「ふむ、記憶喪失ですね」

 医師の診察を受けても困惑を隠さないカトリーナを、ディートリヒ始めデーヴィドもシャーロットも呆然と見ていた。

「記憶は戻るのですか?」

 ディートリヒの問に、医師は頭を振った。

「頭部には異常はありませんが、今は何とも申せません。戻らない事もありますし、突然戻る事もあります」

 その言葉に握っていた拳に力が入った。

「殿下、お聞きになりましたね?公爵令嬢がこのような事態であれば、令嬢の父であるオールディス公爵の判断が必要です。今すぐ婚姻を結ぶ事はできません」

 静かに、唸るようにディートリヒは口にする。
 まとう空気は辺りをひりつかせた。
 カトリーナが望まない婚姻はすべきではない。何とかこの状況を回避したかった。
 王国の盾として知られているディートリヒではあるが、身分は伯爵。王太子の命令には逆らえない。
 だが、今だけは、自身がどうなろうとカトリーナを守る為に反抗する。

 だが、ディートリヒの抵抗を嘲笑うかのような無慈悲な言葉が響いた。

「ディートリヒ様がカトリーナ様に対して責任持てば良いではないですかぁ?
 デーヴィドは元々そう言ってたんだし」

 シャーロットはけろりとして笑う。
 ディートリヒは思わずぎろりと睨んだ。
 見知らぬ者から自身の名を許可無く呼ばれた事もだが、カトリーナの気持ちを無視した発言に苛立ったのだ。

「なぁによぉ……。こっわぁ」

 びくびくしながらシャーロットはデーヴィドの後ろに隠れた。
 ディートリヒに気圧されていたデーヴィドは、一瞬びくりとしたが、咳払いして向き直る。

「そ、そうだ。元々そういう話だったろう?王太子である私の命令だ」

「殿下!あなたには長年婚約を結んでいた相手に情けは無いのですか!?」

「私のシャーロットを虐げていたのだ!そんな女にかける情けなど無い!!」

 はっきりと告げたその言葉は、ディートリヒの神経を逆撫で、シャーロットをつけあがらせ。

 カトリーナは無い筈の記憶に胸を痛ませた。


 先程から蚊帳の外で話が進んでいたが、カトリーナは記憶が無いなりに誰が自身を慮ってくれているのか見定めた。

 今、側にいる男性が。
 顔に大きな傷を作った男性が、自分に代わって抗議している。
 自分の身を思いやり、自分の盾になり代弁してくれている。

 目覚めて、己の事も分からないうちの短い間。
 その大きな背中に守られているような錯覚を起こしていた。
 いや、錯覚ではない。間違いなく、この男性は、自分を守ってくれている。カトリーナはそう感じていた。

 対して女性の腰を抱き醜い表情で叫ぶ男性に嫌悪感を抱いた。
 その手が寄せているのが自身では無い事になぜか少し胸が痛んだが、自分が選ぶべき人では無い事がよく分かった。

 そして、そこに自分の居場所は無いのだと、悲しみはあれど、どこか納得している自分もいて驚いた。

 やがて一度目を閉じ、そして見開いて。

「もう良いのです。……ディートリヒ、様……?
 あなたがご迷惑で無ければこの話お受けします」

「なっ……、しかし!」

「王太子殿下……、で、よろしいのですよね?
 なぜそういう風になっているかは存じませんが、ご命令を慎んでお受けします」

 真っ直ぐ射抜くような視線に、デーヴィドはたじろいだ。
 昔からこの視線が苦手だった。
 全てを見透かすような、真っ直ぐの目。
 透き通るような空色の瞳。
 ──そして、自分を波立たせる目線。

 それを振り切るかのように一度目を伏せ、再び開く。
 デーヴィドは侍従に指示を出し、婚姻届を並べさせた。

「……え、と、私の……名は……」

 名を記入する欄に戸惑い、カトリーナは手を止めた。

「カトリーナ・オールディスだ。……自分の名も分からぬとはな」

「申し訳ございません。……ありがとうございます」

 お礼と共に届けられたその微笑みは、デーヴィドの胸をざわつかせた。
 王太子妃教育が始まり、いつの間にか見れなくなっていた微笑みだ。
 自身の気持ちがさざなみ立つのが何故なのか分からず苛立つが、隣にいるシャーロットに微笑みかけられ気持ちを落ち着かせた。

 きれいな文字でサインをしたカトリーナは、文字は覚えていた事にホッとし、胸を撫で下ろした。それを複雑な心境で見ていたのはディートリヒだった。

「……本当によろしいのですか……?
 オールディス公爵……あなたの父上が戻られるのを待っては?」

 妻の欄に記入を終えたカトリーナに、再度問い掛ける。

「……今、ここに、その方がいらっしゃらないのであれば、王太子殿下のこの方の命令には逆らえないのでしょう?
 それに……私の味方はあなたしかいないみたい。だからあなたが迷惑でなければ……」

 困ったように微笑むカトリーナの言葉に、ディートリヒは息を飲んだ。
 迷惑などとんでもない。自分に都合良すぎて怖いくらいだが、カトリーナの事を思うと素直に喜べないのもまた事実。
 少しの間、顔を強張らせたがディートリヒもやがて腹を決めた。

 渡された羽根ペンを受け取り、ディートリヒもサインした。

 それを王太子の侍従が受け取り、王太子に手渡すとデーヴィドは一瞬顔をしかめ、手にした。

「これでお二人は晴れて夫婦になられたのですね!おめでとうございます!」

 シャーロットは手を叩いて喜んだ。
 夫婦となった二人は何とも言い難い表情のまま。
 デーヴィドはともすれば書類を握り潰しそうになるのを堪えた。
 訳のわからない苛立ちを隠し、息を吐く。

「これは私が貴族院に提出しておこう。
 ……ああ、そういえばオールディス公爵は陛下と視察に行かれていたな。
 手紙で報告しておくよ」

 そう言ってシャーロットの腰を抱き、医務室をあとにしたのだった。