翌朝。
女の悲鳴でディートリヒは目が覚めた。
騎士としての危険を察知する能力でがばりと起き上がる。
悲鳴の主はすぐ隣にいたカトリーナのものだった。
ベッドの端に寄り、ディートリヒをおぞましいものでも見るようにがたがたと震えている。
「な、なぜ私、なぜ……」
昨夜までの態度とまるで変わった様子に、何が起きたのか瞬時に察してしまった。
「…私と結婚したのだ」
ついにこの時が来たと、ディートリヒは顔を強張らせた。
カトリーナは、記憶を取り戻したのだ。
瞳は安心しきったものから、怯え、絶望を含むものになっている。
「出て行って!!私が貴方と結婚……?あり得ないわ!!
今すぐ無効を申し立てます!!」
昨日までの妻と180度違う態度。
柔らかく笑っていた顔は怒りに満ち、愛を囁いた口からは嫌悪が紡がれる。
いつか来ると覚悟はあったが、それでもあからさまに拒絶されるとさすがのディートリヒも堪えた。
「無効にはできない。君とは初夜を済ませているし、もう何度も……。
すまないとは思っているが、離縁はしない」
「なっ……」
「王太子の命令だった。その場で婚姻届にサインした」
「そん……な……」
青褪め、唇を震わせる彼女を見ていると、自分の幸福を優先させてしまっていたと自嘲する。
記憶が戻らなければ、とどこかで思ってしまっていた事に罪悪感が芽生えた。
元々理不尽とはいえ王太子命令での結婚だ。
それは言い訳で、ただ、自分が離したくなかったのだ。
「嫌われていても良い。そばにいてほしい。
君を愛しているんだ」
ディートリヒは妻に告げた。
カトリーナはその言葉にぴくりとしたが、嫌悪は消えない。
妻に手を伸ばそうとして、その表情を見て。
力無く俯き、やがてベッドから降りてディートリヒは寝室をあとにした。
カトリーナは顔をしかめたまま、その日から部屋にこもりきりになった。
うっすらと耳が赤くなっているのには気付かないままだった。
カトリーナの要望で、実家の公爵家に連絡を取ったが、公爵家からの回答は「引き取らない」だった。
父親であるオールディス公爵はこの頃には視察を終えて帰って来ていた。
王太子の命で婚姻を結んだからというのは言い訳で、カトリーナの性格を持て余し気味だったのもあり、公爵は婚姻をそのまま継続させる事を望んだ。
オールディス公爵に妻はない。まだカトリーナが小さい頃に風邪を拗らせ儚くなっている。
その後後妻を娶る事無く仕事に邁進していた。
カトリーナは一人娘ではあるが、いずれはデーヴィドとの間の第二子を養子に貰う話になっていたのだ。
実家に断られたならば友人に、と何人か親しくしていた令嬢に連絡を取ってみた。
だが、『これからは付き合えない』という返事だけだった。
衆目集まる中王太子から婚約破棄を言い渡されたのだ。
へたにカトリーナに関われば王室から睨まれるせいではあるが、それでも友人の一人、頼れる人もいなくなったカトリーナは絶望した。
「…どうしてよ……っ」
思い通りにならない事に、ソファに備え付けられたクッションを投げ捨て、歯噛みした。
誰からも顧みられず、見捨てられた事に悔しさが滲んでくる。
己の人生、先はまだ長いのに、こんな醜悪伯爵と共に過ごさねばならぬのかと思うと、悔しさと悲しみと絶望が混ざり合い、奥歯がかちかち音を立てる。
自分には美貌以外何もない。教養はあれど後ろ盾が無ければ何もできない。
美貌も若いときだけだ。年々老いていくのは止められない。
かといって王太子の元に戻る事は考えなかった。
自分の居場所はもう無いと察していた。
思い通りにいかないと、使用人に八つ当たりする事もあった。
「出て行って!!」
ガシャンと音を立て、テーブルに置かれたティーカップを、カトリーナは払い除けた。
癇癪を起こしたカトリーナは、侍女エリンが淹れた紅茶を投げたのだ。
「……っ…」
まだ熱かった飛沫がエリンの腕にかかり、ヒリヒリと痛む。
投げられた瞬間、エリンは流石に怒ろうと口を開いたが、カトリーナの顔は強張って今にも泣きそうだった。
だがそれは一瞬で、すぐに側にいたソニアに片付けるように言い、更に別のメイドに水の張った桶を持って来るように指示した。
ソニアもエリンも、記憶が無いときの優しく頼りなげな奥様のイメージが壊れ、戸惑った。
そして、『あの噂は本当だったのか』と落胆した。
やがて片付け終えて退室する時、「メイドが持って来た桶はもういらないからあなたが下げておいて。どう使ってもあなたの勝手だから」と言い、エリンに押し付けた。
そのときに、か細い声で「ごめ……なさ……」と言われたエリンは戸惑った。
『目下の者を見下す公爵令嬢』と噂されていた人物が謝罪の言葉を口にしたのだ。
退室し、使用人の控室に戻ったエリンは、桶の水にタオルを浸し、やけどした箇所に当てた。
『どう使ってもあなたの勝手だから』
エリンはカトリーナに押し付けられた桶の水をぼんやりと眺めていた。
(どちらが本当の奥様なんだろう)
貴族が使用人に高圧的になるのはよくある事だ。カトリーナは公爵令嬢だった。気位が高いのも普通の事だろう。
けれど、そんな彼女は誰からも見放されていて、今孤独なのでは、と思うと八つ当たりされても憎めなかった。
やがてカトリーナは、自分の置かれた状況を嘆き、その現実を受け入れなければならない事に絶望し、次第に食欲も落ちていった。
「……そうか」
帰宅して、執務室にいたディートリヒは執事のハリーから聞いた話に一つ溜息を吐いた。
記憶が戻ってからカトリーナとは顔を合わせていない。彼女が拒否しているからだ。
食事は部屋に運ばせている。
ディートリヒは両手で顔を覆い、記憶が無い時に己がしていた事を悔いた。
(やはり手を出さなければ……)
求められたから、誘惑されたから。
抱いて欲しいと言ったのはカトリーナからだったから、などと言い訳しても、最終的に手を出したのはディートリヒの我慢が効かなかったせいだ。
求めたら求めただけ返って来る事が嬉しくて、手羽なすなど考えられなくなった。
記憶が戻った今でも本音は手放したくない。
だが、カトリーナの事を思えばどうするのが正解か導き出せないでいる。
それでも、食欲すら湧かないのであればと、一度カトリーナと話す事にした。
「カトリーナ、いるかな。入ってもいいかな」
扉をノックし、中からの返事を待って、遠慮がちに扉を開けた。
カトリーナはソファに座り、俯いていた。
部屋を見渡せば割れ物は全て下げられていた。
「……何よ、説教でもしに来たの」
部屋を見渡していたディートリヒに、カトリーナは呟くように言葉を発する。
「君があまり食べていないと聞いて心配して来たんだ」
最後に見た時より少し痩せたような妻の様子に、ディートリヒは胸が痛んだ。
「……は……、いい気味だと思ってるでしょう。私みたいに八つ当たりしかしない女なんて、誰からも見放されて、当然よね」
目を細め、泣く事すらできないカトリーナは、唇を強く噛んだ。もう全てがどうでも良かった。
ディートリヒは、カトリーナの前に跪く。
下から見上げれば、その瞳は揺れ、まるで捨てられた猫のようだと思った。
無造作に投げ出されていた妻の手を取り、拒否されない事に安堵した。──最も、今のカトリーナにはそれさえも億劫だったのだが。
「私のところにいればいい。何でも好きなものを買いなさい。幸い、戦の報奨金も余ってる。それで事業を興してもいいし、好きなように使って構わない。
君の望まないことはしない。閨も、まぁ、いざとなったら養子を貰えばいい。爵位は弟に譲ってもいい。外聞をきちんとすれば愛人を作ってもいい。だから、離れて行かないでほしい」
今にも消え入りそうな愛しい人を目の前にして、何とか繋ぎ止めたかった。
好きなようにしても良い、それは紛れもない本心ではあるが、愛人を作っても良い、だけは望まない事。だがそうしてまでも、手放したくない思いが勝ったのだった。
そして、その声は絶望したカトリーナに光を宿した。
どこにも行く宛もない。好きなことをしていい、愛人を作ってもいいなら好都合。
「……他に行くところができるまで……ここにいるわ」
悩みながらもカトリーナはこのまま伯爵邸に残ることにした。
今の所愛人はおろか、友人さえ作れる要素は無いのだけれど。
「分かった。……気にせず、いつまでもいて良いから。
それと。これからは食事を共にする事にした」
「なっ……」
「君がちゃんと食事をしているか心配になるからだ。だいぶ痩せてしまっている。このままだと倒れてしまうだろう」
「これからはちゃんと食べます」
「私は目で見て確認しないと気が済まない質なんだ。この家に住むなら従ってくれ」
「〜〜っ、分かりました」
カトリーナはしぶしぶではあったが了承した。
そっぽを向いて何か文句を言っているが、握られた手を引っ込める事は無かった。
それから二人は、食事を共にするようになった。
朝起きて、挨拶をし、食事をする。
日中はディートリヒは騎士団に出向いている為一人だったが、休みの日には一緒に取った。
夜は出迎え、挨拶をし、食事をする。
その後は部屋を分かれて眠る。
今までとすれば会話も触れ合いも減った。
だが、ディートリヒの優しさは変わらなかった。
「足りないものは無いか」
「今日は天気が良いな」
「庭の花が見頃だろう。たまには庭で茶を飲むといい」
一方的な言葉を、カトリーナは最初無視していたが、ディートリヒは根気強く、カトリーナから着かず離れず。
不快そうにすれば接触をやめ、少しでも反応があれば続きを話す。
そんなディートリヒに、カトリーナは徐々に態度を軟化させていった。