「……公爵閣下は不在か……。あとで使いを出そう。……すまない、君を守れず……」
「いえ、あなたは私を守ろうとして下さってました。あの場では王太子殿下……に逆らう方が難しいでしょう?
……あなたがいて下さって良かったです」
ディートリヒは自身の情けなさに目眩がしそうになったが、奥底で喜びがあるのも事実だ。
奥底に秘めた想いが、溢れだすのが分かる。
手の届かない存在だった女性が、何の運命か自身の妻になった。
記憶が無いので卑怯だとか罪悪感もあるにはあったが、今の状況が彼にとって僥倖である事も確かだった。
「……と、とりあえず、ここを出なければ……。オールディス公爵令嬢はどうされますか?
ご実家にお帰りになるのであれば……」
「私たちは結婚したのですよね?」
「へっ?……あ、はい……」
「では、あなたの家に行きます。
私の父も不在のようですし、何かあれば守ってくださいますよね?」
その言葉にディートリヒは戸惑った。何かあれば守る事に問題は無い。
無理矢理とは言え結婚した二人ではある。
確かにディートリヒ宅に行くのが普通だろうが。
「あと、私の事は名前で呼んで下さい。
……自分の名をきちんと把握したいのです」
想いを寄せる女性から、頼りなげに、だが少し顔を赤らめて言われて断れる男はいないだろう。
「では……、……カトリーナ……嬢」
「嬢はいりません。夫婦ですから」
えっへんと言われて、ディートリヒは陥落した。
記憶が無いとは嘘だろう?と疑うが、自身を見る目に以前あった侮蔑が無い為記憶が無いのも頷ける。
「カトリーナ……」
「……はい」
小さな声で躊躇いがちに名前を呼ぶと、花が綻ぶような笑顔を返され。
ディートリヒは観念した。
「では、我が家へ行きましょう。……立てますか?」
「えっ……と、手を貸していただければ」
階段から盛大に落ちたのだ。
打ち身だけとは言え心配したディートリヒは、妻となったカトリーナに「失礼」と断り横抱きにした。
「無理をするといけない」
「は……はい……」
互いに顔を真っ赤にして、医務室を出た。
「ディートリヒ様、オールディス公爵は……」
外に待機していたディートリヒの侍従のトーマスは、医務室から出て来た主を見てぎょっとした。
「これはどういう?」
主が顔を真っ赤にして、ぎくしゃくしながら顔を真っ赤にした女性を横抱きにして歩いているのだ。
侍従になって数年経つが、このような主を見るのは初めてで戸惑いを隠せない。
「トーマス、彼女は私の妻になった。詳しい説明は後でする」
「はぁ!?正気ですか?幻ですか?この方がどなたかご存知でしょう?」
「よく知ってる。だから後で説明する。帰宅するから馬車をまわせ」
「はあ……。とりあえず呼んで来ます」
くるりと踵を返しトーマスは去って行く。
その後ろをゆっくり進み、やがて側に着けられた伯爵家の馬車に横抱きにしたまま乗り込んだ。
「あ……の…」
「?なんだ?」
馬車まで横抱きにしたままなのは、カトリーナが無理をするといけないから、というのは理解した。
が。
馬車に乗り、席に座ってもそのままなのはどうなのだ、とカトリーナは混乱した。
このままで良いのか、降りた方がいいのか。
だがディートリヒは気にせず膝に乗せカトリーナの腰と膝に手を回している。
ずれないようにしっかり支えているので動かなければ落ちないだろうがまともにディートリヒの顔を見れなかった。
自身で気付いているのかいないのか、未だに二人の顔は赤いまま。その動きもぎこちなく、身じろぎするだけでギシギシ音がしそうな程だった。
その二人の向かい側に座るトーマスはいたたまれず、目を逸らしてなるべく存在感を消しながら早く馬車が伯爵邸に到着しないかと祈っていた。
伯爵邸に着いてからも、ディートリヒはカトリーナを横抱きにしたまま降り、そのまま邸宅に入る。
「お帰りなさいませ旦那さま……ぁああ!?」
主の帰りを出迎えた執事はいつもと違う主の様子に思わず語尾を上げた。
「ハリー、今日から妻になった」
「へぁ!?」
長年ランゲ家に尽してきた執事のハリーは驚きのあまり変な声が出てしまった。
(妻?誰が??ディートリヒ様はいつの間に妻になったのだ??)
ランゲ伯爵家執事のハリーは大変混乱していた。
「ハリー、部屋の準備を」
「は、はっ、只今!……どちらに……」
「女主人になる者の部屋は一つしか無いだろう!」
顔を真っ赤にした主の様子に、ハリーは益々混乱しながら使用人に指示を出しに行く。
「すまないな。疲れているだろう?このまま休むか?」
「ええ……。その前に湯浴みしてもよろしいでしょうか?」
「部屋にあるから用意させよう。今日は早めに休むといい」
「ありがとうございます……」
そんな二人のやり取りを、その場にいた使用人達は頭を下げたまま聞き流していた。
もっとも、甘い空気にあてられて右から左に流れたはずが再び右から入って来るから戸惑いを隠せない。
主が通り過ぎた後、後ろ姿を見送る際に主が妻となった女性に対して優しい眼差しをしていたのは誰もが見逃さなかった。
婚姻を結んだ二人は、その日が初夜だった。
だが、ディートリヒはカトリーナの記憶が戻ってからでも良いのでは、と思ったし、そもそも階段から落ちたので今日は無理だろうと思っていた。
それと同時に好きでもない自分に無理矢理嫁がされて哀れに思ってもいた。
なので、1年白い結婚で過ごせば離縁できると思い、ディートリヒからは手を出さないでおこうと決めていた。
しかしそんな彼の思惑はあっさり裏切られた。
ディートリヒが湯浴みから戻って来ると、なんとカトリーナがベッドにちょこんと座っていたのだ。
その姿は艶めかしく、瞳は潤んでいる。
先程決意したものがアッサリ瓦解していく。
それでも何とか理性を繋ぎ、ゆっくりとカトリーナに近寄る。
「こ、ここで、寝る、のか……?」
ごぎゅっと唾を飲み込む音がやけに響いた気がする。
カトリーナは一瞬ぴくりと肩を震わせ、ディートリヒを見上げた。
「今日は……初夜なのでしょう……?」
顔を赤くして、ディートリヒの服の裾を引っ張るその仕草が、必死にかき集めた理性をかすめ取って行く。
(記憶が無い筈なのに何でその知識は忘れてないんだ!?)
「い、いや、きょ、今日は……その、ほら。足も悪いし、頭も、たんこぶあるし、その……、無理をしては…いけないだろう?だから」
「わたくしではお嫌ですか……?」
潤んだ瞳で見上げられれば否とは言えないだろう。
この誘惑に抗う術をディートリヒは必死に探していた。
(お、落ち着け。落ち着くのだ。そうだ、騎士団の訓練の時の上半身裸になった仲間たちを思い浮かべて)
「だんなさま……?」
「ふぁ!?」
必死に思い浮かべたものが霧散していく。
なぜなら、カトリーナがベッドに膝立ちになり、ディートリヒの身体に腕を回したからだ。
ふわん、と良い香りが鼻孔をくすぐる。
鼓動が部屋の外まで響くのでは無いかというくらい鳴っている。
もう無理だった。
抗えなかった。
ごくりと唾を飲み込む音が部屋中に響く。
瞳に熱を宿したディートリヒは、カトリーナの腰を自身に寄せ、深く口付けた。
打ち身の身体を考えて、負担の無いように抱いた。
優しく、甘く、カトリーナを蕩かしていく。
カトリーナも、ディートリヒから与えられる熱を、痛みを、全てを受け止めた。
自分でも怪我人に対してする事ではないと飽きれたが止まらなかった。
「愛しているんだ……」
愛しい女性を腕に抱き、掠れた声で絞り出すように口にする。
幸せだった。
記憶が戻ったら、二度と抱けなくなるとしても。
手の届かないと思っていた華が、目の前で自分に縋ってくれる事が。
熱に浮かされながら自分の名を呼んでくれる事が。
「醜悪伯爵」として蔑まれてきたディートリヒにとって、この時が今までで一番幸せだったのだ。