騎士団の詰所に行った日の晩餐にて、カトリーナはじっとディートリヒを見つめていた。

 ディートリヒが視線に気付いて顔を上げるとぱっとそらす。
 が、視線を外すとまたチラリと見てくるのだ。

(かわいい……)

 何か言いたげではあるが、言えない。
 ディートリヒはカトリーナのそんな雰囲気を感じ取っていた。


 カトリーナが詰所から帰ったあと。

 彼は貴族筋の騎士から質問責めにあった。
 あの場所にいた部下の殆どは平民出身である為カトリーナの事を詳しく知らないが、貴族であればある程度は耳にしていたのだろう。
 以前の彼女を知っている者──とりわけ、カトリーナの事を婚約者や妻など身内の女性から聞いている者は困惑を隠せなかった。
 自身の身近な者から聞く話と、実物とに乖離があったからだ。
『高慢で下の者を見下す女性』
 それがカトリーナの社交界での評判だった。
 しかし間近で見た女性は慎ましく、照れながら食事をしていた。
 少なくとも彼らが見たカトリーナは、騎士たちに遠巻きに見られながらも『高慢で下の者を見下す』真似はしてなかったのだ。

「王太子殿下の命令は仕方無いとして、副団長はそれで良いのですか?」

 ディートリヒとて以前の彼女の評判は知っている。だがそれは彼にとって大した問題では無かった。
 本来の彼女とは違うと知っているからだ。

 それより、これからの関係改善の方が重要なのだ。
 記憶が無いうちは「愛している」と囁きあった関係だが、戻ってからは彼女からそういう言葉は聞けていない。
 嫌われてはいないというのは分かったが、かと言って好かれている自信も無い。
 カトリーナのディートリヒに対する気持ちは未だに分からないままだった。だから実質片想いに逆戻りなのだが。

 以前と違うのは、恥ずかしがっているせいかまともに視線も絡まないが、かつてあったような侮蔑は無い事。
 少しずつではあるが、甘えるような仕草がある事。
 時折笑いかけてくれること。

 それらの事を思い出すと自然に頬が緩む。

「実際に接してみると意外と違ったりするんだ。だから自分の目を信じてほしい。
 彼女の件は俺が望んで側にいるんだ。だから、いいんだよ」

 柔らかく微笑むディートリヒに、悪感情は無い。むしろ妻を愛おしむような瞳に彼らは二の句が継げなかった。
 元々ディートリヒがカトリーナに懸想している事は騎士団長しか知らなかったが、その表情を見れば一目瞭然。
 貴族騎士たちも、それ以上は何も言わなかった。


 晩餐のデザートまで食べ終えて、カトリーナは意を決したようにディートリヒを見た。

「あ、あのっ。だんなさま」

「なんだい?」

「あとで、お話があるのですがっ。この、あとに、少しよろしいでしょうか」

 いつもであれば食後はすぐに自室に引き上げ、朝晩以外にあまり会話も無かったカトリーナからの話。
 領地の事を話したり事務的な会話は良いが、まだ気恥ずかしさが勝ち距離を詰められないでいる。
 そんな中、改まっての事。
 よほど何かあるのだろうかと真剣な顔になった。

「分かった。食堂は片付けるだろうから、場所を変えよう」

 それから二人は談話室へと移動した。

 向かい合わせに座ると、使用人が用意したハーブティーを緊張をごまかすように一口含んだ。
 どちらとも口を開くのを躊躇いしばし無言の時が流れたが、やがてカトリーナは居住まいを正しディートリヒを真っ直ぐ見据えた。

「旦那様……。いえ、ディートリヒ・ランゲ伯爵様」

 カトリーナの真剣な表情と、その声音。
 何より『ディートリヒ・ランゲ伯爵様』という他人行儀な言葉に、呼ばれたディートリヒは息を呑んだ。

 この先に言われそうな言葉を想像して胸が痛む。
 独りにしないと誓ったし、気持ちも以前と変わらない。むしろ以前より増している。だからもしその言葉であっても毅然として拒否しなければならないと身構えた。

 だがそんなディートリヒの意に反して、カトリーナは頭を下げた。

「ディートリヒ・ランゲ伯爵。私、カトリーナ・オールディスはあなたに対しての数々の非礼をお詫び致します」

 それは思いもよらない言葉だった。

「カトリーナ、頭を上げてくれ。俺は気にしてない」

「いえ。……私は今まで間違っていました」

 頭を上げたカトリーナは、まっすぐにディートリヒを見た。

「私は、王太子殿下の婚約者でした。その立場にいながら、あなたを侮蔑の目で見ていた。
 感謝し、称えなければならないのに」

 国を代表する者として、平等に接しなければならないのにそれを怠った。
 ただ、顔に大きな傷があるというだけで。

「あなたのその傷は、国を守った時にできたのでしょう?……本来ならばあなたを労い、社交界での噂を窘めなければならなかった。
 それをせず、率先してあなたを辱めた事は償っても償いきれません」

「カトリーナ、気にするな。君がそれとなく話題を変えてくれていた事は知っている」

 カトリーナは目を見開いた。

「それは……あなたの為ではなく、私の」

「それでも」

 ディートリヒはカトリーナの言葉を遮った。

「それでも、君の優しさを感じていた。
 俺は嬉しかったんだ。君の態度は、嘲りや侮蔑だけでは無い。君でも気付かない内に、申し訳なさとか思いやりが混ざっていた。君は……気にしていたんだろう?俺を傷付けたのではないかと」

「それ……は……」

 ディートリヒは妻の側に寄り添うように座り直し、そっと、カトリーナの手を取った。

「確かにこの傷ができてから離れた人もいる。当時婚約者だった女性にも疎まれた。
 だが、今は君という最愛の妻を迎えることができたんだ。君にとっては罰でも、俺にとっては降って湧いた幸運だった」

「だんなさま……」

「俺の方こそすまない。君を離してやれない。何があっても守ると誓ったし、記憶が無くても、記憶が戻っても、君を愛することに変わりは無い」

 真摯に見つめられ、カトリーナはディートリヒから目をそらせなかった。

「あなた……蔑まれていた相手に惚れるって、変よ……」

 やがてカトリーナはぷい、と視線をずらした。

「君の本心が別にあったからだよ。君以外はそのままだけど」

 カトリーナは自分でも気付いていなかった。
 いや、気付いていても、気付いていないふりをしていた。王太子の婚約者として感情を優先させる事を良しとしなかった。
 また、上に立つ者として簡単に頭を下げるなど、ましてや本心を曝け出す事などできなかった。

 並大抵の精神では王太子の婚約者は務まらなかったのだ。


 それから再び視線を戻し、しばし、見つめ合う。

「……あなたの、傷に触れても……?」

 カトリーナからの要望に、ディートリヒは目を見張り、そして笑った。

「歓迎だ」

「目、目は閉じて下さい」

 見つめられながらは恥ずかしかったの閉じてもらう事にした。少し残念そうな表情をしたが、ディートリヒはやがて目を伏せた。

 カトリーナはディートリヒの顔の傷に指を添える。
 先の戦いから年月は経ったが未だ盛り上がり、その様が痛々しい。
 左の頬から鼻を通り右の眉間まで伸びる傷。

 何度も、何度も、優しくなぞる。

 以前は美丈夫として令嬢に人気もあったディートリヒの端正な顔にできた傷。
 やがて指の動きを止め、カトリーナは無意識にまるで吸い寄せられるように唇で触れた。

 瞬間、ディートリヒの肩がはねた。

「……っ!!すっ、すみません!!」

 カトリーナは弾かれたように正気に返り、座っていたソファから転げ落ちるようにして離れ、ばたばたと談話室をあとにした。

 残されたディートリヒは今何が起きたか掴めず、しばらく呆然としていた。

 それから自身の傷に触れ、カトリーナの顔を思い出し。


「はぁ~~~~……………」

 両手で熱くなる顔を押さえたのだった。