騎士団へ向かう途中のディートリヒは朝の光景を思い出しては悶々としてしまっていた。
 久しぶりに見た妻の姿は以前ならばよく目にしていたものだ。
 愛を囁き、身体に触れ、溶け合った事は彼の中で記憶として鮮明に残り心の支えとなっている。

 本当ならば再び触れ合いたい。
 だが今は口付けは愚か触れる事さえできないでいる。
 きっと彼女はそれを望まないだろうから、と。

 記憶が戻ってから、カトリーナは夫に対する嫌悪感は今の所無さそうなのに安堵している。
 以前のように瞳に侮蔑を滲ませる事は無いし、眉をしかめられる事も無い。

 衣食住を保証しているから、とは思うがあの視線は何でもない風を装いながらもやはりショックだったのでそれが無いだけマシだと思い直す。

(側にいれるだけで幸せだ)

 最初を考えれば大進歩であり、これ以上を望むなど贅沢だと自身に言い聞かせる。

 今朝のようなハプニングなど大変な幸運もまれにあるならば良いではないかと。

 それでも気持ちとは裏腹に身体は熱くなる一方ではある為、結局騎士団に着いてもディートリヒの悶々は晴れる事は無かった。


「どうだ、新婚生活は」

 騎士団の詰所は王城の一角にある。
 副団長であるディートリヒは、各隊長たちとの朝のミーティングを終え団長室へと来ていた。

「どう、と言われましても」

「蜜月の時はそれはそれは浮かれに浮かれた副団長が笑顔で団員を扱いてる様はある意味で恐怖だったが、最近は扱くのは変わらないが蜜月と比べれば明らかに意気消沈してるからな」

 要するに、私生活に於ける感情がありありと分かる為団員たちはじめ、団長も心配していると言いたいのだ。

「……妻の記憶が戻りまして」

 その一言に騎士団長であるディアドーレ侯爵は眉をひそめた。
 ディートリヒは無意識に自身の顔の傷に触れ、言葉を続ける。

「以前に比べれば嫌われてはいないと思わせるような態度が……逆に辛いのです」

「そうか……」

 複雑な表情をしたディアドーレ侯爵は、その心中を思いやった。
 婚姻前から想いを寄せる相手と思わぬ婚姻。
 書類上は妻となった想い人と短い間は夢のような蜜月を過ごす事が出来たのだ。
 だがそれは最初から無かったかのように今では冷え切った関係になっているのだろうと想像し、顔をしかめた。

「妻が……妻が、可愛すぎるのです」

「……そうか。……ん?何だって?」

「だから、妻が可愛すぎて辛いのです。
 毎日毎日何か言いたげにチラチラと見て来てはさも何も気にしてませんと言わんばかりに目を反らしても、気付けばじっとコチラを見てるんです。
 問かければ『別に』と素っ気なくても口の端が僅かに緩んでいるんです」

「な、なるほど……?」

「それに『行ってらっしゃい』とか『お帰りなさい』とか、小さな声ですが毎日言ってくれるんです。夫婦ですか!?夫婦ですよね!?」

 頭を抱えながら吼えるディートリヒを見て、ディアドーレ侯爵はたじろいだ。
 隣国への遠征時でも常に冷静沈着であった彼が取り乱して叫ぶ姿を初めて見たのだ。
 しかも内容が内容である。
 意外な一面を見たな、と侯爵は独りごちた。

「今朝だって、あんな……、あんな、…………ぐぅぅぅ……」

 今朝あった事を思い出してディートリヒは顔を赤くしていく。
 無意識に顔が緩むが、それは彼にとって幸であり不幸であるような、と連想させる表情に、侯爵は問い掛けた。

「今朝、何かあったのか?」

 おそるおそる、口に出す。が。

「ありません!何も!目の保養できただけです!!訓練行ってきます!」

 言うなり踵を返し、ディートリヒは団長室を丁寧に辞去し訓練場へと足早に向かった。
 何も無いと言いつつぺろっと喋る辺り、ディートリヒに諜報は向かなそうだ、とディアドーレ侯爵は苦笑いしたのだった。



 そうしてディートリヒの煩悩は絶えず、部下たちに鬼のような扱きをしてもおさまらなかった。

「副団長ぉ……、も、勘弁……し、て……」

 屈強な騎士たちが次々と脱落していく。

「生温いぞ!それでは戦場で命取りだ!」

 実際に戦場に立ち、四方八方に敵意を警戒しながら進み生命のやり取りを経験した側からすれば、日常の訓練など生温いのだが。
 この日の騎士副団長は私情を挟み文字通り骸を量産していたのだ。
 勿論ディートリヒも同じ量をこなしている。
 だが悶々とした気持ちは部下たちの疲労とは裏腹に全く晴れないでいた。
 それどころか立ち止まればすぐに朝の眼福が蘇り、繰り返す悪循環。


「ディートリヒ先輩、溜まってんすか?娼館行きます?」

 軽い口調で尋ねるのはフランツ・ドーレスだ。彼はディートリヒの後輩で、同じ部隊で戦った仲間でもある。
 自身の右腕として信頼を置く者であり、関係は気安い。
 部下たちの惨状を見兼ねてつい口を出したのだ。

「溜まってない!娼館なぞ行かん!」

 だがそれはディートリヒによって一蹴された。

「〜〜っ、走り込みしてくる!!皆は休憩しててくれ」

 フランツの横槍は多少なりともディートリヒに理性を呼び戻した。
 その後一人で広庭を走り抜き、完全に冷静さを取り戻したあとは部下たちに「やりすぎた」と謝罪したのだ。

 腑に落ちない顔をしていた彼らだったが、フランツが「ただの欲求不満だからね」と肩を叩く。

「副団長……、娼館、行きます?」

 部下の一人が思わず声をかけた。だが。

「いや、すまない、行かない。妻以外いらないんだ」

 きっぱりと断った。
 カトリーナと出逢ってからは他の女性など見向きもしていない。勿論娼館にも行っていない。
 今の状況で行くなど論外だった。

「その……何というか。頑張って下さいね」

 訓練を終え、何とも言い難い表情の部下たちはそれぞれ帰宅していく。


「はー……」

 一人椅子に座ったまま空を仰ぎ見る。

「妻が可愛すぎて辛い……」

 夕暮れ前の空を見上げれば、その瞳を思い出し。
 ディートリヒも立ち上がり、帰途に着くのであった。