「いえ、あの…私、大学生の時からハルカ書店でバイトしていたでしょう。私服にエプロンで作業してたから、動きやすい服がよくて。それ以来、主に着る服がカジュアルよりになってしまっていて。就職してからは、お給料だと高い服は買えなかったし。なんだか…今日、着ているようなお洋服は恐れ多いというか」
「そうだな。俺も、ハルカ書店の制服から着替えたみちるさんが、いつもシャツとデニム姿だったのを覚えてる」
「え、覚えていたんですか…!」
 思いがけない展開にたじろぐ。だって二か月しか一緒に仕事していないのに。
「閉店間際まで、よく残業してたじゃないか。ほんとに骨身を惜しまず働くなあと感心してたよ」
「あ、ありがとうございます」
 そうして思い出す。みちるが帰ろうとしていると、恭一が事務所の机で気難しい顔をして精算作業をしていたことを。邪魔しないようにお疲れ様です、というと視線はよこさずにお疲れ、と返事してくれた。そんな時に実は見ていたんだなあ、と変な感心をしてしまう。
「シャツとデニム姿のみちるさんも、似合ってて格好よかったけど。俺といる時は今日みたいな服も着てほしくて、プレゼントさせてもらったんだ。まあ、俺のわがままだから気にしないで」
 自分のわがままだから、と言われてしまうと返答のしようがない。
 それに、みちるには、確認したいことがあった。最初は、恭一だって、みちる同様、結婚はまだ考えられないと言っていたじゃないか。
 それがどうして、みちると結婚を前提にしたおつきあいに、となってしまたったのだろう。今日の恭一に至っては、婚約者とのたまう始末だ。話が飛びすぎている。
 風に流れていく風景を眺めながら、みちるの中に、ひとつの考えが浮かびあがる。
 ひょっとして…私が、主任のミニサイズ化する「アレ」を、知ってしまったから。誰にも吹聴されないように、自分の監視下に置いておきたい、とか。
 つまり婚約者になれ、というのは口封じを意味するのでは…?!
 そこまで考えて、主任、と大き目の声で呼び掛けようとした瞬間、車が止まった。
「着いたよ。みちるさん、降りて」
 仕方なく車から降りたみちるの前には、美麗な洋館が建っていた。赤レンガ造りで、いかにも歴史のありそうな建物だ。小さなプレートの看板から、ここがレストランだとわかった。
「行こう。席を予約してある」
 厳かな雰囲気のある洋館の玄関を抜けて、ほの明るい照明の廊下を通り抜けると、個室のドアが開けられた。大きなテーブルの向こう側は、ガラス張りになっていて、夕暮れの美しい景色が広がっている。恭一は椅子を引き、その景色の見える席に座るよう、みちるに促した。
 席につくと、静かにスタッフがやって来て、料理を運び始めた。
「みちるさん、シャンパンでいい?」
 はい、と頷くと、すぐにグラスに金色のあわ立つ液体が注がれた。恭一のグラスの中にも気泡が見える。きっと炭酸水だ。
だってお酒を飲んだら主任は…!
つい、恭一のミニサイズを思い出し、今日九回目の思い出し笑いをしそうになる。恭一が怪訝な顔をしたので、ささっと顔を引き締める。
「みちるさんも、美味しい食事はよく知っていると思うけど、ここのも美味しいから。さ、食べてみて」
 確かに、実家にいた頃には、レイコさんと父洋二郎の三人で時折、食事に出かけた。贅を尽くした食事をしたことがない、と言ったら嘘になる。
 だけど。こんな風に男性と二人で、高級料理を食べた経験なんて、いまだかつてなかった。
 口に含んだシャンパンは甘くて美味しい。アルコールのせいか、はりつめていたみちるの神経がほぐれていくようだ。ふと、レイコさんの誕生日祝いは必ず、シャンパンだったことを思い出す。
「どうしたの」
 恭一が不思議そうな顔をする。みちるがレイコさんの事を思い出し、表情を変えたのを気づいたようだ。
「いえ…レイコさん、いえあの母がシャンパンを好きで」
「レイコさん?木内家では、お母さんを名前でよぶしきたりでもあるの?」
 お酒のせいで、つい人前でレイコさんと言ってしまったことを悔やむ。しかし、美味しいお酒を飲んでいたら、喋ってもいいかな、と思えてきた。
「しきたりではないんですが。母は、父と再婚した義母なんです」
「ああ、それでお母さんと呼べなくて?」
「いえ…もうちょっと話が込み入っていて。私、レイコさんのことを長いこと住み込みの家政婦さんだと思っていたんです」
「は…?」
「だから、義母のレイコさんではなく、家政婦のレイコさんとして接していた時間が長くて。それで今でもレイコさん、なんです」
「お義母さんは、それでもいいと?」
「はい。レイコさんは、レイコさんで家政婦になりきってましたから。ただ、普通の家政婦さんより優雅でゆったりしてるなあ、っていう違和感はあったんですけど」
「あの、よくわからないけど、ええっと」
「わかりやすく言うと、私が中学にあがる時にレイコさんと父に告白されました。『私たち結婚してたんです』って。それからレイコさんは私のことをみちるお嬢様って言うのをやめて、みちるさん、と呼ぶようになりました。私にしたら晴天の霹靂で、レイコさんをいきなりお義母さんなんて呼べなくて。それで、レイコさんのままで。今に至る、というわけです」
「は、はあ…」
 恭一は、よほど驚いたのか、料理を食べる手をすっかり止めてしまっている。
「レイコさんって、悪い人じゃないんですけど、そういう変化球を投げることがままあって、いまだに何か仕掛けられてるんじゃないかと思うこともありますね」
「それは、まあ…なかなかな…なんていうか、面白いね」
 ぎこちない笑みを浮かべて恭一がそう言ったので、みちるもつられて笑ってしまった。
「そうですよね。すごく近しい間柄なんですが、油断もできないんですよ。この間は、実家にあったケーキを食べようとしたら『はたらかざるもの、食うべからず』って言われました。ほら、私、無職じゃないですか」
 恭一が頷く。
「ね。変なところで厳しくて、でも、私が幸せになりそうなことは応援してくれるんです。甘えることもできないけど、嫌われてるわけでもないんです」
 恭一との交際を、レイコさんは喜んで応援するわよ、と言ってくれた。あの言葉に嘘はなかったと思う。
「なるほど…花園製菓のお嬢様が何で書店勤務に明け暮れているかと思ったら、そういう複雑なバッグボーンがあったんだな」
 恭一は、少し気を取り戻したのか、料理を食べるのを再開した。
「どうなんでしょう…まあ、中学から大学まで、本の世界にのめりこんだのは、確かにレイコさんと差し向かいみたいな空気を避けていたからかもしれないです。もう、今となっては、どうでもいいんですけど。書店で働くのは、ほんとに楽しかったので」
「ああ、飯田橋店の店長から、バイトからたたきあげで正社員になった子だから、よろしくって紹介されたのを思い出したよ」
「ふふっ、正社員になれたとき、うれしかったな…これで私の生きる場所ができた、ってそんな感じでした」
「そんな風に思える瞬間があるって、人生にはそう何度もないよ。君の宝物の瞬間だな」
「はい」
 それから、メイン料理からデザートを食べ終えるまで、他愛のないおしゃべりを楽しんだ。
 恭一は、お酒も飲んでいないのに、意外とみちるを笑わせるのが上手かった。笑わされていく内に、みちるの張っていたバリヤーがちょっとずつはがれていく。
 主任ってこんなに話しやすかったっけ…?と改めて思う。
 しかも、何かとみちるを褒め、肯定しようとしてくれる。
 こういうのって…されたことないからわからないけど…口説かれてるってやつ…?!
 酔いのまわったほわんとした頭で、そんなことをつい思ってしまう。素敵な服、美味しい食事、楽しい会話。行き届いたデートであるのは間違いない。
 主任は、私のことをどう思っているんだろう。
 今日、何度も婚約者呼ばわりされたけど、その真意は何なのだろう。
 食後のコーヒーが運ばれ、いい香りがした。恭一は咳払いをひとつして、言った。
「言いにくいことなんだけど…俺は」
 ちょっと間が空いた。
「俺は、君が欲しい」
 がちゃ、とみちるはコーヒーカップをソーサーに置いた。
 これこそ口説き文句の最たるもの。みちるは固まってしまった。
「ホテル北都の一員として、君が欲しいんだ」
 ん?…ホテル北都の一員?
「実は、うちのホテルのウェルカムドリンクにスイーツをつけよう、という企画があってね。いろいろ老舗の洋菓子店なんかを当たっているんだが、今はどこの商品もネットでお取り寄せできるだろう。それでもいいんだが、うちとしては、『ホテル北都でしか食べられない地域に密着したお菓子』を扱いたいと思っているんだ」
「は、はあ…」
 勘違いしたみちるが悪いのだが、急展開すぎて話が見えない。
「いくつか候補になりそうな洋菓子店をピックアップしてある。実際にその店に赴いて、お菓子を試食する事が必要だ。そこで、みちるさん」
 恭一が改めて、みちるの目を見据える。
「お菓子の試食めぐりの旅に、君も一緒に行ってくれないか。ホテル北都の常務秘書として」
「私が…ですか?」
「そう。君はちょうど仕事を探しているし。希望していた書店の仕事ではないけれど、お給料はハルカ書店よりは上だ。悪くない話だと思うんだけど」
「待ってください。ホテル北都の秘書の方なら、他に適任がいらっしゃるでしょう。私はホテル業についてド素人です。主任の助けなんて、できないと思うんですが」
 言いながら、ふっと昼間見た不採用通知を思い出す。
「私が、仕事を見つけられないから、同情してるんですか」