂して、何度も何度も自分を戒める。
 それでももしかしたら会えるかもしれない、会えないかもしれない。
 遠くから見れるかもしれない。
 そんな期待が上回る。

 ディートリヒ・ランゲは訪れた恋に浮き立っていた。


 二十歳の時に騎士団に入団した彼は順調に仕事に専念していた。
 入団と共に伯爵家嫡男としての義務として、両親から婚約をせっつかれ、見合いもしていた。
 その中でまぁまぁ気の合う令嬢と婚約し、一年の準備期間を経て間もなく婚姻を結ぶはずだった。


 ──婚姻の直前に自身の両親が馬車の事故で亡くならなければ。

 婚約者とはそれなりの関係を結べていたし、愛し合う関係にいつかなれたらとは思っていたが、両親の死を機に婚姻は延期される事になった。

「こんな事になってすまない」

「いいえ、ご両親の事はお気の毒でしたわ。私の事は気になさらないで」

 婚約者は微笑み、ディートリヒを支えてくれた。
 埋葬される両親を見つめながら、「彼女を選んで良かった」と思えるくらいには婚約者を大切に想っていたのだ。

 喪に服す為婚約は一年延期され、更にその間に隣国との戦が勃発。
 ディートリヒは騎士として出征する事になった。

「帰って来たら結婚式を挙げよう」

「ええ、お待ちしております。お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 笑顔で見送られ、意気揚々として出征した。
 だがその戦が、彼の転機であった。


 騎士として頭角を現していたディートリヒは、単騎がけで戦場を掛け巡った。

(早く、早く帰って彼女を安心させてやりたい)

 彼の想いは婚約者への好意で溢れていた。
 愛しているか、と言われれば分からないが、大切にしよう。大切にしたい。そう思っていた。

 その想いを原動力としてか、次々と敵を屠る彼は敵からは「戦場の死神」として恐れられ、味方からは「救国の英雄」と賞賛された。

 やがて泥にまみれながら敵国の将軍を追い詰める。

「将軍閣下、貴殿の命、貰い受ける!」

「ハッ、若造が!!20年早いわ!」

 雨の中、剣閃が舞う。
 だが両者一歩も引かぬ戦いは、若く体力のある方に軍配が挙がった。

「が……はっ…………おの、れ、……」

 心臓を貫かれながらも将軍は剣を振りかざし、自身の命を奪う若者に愛剣で最期の一太刀を浴びせた。
 だが力無く致命傷には至らない。

 それでも、ディートリヒにとっては後に運命を変える一太刀であった。


 将軍が敗れた知らせは敵国に瞬く間に拡がり、戦意喪失した敵国は白旗を上げた。

 これで、これでようやく。
 家に帰れる。
 ディートリヒを讃えながら騎士たちは勝利に酔い、安堵のため息を漏らす。

 ディートリヒ自身も婚約者を想い、帰ったら結婚式だ、と胸に希望を抱き帰還の時を待っていた。


 だが、帰還した彼を迎えた婚約者は、彼の顔の大きな傷を見て慄き、悲鳴を上げた。

「ひっ、……っ!来ないで!」


 後日、「すまないが婚約の話は無かった事に……」と、婚約者の父から言われ、ディートリヒは頷くしかできなかった。


 婚約者との結婚を見据えて早く帰還をと頑張ってきたディートリヒは絶望した。
 騎士としての此度の働きに誇りを持ち満足していたが、心の支えを失った彼はすっかり気落ちしてしまったのだ。
 だが、幸い彼の周りは温かい人で溢れていた。
 とりわけ使用人たちは暗い表情でいた主を慮り、常に明るく振る舞った。
 そっと心に寄り添い、少しずつディートリヒは気持ちを浮上させていった。

 数ヶ月後、戦後処理を終えようやく戦の勝利を祝う王家主催の夜会が執り行われる事になり、平民出身の騎士たちさえ招待され彼らの武功を称え、労った。

 当然ディートリヒも参加した。

 彼の顔にできた大きな傷は化粧などで隠れるものではなく、元婚約者を慄かせる原因ともなったそれを衆目に晒すのは気が引けたが、王自らの招待を断れるわけもなく。

「見て、あの大きな傷」
「恐ろしいわ……」

 ヒソヒソと囁かれる自分の噂話は嫌でも耳に入っていた。

 戦で勝利を掴んだのに、彼は婚約者を失い社交界での評判を失い、顔に大きな傷だけが残ってしまった。

 そのうちディートリヒには社交界で不名誉な通り名「醜悪伯爵」が付く事になった。

「今宵は戦勝会である。騎士の皆よ、大義であった。戦の疲れを癒やすと良いだろう」

 陛下の声が遠くに響く。

 救国の英雄は、開始早々に会場をあとにした。


 その後の戦勝の報酬は、陞爵を辞退した。
 だがそれでは示しがつかないと、国王から子爵位とその領地、更に莫大な報奨金が与えられた。
 ランゲ伯爵家嫡男として領地の経営をしなければならないが机仕事が苦手なディートリヒは全てを家令に任せ、必要最低限だけをしている。
 その為過ぎたる報酬は身に余ると陞爵は辞退したのだった。
 報奨金は使用人の臨時給与に充てたが、それでも唸るほど余っている。
 財産管理を任された家令は、領地に使った残りは将来必要になるだろうと貯蓄に回した。


 ある日、ディートリヒは騎士団の予算申請書を財務部に提出しに行く途中、柱の影に佇む女性を見つけた。

 金の髪が日に照らされ、瞳は空を映したように澄み渡る色をしたその女性は、上を向き何かを耐えるように唇を噛み締めていた。

 まだ顔立ちに幼さは残るが、将来絶世の美女となるだろうと予想できるその女性からしばらく視線が外せない。

「……大丈夫。私は淑女、私は淑女」

 ぶつぶつと何かを呟き、瞳を閉じるとぽろりと一筋頬を伝う。
 ディートリヒは慌ててその場をあとにしたが、少女の涙が気になって仕方なかった。


 その後、庭で茶会をする女性陣の中に先日見た女性の姿を見る。
 あまり良い空気でないのが遠目にも分かるくらい、女性は孤立していた。

 だが、淑女らしく背を伸ばし笑顔を絶やさない。
 その姿が目に焼き付いて離れなかった。


 それから度々同じ女性を見かけ、ディートリヒは陰ながら応援するようになっていた。
 自身と同じように蔑まれ嫌味を言われても笑顔で本音を隠す。その姿に人知れず逆に励まされている自分に気付き、ディートリヒは苦笑した。

(自分より年下の女の子が頑張っているのに)

 それから彼は名も知らぬ女性に惹かれて行くのだった。