翌日、カトリーナは伯爵邸の執務室に来ていた。ディートリヒに言われた領地の状況を確認しに来たのだ。

 何もする事が無いからと自身に言い訳をし、いそいそと向かうと、家令と執務机に座り難しい顔をしているディートリヒの姿が目に映った。

「ああ、カトリーナ、早速来てくれたんだね」

 控えめにノックして入室するとディートリヒが柔らかく笑み、そわそわと妻をエスコートしようと立ち上がるが、家令がキッと睨んだ。

「旦那様、先程も休憩と称して椅子から立たれてましたがまだ数分しか経っていませんからね」

「ぬぐ……、すまない」

 気まずげに仕方なく再び腰を降ろすと、しゅんと項垂れる様は大型犬のようでカトリーナは瞳をぱちくりと瞬かせた。

「奥様、お初にお目にかかります。ランゲ伯爵家が家令のフーゴと申します。以後よろしくお願い申し上げます」

 うやうやしく左手を胸に当て一礼した家令のフーゴは灰色の髪に赤目の青年で、右目に片眼鏡を掛けていた。

「この度は領地経営にご協力頂けるとお聞きして大変嬉しく思います。ご覧の通り旦那様はすぐに机から逃げようとなさいますので」

「フーゴ、俺はただ妻をエスコートしようとだな」

「奥様がいらっしゃる前からそわそわと落ち着きなかったではありませんか。そろそろ決済を急ぎませんと領民に影響が出ますゆえ」

 家令と気安いやり取りをする夫を見て、カトリーナは呆気にとられていた。
 ぽつんと扉の近くに立ち尽くしていたが、やがて一緒に着いて来たソニアに促され執務室の中央へ歩を進めた。

「奥様にやって頂きたい事はこちらの書類整理と帳簿の確認でございます」

 ソファに座ったカトリーナに出すお茶の準備をソニアが始め、フーゴは書類をテーブルに置いた。

「わかったわ」

 受け取るなり書類を一目見て分類していく。
 その間一言も口を開かず目と手だけを動かした。
 その様を呆然と見ていたのはフーゴとディートリヒだ。
 ソニアはマイペースにお茶を準備している。

「終わったわ」

「はやっ!?えっ!?」

「奥様、お茶をどうぞ」

「ありがとう」

 それはソニアがお茶を準備している間に全て分けられた。
 フーゴが分けられた書類を確認していく。その間カトリーナは優雅にティーカップを傾けた。

「……すごい、完璧です」

 フーゴは唸るように声を出した。その声にカトリーナはしてやったり、と得意げに微笑んだ。

 王太子の婚約者として執務を代行し、国単位の書類を捌いてきた彼女からすればランゲ伯爵家所有の領地など猫の額程の広さのもの。

 フーゴが同じ作業をするとしたら一〜二時間は有に使う。

「それよりも、過去50年分の天気や状況を記したものはあるかしら」

「50年分……、どうでしょう、図書室にありますかね」

 フーゴはちらりと隣の主を見た。ディートリヒはそっと目をそらす。

「……旦那様、資料はございますか?」

「………………たぶん」

「多分?」

「あ、いや、その。図書室は……その、条件反射で、……睡魔が」

 歯切れ悪く答えるディートリヒの様子に、カトリーナは呆れてしまった。

「旦那様は伯爵家の跡を継がれたのですよね?そんな体たらくでよくも領民の方々に恨まれませんでしたね。
 領民の皆様はよほど皆様お優しいのでしょうね」

「うぐ……、すまない」

「貴族としてランゲ伯爵家を名乗るなら、しっかりと領民の為に働いて下さらなければ彼らも報われませんわ。
 民がより良い暮らしができるように、憂いを取り除くのが領主としての努め。
 これからは私が彼らをお守り致しますわ」

 しっかりとした口調で宣言したそれは、流石は王太子の元婚約者としての貫禄があり、しっかりと民の暮らしを見据えているという彼女の矜持である。

「とりあえず資料を探してみますわ。ソニア、図書室まで案内して下さる?」

「かしこまりました」

 カトリーナはソニアについて退室した。
 そんな二人を呆然と見送ったあと、フーゴは己の主人をちらりと見た。

 ディートリヒは気まずそうに書類に目を落とし、しっかり読み込んでから決済の署名をしていく。

「……これからは、奥様が領民を守って下さるんですね」

 ぽつりと呟いたフーゴの言葉はディートリヒの頭に残り、響き渡った。

『これからは私が彼らをお守り致しますわ』

 確かにカトリーナは、そう宣言した。
 つまり。

 つまり、それは。

 その先を思い、思わず口元が緩んだ。


 記憶が戻ったあとのカトリーナとディートリヒは想いは愚か言葉すらまともに交わせていない。
 先程のやり取りのような会話らしい会話はできていないのだ。

 勢いに任せてカトリーナは捲し立てたが、その内容が示す事に気付いてはいないようだった。
 王太子妃教育を受け、国の未来を考えていた者として、ごく当たり前の事ではあるのだが。

「つまり、ずっと、ここに居てくれるんだよな」

 気付いているのだろうかと思いながらも口元の緩みを止められず、フーゴに突かれながら再び書類に目を落としていた。



「良かった。歴代の当主様たちはちゃんと天気の事を書いて下さってるわ」

 図書室に来たカトリーナは、気候を記した資料を手に取り眺めていた。
 食糧生産が主な伯爵領はそれを元に対策を練るのだ。
 それから更に資料を探しカトリーナは目を通していく。

「旦那様は思ったより頼りにならなそうだから私がしっかりしないと」

 民の生活を第一に考えてきたカトリーナにとって、しっかりと向き合っていないとも取れるディートリヒの態度には賛成できなかった。
 領民の未来を考えると任せられないと思ったので、領地経営を頼まれて良かったと心底思ったのだ。

「ちゃんと旦那様を教育し直さないとダメよね」

 そこまで口にしてカトリーナは、はた、と手を止めた。
 一切の時を止めたように微動だにしない彼女は、自身の発言の意味をふと考えてしまった。

 近くに待機していたソニアはニコニコと笑っている。

「…………ソニア」

「はい」

「ふ、深い意味なんて、無いのよ?」

「ええ」

「ただ、私は領民の未来を考えて」

「存じております」

 終始ニコニコ笑顔のソニア、対してカトリーナは徐々に顔が熱くなっていく。

「奥様がランゲ伯爵家所有の領民たちの事を、これから先ずっとお見守り下さるのは大変心強うございます。
 私も、生涯、奥様に誠心誠意お仕えさせて頂きますね」

「わっ、私はっ、別にっ、そんな意味で言ったわけじゃ……!」

 当主であるディートリヒに代わり、自身がしっかりと領地を守り、更に夫の教育もし直す心構えがある、という事がソニアの中では『出て行くつもりは全く無く、ずっとランゲ伯爵家にいる』と理解されたのだ。

「ありがとうございます、奥様」

 有無を言わせない笑みに、カトリーナは顔を赤らめ「違うの、別に深い意味は無くて」とか「ただ領民の為に」などと言い訳をしていたが、奥様の事を微笑ましいとソニアは相貌を崩さなかった。