カトリーナの記憶が戻ってから一月が過ぎた。

 あの日以来、食事の際にディートリヒと顔を合わせるのが気まずい。
 また褒められでもしたら顔から火が出てしまうかもしれない。そう思いながら身構えていた。
 とはいえ日中は家にいない彼と顔を合わせるのは食事の時くらいの為、約束は約束だと何とか己を奮い立たせ食堂に向かう。

 だがあれ以来ディートリヒが何かを褒める事は無く。
 それもまた、カトリーナをやきもきとさせていた。

「これから何をするか決まりそうか?」

「いえ、……まだ」

 今日はディートリヒも休日。
 朝食を共にし、食後のお茶を嗜んでいると不意にディートリヒから尋ねられた。
 記憶が戻ってから荒れていた時に、何をしても良いと言われた事を聞かれたのだろう。
 まだ、と言いはしたものの、カトリーナには何もする宛も無かった。
 実家に見捨てられ、友人達にも見放され、元々孤立しがちではあったが交友関係が断たれてしまったのだ。
 事業を起こしたりするのは勿論、愛人を作るなど以ての外であった。

「そうか。……もし良ければなんだが、領地経営を手伝ってくれないか」

 何をする予定も無いのであれば、とディートリヒが提案したのは領地経営。
 それは貴族として生きる者の義務である。
 爵位を持つ者は領地を持ち、その領地に住む領民からの税収で暮らす代わりに領民の暮らしをより良くする事が求められる。
 ランゲ伯爵家も先祖代々から受け継がれてきた土地があり、そこに住む民がいる。
 それに加え先の戦の褒章として、子爵位とその領地を与えられたのだ。
 決して狭くはない領地をランゲ伯爵家は背負っていた。
 ちなみにディートリヒは当主ではあるが、領地の事は家令に任せ切りである。

「……旦那様はなさいませんの?」

 カトリーナは王太子の執務を肩代わりしていた。伯爵領の経営は何てことはない。
 だがあくまでも貴族夫人、領地を任されるのは意外だった。
 カトリーナの言葉にディートリヒの肩がぴくりと跳ねる。気まずそうな表情から一つ咳払いをして。

「苦手なんだ。机でじっとして書類仕事をするのが」

「……まさか、騎士をやってるのは」

「ああ、机仕事が苦手だからというのも、ある」

 勿論それだけでは無いが、と小さく付け足すが、カトリーナは思案顔で耳に入っては来ていない。

「……分かりました。でも当主印が必要なものは嫌でもあなたに頂かないといけないのですが」

「引き受けてくれるのか?ありがとう!助かるよ。勿論、そこは私がやるから」

 パアッと明るい表情になったディートリヒの眩しさに、カトリーナはたじろぎ思わず顔をそらした。

「い、一応、私はこの家の領主夫人ですから、……今は、まだ」

「あ、ああ。うん、ありがとう。……君がやってくれるなら心強いよ」

 嬉しそうに応えるディートリヒに、カトリーナは何か言い返したいが、心から喜んでいるその表情に毒気を抜かれて行く。

 ぎっと睨んでもニコニコしているし、強い口調で言っても嬉しそうに応えるのだ。

(何やってもあしらわれてしまうから私が反抗したところで滑稽だわ)

 悔しいはずなのに、言い負かしてやりたいのに、全てを許されているような何とも言い難い気持ちに、カトリーナはどうしたらいいのか分からなくなる。

 更に、それが自分の中で嫌ではないのが不思議だった。

「その代わり、ひ、暇な時だけです。暇な時にしかしませんからね」

「ああ、それで構わないよ。家令のフーゴに伝えておくから詳しい事は彼に聞いてくれ」

 紅茶の入ったカップを傾け、カトリーナは「やる事ができたわ」と内心浮き立っていた。
 自分でも気付かぬ内に口元が綻んでいる。

「……っ!!」

 それに気付いた給仕担当のメイドは口元を押さえた。
 元々美人の奥方が僅かにでも笑みをこぼしたのが貴重であったからだ。
 勿論夫であるディートリヒも妻の笑みを見逃さない。

 彼は記憶が戻ったあともこうして同じ空間にいれる事がとても嬉しかった。
 触れ合う事は勿論、弾む会話があるわけではない。
 記憶が無い時の方がよほど夫婦らしかった。

 だが今、こうして嫌いなりに向き合おうとしてくれる事が純粋に嬉しかったのだ。
 時折チラチラと見て来る仕草が可愛くてたまらなかった。

 以前より増して想いを募らせていく。

(またゼロから関係を育めたら)

 そう思いながら、妻を見つめていた。


(ま、また見られてる……気がするわ)

 用意されたおやつを少しずつ食べながら、夫からの視線を感じていたカトリーナは、その熱のこもった瞳を見れないでいた。

(記憶が無い時の方が良かったんじゃないの……)

 素直でしおらしく、優しいカトリーナ。
 夫の側に寄り添い、愛を受け取り返していた。

 そんな自分を想像し『ありえないわ』と頭の隅に追いやる。

 婚姻前は王太子の婚約者として常に気を張った生活をしていた。
 そこにしか自分の居場所が無かったからだ。
 守る為に必死だった。
 誰かを傷付けても、悪い事とは思わなかったのだ。

 その結果だろうか。婚約破棄をされたあとはどこにも行く宛居場所が無くなっていた。
 気付けばたった独りだと、絶望してしまった。
 だが、ディートリヒだけは『ここにいて欲しい』と言ってくれた。その事がカトリーナからすれば心に響いたのだ。
 今はもう、優しくしおらしいカトリーナでは無いのに。

 彼が部屋をあとにするときに見た大きな背中も、ここにいる一つの理由だった。

『自分を守ってくれる背中』

 なんの根拠もないけれど、不思議とそう信じる事ができた。

 自分はこの男を嫌っていたはずだ。
 その時の感情を思い出そうとするが、改めて人となりを見ていると無闇に嫌えるようなものではなかった。

 何かの瑕疵を挙げようとするが、これと言って見当たらない。

 ふと、視線をディートリヒに向ける。
 食後のお茶を飲む姿は貴族紳士として様になるようだった。

(……あ……、顔の傷……)

 最早ディートリヒの象徴ともなっている、左の頬から鼻を通り右の眉間に延びる傷。
 以前は遠くから見ているだけだったが、こうして近くで見ると痛々しい様に再び顔を俯けた。

 その傷を社交界で笑いものにしていたのはカトリーナである。
 自身が何の憂いも無くドレスで着飾っている間にも、国を守る為隣国と戦い抜いた証であるという事実は王太子の婚約者だった時に聞いていたのに。

(どのみち私は国を導く立場にはなれなかったんだわ)

 国を救った英雄を称えなければならない立場を放棄して一方的に嫌っていた事を恥じた。

 再びディートリヒを見る。

 目が合って優しく微笑まれた。

(な、なんで笑うのよ)

 いたたまれずお菓子に手を伸ばす。
 知らずに鼓動が早くなる。

(別に……、……)

 自分が何を考えたのか、カトリーナはハタと思い留まり頭を振った。
 それからも一人、悶々と考えに耽ってしまう。


 だから気付かなかった。

 ディートリヒから向けられる、妻が愛しくて仕方がないという視線に。

 主たちを見守る優しい視線に。


 ランゲ伯爵家はたった一人の存在を迎え入れただけで、ほのぼのとした空気に包まれるようになったのである。


 それはカトリーナが嫁いで来た時からのもので、記憶が戻ってからも変わらなかった。