「カトリーナ・オールディス!貴様との婚約は破棄する!!」
王国内で一番美しいと言われるが、性格が高飛車で下の者を平気で見下すカトリーナ・オールディス公爵令嬢は、王太子デーヴィド・アーレンスから婚約破棄を言い渡された。
王太子の傍らには可愛らしいふわふわの髪の女性──男爵令嬢シャーロットが縋るように彼の服を掴みふるふるしながら見ている。
カトリーナは背筋をぴんと伸ばし、二人をじっと見据えた。
亡き母譲りの長い金の髪、空色の瞳。少しばかりきつい顔立ちは手に持つ扇子で半分隠されている。
「俺の隣にいるシャーロットを散々虐げていた事を許すわけにはいかない!
貴様との婚約は破棄し、真実愛するシャーロットを新たな婚約者とする!!」
デーヴィドの婚約者であるカトリーナは、シャーロットを散々虐げていた。カトリーナからすれば人の婚約者を拐かしていたのだ。当然だと思った。
虐げたとはいえ。
王族と話す時は敬語で話すように。
婚約者がいる男性と親密になってはいけない。
婚約者でもない男性に密着してはいけない。
要約すれば淑女として普通に気を付けなければならない事を窘める内容だった。
しかし、散々忠告したがデーヴィドの寵愛を受けていたシャーロットは無視したのだ。
男爵家の養女であるシャーロットと公爵家令嬢カトリーナの身分差は雲泥の差がある。
カトリーナの忠告を無視するという事は、彼女を侮辱しているも同じ事。
なのでカトリーナは実力行使に出た。
シャーロットが男性と一緒にいる場面で割って入り引き離す。
デーヴィドと密着している時は殊更感情的になった。
言い合いになった時は手が出る事もあった。
その度デーヴィドから諫められるが、二人が態度を改めない為カトリーナも止まらない。
度重なる暴動は婚約者であるデーヴィドの不興を買っていたが、必死になっていたカトリーナは気付かなかった。
カトリーナとて自分の居場所を守るのに必死だった。
母亡き後、宰相である父親に放置されたのを見かねた国王が父の側にいられるようにと結ばれた婚約だった。
国王に子は二人いたが、年上だったデーヴィドを選んだのはカトリーナだった。
愛し合うような甘い関係ではなかったが、互いに支え合い家族のように慈しみ、共に国を支えられたらと思っていた。
だが年月が経ち、カトリーナが王立学園に入学した辺りから仲の良かった二人に暗雲が立ち込めた。
カトリーナと同時に入学した孤独でいたシャーロットに、先に入学していた2つ上のデーヴィドは夢中になってしまったのだ。
その為カトリーナはデーヴィドを取られまいと焦り、シャーロットを牽制していた。
デーヴィドが先に卒業すると、今度はあろう事かシャーロットを王城に招き入れ逢瀬を重ねた。
表向きはカトリーナと仲良くし、裏ではシャーロットを寵愛する。
今まで国王にバレなかったのは、デーヴィドの要領が良かったのか。
そんな日々でカトリーナは鬱憤が溜まり、シャーロットに八つ当たる。
そしてシャーロットがデーヴィドに泣きつき慰める……という悪循環を繰り返していた。
そしていい加減うんざりしたデーヴィドは、ついに婚約者であるカトリーナを断罪した。
衆目集まる中カトリーナに婚約破棄を言い渡したのである。
「カトリーナよ」
それだけでは気が済まないデーヴィドは、更に罰を与える事にした。
「婚約破棄されては次の嫁ぎ先も望めまい。貴様にはお似合いの相手を与えてやろう」
浅黒くニヤリと笑った王太子の口からは、信じられない言葉が紡がれる。
その口から出た『お似合いの相手』の名前は、カトリーナが心底嫌う醜悪伯爵のものだった。
名前を聞いた瞬間、王太子妃教育の賜物である微笑みをわずかに顰めてしまうくらいには、動揺したのだ。
醜悪伯爵とは。
名をディートリヒ・ランゲ。
黒髪翠眼の彼は、ここアーレンス王国の王国騎士副団長である。
彼の名を知らない王国の民はいない。
国を守る騎士として名を馳せた彼は、部下の信頼も厚く忠義の人である。
今時分は平和であるが、先の隣国との戦いで一番武功を挙げたのは彼だった。
だが、あと少し、この将軍を抑えれば、と泥に塗れながら対峙した時。
ディートリヒの剣は敵国将軍の心臓を貫いたが、同時に背水の陣だった将軍から浴びた一太刀は彼の顔に一矢報いた。
左の頬から鼻を通り右の眉頭に延びる傷は、塞がってからも残り、武勲の象徴であると共に平和になった社交界においては、数年経過してからも彼の評判に傷を付けた。
カトリーナは伯爵の顔を「醜い」と言って嫌悪し、常に侮蔑の眼差しを送っていた。
そんな男との婚姻を結ばされるなど屈辱以外のなにものでもない。
だから到底納得いかず、逃げた。
一方的な婚約破棄を告げられた上、納得いかない婚姻を求められた。
とにかく公爵家へ一度帰り、父と相談せねば、とはしたなく思いつつもドレスをたくし上げ急ぐ。
「逃がすな!」
デーヴィドは近衛騎士たちにカトリーナを捕らえるよう命令した。
近衛騎士に取り囲まれたが、カトリーナは諦めなかった。
「あっ……」
──だが、追い詰められたカトリーナは足を踏み外し、階段から盛大に落ちた。
「危ない!!」
近くにいたとある男が手を伸ばし、クッションになったので幸い見た目には大きな傷はなかった。
男は身体を起こしたが、カトリーナは気を失ったのか目を覚まさない。
「すぐに医務室へ!それからオールディス公爵家へ連絡を!」
あたりが騒然とする中、指示を飛ばすのはカトリーナを抱きかかえた、ディートリヒ・ランゲその人だった。
帰宅しようとして階段の途中にいたディートリヒがカトリーナを受け止めはしたが、途中頭をぶつけていたのでそっと横抱きにして立ち上がる。
「は……はははは!!自業自得だなカトリーナ!!ちょうど良いではないか!傷物令嬢に傷物伯爵、お似合いの二人ではないか!なあ、皆の者!」
デーヴィドの声が辺りに響くが、周りにいた者は誰一人として口を開かない。
さすがの彼もこの空気はまずいと察したのか、舌打ちをし目線を落とした。
ディートリヒは憤怒の形相でデーヴィドを一睨みした。
自分だけで無く階段から落ちて気を失った元婚約者であるカトリーナさえ侮辱したのだ。
しかも心配する素振りすら無かった。
本当ならば今すぐ殴り飛ばしたい衝動にかられたが、今はカトリーナを医務室に連れて行くのが先決だと歯噛みし、威圧だけ残して立ち去った。
幸い、カトリーナは打ち身こそあれど命に別状は無かった。
ディートリヒは、せめてオールディス公爵が来るまでは側にいようとベッドの近くにあった椅子を引いた。
(先程の殿下の戯れは即刻取り消して頂かねば)
ディートリヒはカトリーナを医務室に連れて行く途中で婚約破棄騒動を知った。
警備に出ていた王国騎士の知り合いから事情を聞いたのだ。
婚約破棄をした王太子が婚約者を侮辱し、相手の意向も汲み取らずに望まぬ婚姻を押し付ける。
バカバカしい話である。
ディートリヒはまだ良い。
社交界で蔑まれても、受け流す事もできる年齢だ。
だがカトリーナはどうだろうか。王太子妃教育を受けたとはいえ、彼女の一生を左右する問題を見過ごす事などできないだろう。──現にその場から立ち去ろうとしたのだから。
ディートリヒは目の前で眠る彼女を見やった。
「……嫌いな奴との結婚なんか、悪夢以外にないだろ……」
ディートリヒは頭を抱え、重く溜息を吐く。
これからの事を考えると頭痛がする。
その時、医務室の扉を叩く音がした。
重い頭を上げ扉の方を見やると、王太子デーヴィドがシャーロットの肩を抱いたまま、その後ろに侍従を伴い入室した。
「……ふん、まだ目覚めてないのか。まあいい」
右手を挙げると、後ろに控えていた侍従が気まずそうに近くにあったテーブルに書類を広げた。
「そなた達の婚姻届だ。私が証人になろう。サインを」
ニタリと笑う王太子と傍らの令嬢に抑えていた怒りが湧き上がる。
「何を考えておいでですか!?オールディス公爵令嬢は怪我をなされたのですよ?」
「それが私達の邪魔をしなければ良かったのだ。いつもいつも……愛しの……シャーロットに……」
その時を思い出しているのか、デーヴィドの瞳は揺れている。
「殿下はそこまで……」
憎いと言うのか。
王太子の為に日々研鑽していた彼女が。
時折誰も見られないような場所で涙していた彼女が。
常に矢面に立たされ、王太子の婚約者として中傷を受けても凛として立っていた彼女を、ディートリヒは知っていた。
そして。
カトリーナが自分に向ける視線が最初は侮蔑が宿っていたが次第にそれだけで無いのも分かっていた。
ディートリヒの噂が始まれば彼女の鶴の一声で噂が止むのだ。
上手く会話を誘導して別の話題に切り替える。
そんな彼女に惹かれていたのだ。
だが相手は王太子の婚約者。いくらディートリヒが想っても、報われる事は無い。
だから、彼女が将来王太子と結婚し、ゆくゆくは王妃となるならば。
自分が彼女を守ろうと思うくらいにはカトリーナを想っていた。
そんな彼女に婚約破棄を言い渡し、挙句別の令嬢を伴う王太子にディートリヒは辟易した。
「ねぇ、早く書いたらぁ?」
「シャーロット、待たせてすまないな」
二人の会話が耳障りでたまらない。
怒りを堪えながらディートリヒはカトリーナの目覚めを待った。
「……ん」
そこへ身動ぎしながらカトリーナの瞳が開く。
「やっと目が覚めたか、悪女め」
デーヴィドが憎々しげに見下ろすが、カトリーナは目覚めたばかりで状況を把握できていないのか困惑の表情を浮かべた。
「ほらぁ、早く書きなさいよ~」
「オールディス公爵令嬢、気分はどうですか?
……どこか痛む所はありませんか?」
「……え……あの……」
ゆっくり身体を起こし、辺りを見回す。
その顔の困惑は未だ晴れないまま。
「あなたがたは……誰ですか?私はどうしてここにいるんです……?」
目覚めたカトリーナは、一切の記憶を失っていた。