ランゲ伯爵邸の使用人たちは、主の幸せを願っている。

「ソニア、奥様の好きなお菓子できたから今日のティータイムに出してくれ」

 厨房を預かる料理長は焼き立てのお菓子をきれいに盛り合わせた。
 彼はいつも主二人の健康や好みにあわせて腕を振るう。

「いつも美味しい料理をありがとう」

 奥方が笑顔で言うと、それだけで厨房の者たちは張り切るのだ。


「そろそろ庭の花が見頃だから、お二人で花見でも、って伝えてくれ」

 庭師も自慢の花をしっかり整えた。

「みんなが好きなお花を植えましょう」

 主がそう言って使用人たちが各々好きな花を植え、誰もが楽しめる庭にした。

 その内の、とある白い花だけは元々伯爵家の庭に咲いていたものだ。
 それはディートリヒの希望で残したものだった。


 伯爵家の使用人たちは、自分たちの主人が大好きだ。
 自分たちを常に気遣い、労う主人に仕える事が嬉しい。
 だからいつも喜んで貰えるよう、仕事に励むのだ。


 館の主であるディートリヒ・ランゲは13歳の時に騎士団の寄宿学校に入った。
 伯爵家嫡男という事で当時は家族に難色を示されたが、ディートリヒの説得によりしぶしぶではあったが了承された。卒業後は20の時に騎士団に入団した。

 アーレンス王国が隣国から侵略された時に活躍したのが彼だった。
 当時23になったディートリヒは当時の婚約者との結婚間近だったが折り悪く自身の両親が事故で他界。
 その事で結婚が延期され、その間に侵略戦争に駆り出され、彼の顔に大きな傷ができてしまったのもこの時だった。

 左の頬から鼻筋を通り右の眉間に延びる傷は敵国将軍の執念の為か深く、塞がったあとも生々しく残った。
 それを見た婚約者は慄き、結婚自体白紙となった。

 この時の彼の絶望は計り知れないだろう。

 姉は既に他国へ嫁いでいて、弟は騎士団の寄宿学校に入っていた。
 社交界では一部の者から「醜悪伯爵」として侮蔑され、嘲笑の的となった彼の孤独は増していた。

 使用人たちは彼に立ち直って欲しいと真心を尽して接し、彼の孤独と傷を癒やしていた。

 そんな彼がいつしかぼーっとするようになった。
 かと思えば休日も鍛錬に打ち込む。
 気付けば溜息を吐く。

 長年彼を見て来た執事のハリーは、主の変化に戸惑っていたが鋭い侍女やメイドは

「恋煩いじゃないかしら」
 と指摘する。

 よくよく見てみると、仕事に行く時、王家主催の夜会の時。
 決まって王城に出向く時身なりをしっかり整えてキリッとして行くのに、帰って来てからは溜息を吐く事があるのに気付いた。

「きっと王城に気になる方がいるんだわ」

「でも恋人がいるのよ、その方に」

「きゃ~~秘めた恋!」

 好き勝手に妄想する女性陣を、複雑な顔で見ていたのはディートリヒに付き従って登城する侍従のトーマスだった。

 付き従える範囲が限られている為想像に留まるが、恋する相手がいるのはトーマスからも見て取れた。

 その相手も何となく想像がつくし、もし正解なら主の行動にも納得がいく。

 だが、本来ならばその相手に懸想するなどあってはならない事なのだ。


 なぜなら、その相手は。
 王太子殿下の婚約者。未来の王妃。未来の国母。

 カトリーナ・オールディス。

 そうでなくとも相手は公爵家令嬢。
 伯爵と身分差もあった。ディートリヒより8つも年下で年齢差もあった。

 さらにディートリヒは彼女から嫌われていると自覚していた。

 全ては顔に残る傷跡のせい。

 だが、この傷跡が無ければ彼は今頃既婚者となっていた。
 今、心だけは自由に想えるのは傷跡があるから。

 ──傷跡があるから彼女に囚われた。

 どちらが良いかは分からない。

 どうにもできない想いは募り、王城で見かける度、夜会で美しく着飾っているのを見る度。
 彼の心はどうしようもなく高鳴り、行き場の無い想いを燻らせていたのだ。

 だがある日、明らかに使用人の誰から見ても、主が意気消沈した時があった。
 王城主催の、とある夜会から帰宅した時。
 出迎えた執事のハリーはいつになく顔色の悪い主が気になり薬湯を、と持って行ったところ、静かに涙していた姿を見てしまった。

『この傷が無ければ……』

 結局肩を震わせている主に声を掛けられず、その場を後にしたのだ。

 その後彼はいつも通りに振る舞う主に合わせ、いつも通りに振る舞った。
 だがこっそりと、使用人たちは落ち込んだ主の為にさり気ない優しさをもって接した。

 食事に好きなものを増やしたり、こまめに気分転換を提案したり。

 それもあってか、ディートリヒは次第悲しみが癒やされていき自分のすべき方向を変えたのだ。

 〝嫌われているなら、遠くから。自分にできる事をしよう。国を守る事が彼女の為になるならば、剣を振るい続けよう〟

 そう決意した主が、まさか想い人と婚姻し、その日のうちに連れ帰って来た時使用人の誰もが驚いた。

『彼女……カトリーナ嬢は記憶が無い。とても心細いと思うから、みな良くしてやってくれ』

 そう言って使用人に頭を下げた。

 記憶が戻り、カトリーナが荒れた時。

『今は記憶が戻ってから混乱しているのもあると思う。だが彼女の目を見れば本音が分かるから、どうか察してやってほしい』

 どんな状況でも己の愛する女性を思いやり、頭を下げる姿勢に、使用人たちは否やは言わなかった。

 誰もが主であるディートリヒの恋を応援し、女主人であるカトリーナを敬愛した。
 だから、二人が愛し合う夫婦となり、仲良くしている事が使用人たちは嬉しかったのだ。


「いやあ、あの時はホント、ディートリヒ様正気?って思いましたよ~」

 休憩室のおやつを摘みながら、侍従のトーマスが言う。

「『今日から妻になった』っていきなり連れて来たからびっくりしますよねぇ」

 カトリーナ付きの侍女ソニアがクッキーを口にする。

「それからの主の顔がもう、にやにやしっぱなしで!」

 ぷぷっ、と笑うのはカトリーナが王太子に謁見した時に着いてきた護衛のベルトルト。

「奥様が来られてから領地経営も捗って助かります。何より私の休みが増えました」

 感極まったように話すのは家令のフーゴ。

「……でも、幸せそうで良かったですよ」

 マグカップを持ちながら優しい目をするのは侍女長のマルタ。

「そうですね。大旦那様達が亡くなられて、旦那様の結婚も白紙になって。一時期はどうなるかと思いましたが……
 きっかけはあれですが、奥様が来て下さって良かったです」

 執事のハリーも目を閉じて回想する。

「奥様といえば、王太子殿下に謁見した時に『ディートリヒ・ランゲの妻です』って宣言した時思わず『よっしゃ!』ってなったわ。それまで自信無さげだったからまだ嫌なのかな~ってちょっと思ってたのよね」

 カトリーナ付きの侍女エリンは当時を思い出す。

「奥様、無自覚に旦那様好き好き~ってなってたわよね。それをガツン!!て宣言したのカッコ良かったのよ」

「最初はまあ、八つ当たりもされたけど、その後すっごく気にしてるのがすっごく伝わって来てね。叱られた子猫みたいで可愛かったわ」

「あ~、わかる!口では辛辣でも目がね!態度がね!許しちゃう」

「そんな奥様だから旦那様も構いたいんだろうなぁ」

「旦那様も奥様への好きが溢れてるよな。戦場の死神?ナニソレ誰の事ってくらい空気が緩い」

「想い合う夫婦ってステキ。はー、もう眼福ごちそうさまです!って感じ」

 わいわいと主を褒め称え、使用人の休憩室のおやつが切れかけたところで、お開きの合図となった。


 今は夜も更ける頃。
 使用人のミーティングと称した座談会は終了である。


 ランゲ伯爵邸の使用人たちは主夫妻が大好きなのであった。