「おはようございます」

 朝食の席に着いたカトリーナは小さく挨拶の言葉を口にした。

「おはよう。今日も美しいな」

「!?」

 いきなりのディートリヒの言葉に思わず身構えた。
 朝晩否が応でも顔を合わせていればそれなりに慣れてくる。
 だが、『美しいな』と言われたのは記憶が戻ってから初めてだった。
 ディートリヒも、自分の発言にハッとして口元を押さえた。

「……すまない、びっくりさせたか。以前は普通に言ってたからつい」

「いえ……」

『以前は』というのが、カトリーナに引っ掛かった。
 記憶喪失の間、ディートリヒは毎日カトリーナに愛を囁いていたとは侍女の談である。
 いや、それどころか話を聞く度『それは本当に自分だろうか』というくらい別人だった。

「旦那様は奥様を片時もお離しになりませんでした」

「蕩けるような笑顔を毎日お見せになっていましたよ」

 奥方付きの侍女二人は戸惑いながらも聞かれた事に答える。

「……そ、そう」

 世話をされている時に聞いた話はカトリーナにとって寝耳に水ではあったが、少なくとも王太子から受けた屈辱よりマシであった。
 嬉しいやら恥ずかしいやらでいたたまれないカトリーナは、きっとその『カトリーナ』は、別の世界からやって来たのだろう、などと明後日の方向に推測した。

 引っ掛かりがあるとすれば、初夜の事を覚えていないとか、閨ごとがすぽんと抜けている事だろうか。
 記憶が無い間にお腹が膨れてないだけ良かったのかもしれないが、結婚して大事な儀式を覚えていないのは少し腹が立った。

 だが、記憶が無い時のカトリーナをディートリヒは愛していた。

 ──記憶が無い時は、優しく、穏やかで慎ましいカトリーナだからこそ。

 記憶喪失の間は誰を見下さず、癇癪を上げず。
 夫と微笑み合うカトリーナ。

 今の自分とは正反対の自分だったから、ディートリヒは愛してくれていたのではないかと思うとつきりと胸が痛んだ。

 だが、記憶が戻ったカトリーナは以前のような高慢な女性。
 特に記憶が戻った直後は現実を直視できず仕えてくれていた侍女にひどく八つ当たりしてしまった。
 物を投げてしまった事もある。
 そんな女を、愛するなどしないだろう。
 自己嫌悪に陥るが、やってしまった事実は変わらない。だから家族や友人から見離されたのだろう。その為仕方なく置いてやってるだけだと認識している。

 だから、ディートリヒは愛を囁かなくなったのではないか。
 そう思うと少し寂しかった。

 自身が今までディートリヒにしてきた事を思えば仕方無いと思う。
 だから顔を合わせるのも気まずかった。
 それに義務として接してこられると思えば虚しかった。

 ちらりと夫の顔を見てみる。
 目が合って、微笑まれた。

(べ、別に、寂しいとか、虚しいとか、じゃないはずよ)

 慌ててばっと目を逸らす。
 だがそれからもちらちらと見ていた。


 カトリーナからの何かを言いたげな視線に面映ゆい気持ちになったのは、ディートリヒだけでなく食堂にいる使用人もだった。
 この頃には、屋敷の使用人たちも、記憶が戻ってからのカトリーナは、確かに記憶喪失の時と比べると棘はあるが、それは不器用さからくるものだと気付いていた。

 それはひとえにディートリヒからの訴えがあったからだ。

 貴族令嬢として、王太子の婚約者として今まで妬まれ、蔑まれ、心無い言葉を浴びせられてきた。
 常に笑顔で淑女の手本として自分の気持ちを飲み込み、本音を隠さなければならなかった。
 弱音を吐く事すら許されない環境だった。
 早くに王命により婚約が決まったカトリーナは、誰かからの優しさが届くより心無い言葉が届く方が多かった。

 本来ならカトリーナを守る筈の王太子も、他の女性を守りカトリーナを非難した。
 父親であるオールディス公爵は国王の側近で宰相という立場ゆえほとんど不在でカトリーナに構ってやれなかった。

 針のむしろ状態の彼女は、次第に心を守る為攻撃的になっていった。

『心無い言葉を浴びせられてきた』ディートリヒが、『心無い言葉を浴びせられている』カトリーナに惹かれたのは仲間意識からだったが、次第にそれでも懸命に真っ直ぐ立ち、自身の責務を全うしようとする彼女の為になりたいと思うようになったのだ。

『カトリーナが王太子妃に、いずれ王妃になるならばこの剣は彼女に』

 それはディートリヒの本心からだった。


 婚姻前から嫌われていても、自分だけは彼女の味方であろうという気持ちは変わらない。
 記憶を失くす前も、戻ってからも、ディートリヒの気持ちは変わっていないのだ。

 だから、使用人たちにもお願いをしていた。

『今は記憶が戻ってから混乱しているのもあると思う。だが彼女の目を見れば本音が分かるから、どうか察してやってほしい』

 実際、カトリーナの態度や瞳は、口から出る言葉より本心を物語っていた。

 例えるなら手負いの猫のようだというのが使用人たちの認識だ。
 屋敷内のほぼ全員がカトリーナより年上の者。
 全員一丸となってカトリーナを見守ろうと決めてからは、真心込めて接していた。
 ディートリヒの気持ちは、使用人全員が知るところである。
 隠す気があるのか無いのか、ディートリヒのカトリーナに対する態度は好意に溢れていた。

 また以前のように仲良しになってほしいというのが使用人共通の悲願である。
 勿論言わずもがな、ディートリヒも。

 だから、カトリーナの小さな変化を。

 挨拶する度、ディートリヒから微笑まれる度。
 カトリーナが気まずそうに、でも嬉しそうにはにかむのを見逃さなかった。
 必死に取り繕ってはいるが、少しずつ、少しずつ。
 ディートリヒに対する態度が変わっている事が、彼らにとっては嬉しかったのだ。