文芸書の売り上げの伸び悩みは、飯田橋商店街店の大きな問題だった。それを黒字に転換させる手腕の鮮やかさ。みちるは同じ書店員として、ものすごく感動した。
「主任はすごいなあって…ずっと憧れてたんです」
そこまで言って、みちるは、あ、と気づいた。
「すみません、また主任と呼んでしまって。常務でしたね」
慌てるみちるを、恭一が不思議そうな顔をして、見つめてきた。そして言った。
「憧れてた…俺を?」
意外そうな顔をする恭一が、逆にみちるには不思議だった。
「そうですよ。同僚の皆がそうだったと思います。すごい手腕で仕事をやってのける。主任を憧れない人なんていなかったと思いますよ」
あ、また主任って言っちゃった、とみちるは舌を出した。
すると、恭一が、ソファから立ち上がり、みちるの横に腰かけた。急に至近距離になって、みちるはどきん、とした。
「憧れか…みちるさんは、俺を男として、どう思ってるの」
「ど、どうって…」
どきどきが止まらなくなってきた。
「ひ、人として尊敬しています」
「男として、だと言ったろう」
「それは…、えと、その」
みちるは鼓動が早くなる中で、考えをめぐらしてみた。婚約者云々や、バラの花や服のプレゼントなどのサプライズは、結局は、みちるにお菓子めぐりの旅に同行してほしかったからだ、と思っていた。
ミニサイズ化を知っている人間はみちる一人なので、恭一は助けが欲しかった。そして、みちるも助けたいと思った。
それは自然にわいてきた気持ちだった。さっきも言ったように、恭一は憧れの存在だった。同僚の女子社員の中には、恭一を狙っちゃおうかな、とまで言う者もいた。みちるは恐れ多くて、そんな心境にはなれなかった。自分が向かっていったところで、恭一がみちるを相手にしてくれるなんて想像できなかった。
みちるの中では、みちると恭一の関係はあくまでダメな新入社員とやり手の上司というものだった。
それは今も続いていると、みちるは思おうとしていた。
でも…少し違うかも、という気持ちもあった。恭一は、みちるのことを褒めたり肯定してくれたりする。
そのことは、ストレートに嬉しかった。あの主任から褒められた!と舞い上がる事もあった。
そこまで考えて、しびれを切らしたのか、恭一が言った。
「俺のことは…嫌いじゃない?」
「き、嫌いなんて思ったこと、ないです」
「じゃあ、好き?」
恭一が、みちるを覗き込むようにして言った。小首を傾げた犬のような目をしている。
ず、ずるい…かわいい…!
みちるの中から、かあっと熱くなるものがあった。頬も上気している。
これでは、答えを言ってしまっているのも一緒だと思うけれど、恭一はまだみちるに問うような顔をしている。
ふう、と息を吐いて恭一は言った。
「みちるさんは…あれなのかな…俺のミニサイズ化が見たいだけなんじゃないか」
「はい、それはあります」
なぜかその点は、明確に言えるのだった。とにかくミニサイズの時の恭一はキュートで、どこかに隠して自分だけのものにしたい!と激しく思うのだ。これこそ萌えというもの。
「やっぱりそうか…」
ぐっと肩を落として、恭一がうなだれた。
なんだかみちるがいじめているような気になった。それもずるい、と思う。みちるとしても反撃したくなった。そこで、以前から疑問に思っていたことを口にすることにした。
「わ、私も、主任に聞きたいことがあります」
「何?」
うなだれたまま、恭一が言う。
「その…結婚寸前までいった方と、どうして破局したんですか」
実は、かなり聞きたかったことだった。みちるはこれまで恋愛経験がない。だから男女の機微などわからず、察してやることができない。
正直に、どうして、と恭一に問うしかなかった。
「そうきたか」
恭一が、げんなりした顔をした。また、息を吐いて、頭をあげた。
「そうだな。君を婚約者呼ばわりしてる者として、そこは教えるべきだよな」
みちるは頷いて先を促した。
「相手は、うちのホテルの大手の取引相手のお嬢さんだった。もう三十になったんだから身を固めろ、と言われて見合いした。きれいめで大人しい女性で、家庭をまかせられると思った」
きれいな人だったのか…みちるの胸の内がちくん、と痛んだ。
「デートの時もそつがなくて、マイナス点がないっていうのかな。こうやって結婚するんだ、と俺も納得しかけていた。…でも、半年前にそれが変わった」
半年前と言えば、ミニサイズ化が始まった頃だ。
「俺は、ミニサイズになった事で動揺していた。でも、彼女は生涯の伴侶となるわけだから、いつかミニサイズになることを打明けないと、と思っていた。その矢先。彼女の作った料理の中に酒が入っていて…彼女の目の前で、俺はミニサイズになってしまった」
恭一の声のトーンが暗い。みちるは「どうなったんですか」ときいた。
「うん。彼女は失神してしまって…気がついてから、俺を化け物を見るような目で見た。近づかないで、とも言われて…ショックだったよ。自分が呪わしい存在なんだと思えてね。それから数日後、彼女との結婚は白紙になった」
「そんな…」
みちるは、その時の恭一に駆け寄って言ってあげたかった。
こんなに可愛いのに!呪わしくなんか、ない!と。
だからね、と恭一が微笑んだ。
「君が、なんて言ったかな…きゅん…」
「きゅん死にです」
「そう、それ。そう言って喜んでたとき、複雑な気分もあったけど、嬉しくもあった。この子は俺を化け物扱いしないんだな、って」
「そんな…そんなの、当たり前のことです」
「でも、俺は救われた。こんな子となら、やっていけるかもしれない、そう思って、君を婚約者扱いした。まあ時期尚早だったかな」
みちるは、力強く頷いた。
「そうですよ。お見合いの席でお庭を見ている時は、この見合いを断るって主任は言ったのに、両親と会った時には『おつきあいさせてください』って。激変してるんですもん」
「あれは、君も悪い。ミニサイズ化した俺を見て、あんまりきゃーきゃー言うから、いじわるしたくなったんだ」
「ひどい」
そう言いながらみちるは笑っていた。何となく、言いたいことを言い合えてぐっと距離が縮まったような気がした。
「で、結局、俺をどう思ってるんだ。まだ答えを聞いてない」
う、とみちるは固まった。
恋愛経験がないので、自分の心のあり様が、もうひとつわからない。恋愛小説を読むのは好きだけれど、あれは架空の世界だからのめりこめるのであって、現実の男性相手となると、どうしたらいいのか。
自分の胸の内に問いかける、自分は恭一を改めて、どう思っているのか。
「ぼたもち」
ぽろっとみちるは呟いた。
「は?」
怪訝な顔をして、恭一がみちるを見る。
「ほら、棚からぼたもちって言うじゃないですか。すごいラッキーなことがあった時。主任が私に向き合ってくれるなんて、棚からぼたもちが落ちてきたようなもので…ただ、そのぼたもちが大きすぎて、私には食べられないんです」
んん?と、恭一が、眉間に皺を寄せる。
「よくわからんな…ぼたもちが大きい分には嬉しいんじゃないか」
「だから。主任は、私からしたら大人すぎて…主任には、私よりもっと大人の女性がお似合いなんじゃないか、って思ってしまうんです」
「そんな大人の女性に、化け物扱いされたんだよ。らちが明かないな。君はさっきから俺のことを特別みたいに言うが、好きな女がいたら触れたいと思う、普通の男だよ」
みちるの瞳が揺れた。
「好きな、女…?」
恭一は、くしゃっと、みちるの頭を触った。
「木内みちるさん。俺は、君が好きだよ」
みちるの中で、ああでもない、こうでもない、とほどけなかった糸が一気に解れた気がした。
主任が、私のことを、好き…
ダイレクトに、やっと心の底に届いた。手が届きそうと思っても、実は違うんだ、と手の平を返されそうで、手を伸ばすことができなかった。
でも、はっきりと、恭一は自分に告白してくれた。
そんなはずない、ともう打ち消さないでいいんだ。
そう思ったら、目じりに涙がにじんできた。
「どうした」
恭一が、優しい声で至近距離でささやく。
「嬉しくて…泣けてきちゃいました」
「…かわいいな、もう!」
恭一が、みちるを頭から抱え、抱しめた。きゃ、とみちるは、声をあげてしまう。もう心臓は、ばくばくだ。
「みちる…」
恭一が、みちるの頬を触り、顔を近づけてくる。
みちるのドキドキが最高潮に達した時、スマホの着信音が流れた。
「…ちっ、不粋だな」
恭一が忌々しそうに、みちるから身体を離し、テーブルの上で鳴っている自分のスマホを手にした。画面を見て、顔付きが変わる。
みちるは、恭一から離れ、ばくばくした高鳴りを抑えようと考えた。
な、何か口に入れて、気分転換…。そう思って、バッグを引き寄せた。
「はい、槙田です。ええ…そうですか。よかったですね。はい…ええ。わかりました。明日、大丈夫です。電車に乗れなくて一泊したので。はい。お疲れ様です。ありがとうございます。では」
声のトーンが明るい。何かいい電話だったんだ、とみちるは察した。
「いい知らせだ。一倉の透さんからだった。息子さんの熱もさがって大したことなかったそうだ」
「わあ、よかったですね」
「うん。それと、親父さんとよくよく話し合ってくれたらしい。一倉のお菓子を北都に卸すかどうか。結果的には、GOサインが出たそうだ」
「ほんとですか!」
みちるの顔もぱあっと明るくなる。
「うん。明日、午前中に、透さんと会うことになった。試食会の仕切りなおしだ」
「主任はすごいなあって…ずっと憧れてたんです」
そこまで言って、みちるは、あ、と気づいた。
「すみません、また主任と呼んでしまって。常務でしたね」
慌てるみちるを、恭一が不思議そうな顔をして、見つめてきた。そして言った。
「憧れてた…俺を?」
意外そうな顔をする恭一が、逆にみちるには不思議だった。
「そうですよ。同僚の皆がそうだったと思います。すごい手腕で仕事をやってのける。主任を憧れない人なんていなかったと思いますよ」
あ、また主任って言っちゃった、とみちるは舌を出した。
すると、恭一が、ソファから立ち上がり、みちるの横に腰かけた。急に至近距離になって、みちるはどきん、とした。
「憧れか…みちるさんは、俺を男として、どう思ってるの」
「ど、どうって…」
どきどきが止まらなくなってきた。
「ひ、人として尊敬しています」
「男として、だと言ったろう」
「それは…、えと、その」
みちるは鼓動が早くなる中で、考えをめぐらしてみた。婚約者云々や、バラの花や服のプレゼントなどのサプライズは、結局は、みちるにお菓子めぐりの旅に同行してほしかったからだ、と思っていた。
ミニサイズ化を知っている人間はみちる一人なので、恭一は助けが欲しかった。そして、みちるも助けたいと思った。
それは自然にわいてきた気持ちだった。さっきも言ったように、恭一は憧れの存在だった。同僚の女子社員の中には、恭一を狙っちゃおうかな、とまで言う者もいた。みちるは恐れ多くて、そんな心境にはなれなかった。自分が向かっていったところで、恭一がみちるを相手にしてくれるなんて想像できなかった。
みちるの中では、みちると恭一の関係はあくまでダメな新入社員とやり手の上司というものだった。
それは今も続いていると、みちるは思おうとしていた。
でも…少し違うかも、という気持ちもあった。恭一は、みちるのことを褒めたり肯定してくれたりする。
そのことは、ストレートに嬉しかった。あの主任から褒められた!と舞い上がる事もあった。
そこまで考えて、しびれを切らしたのか、恭一が言った。
「俺のことは…嫌いじゃない?」
「き、嫌いなんて思ったこと、ないです」
「じゃあ、好き?」
恭一が、みちるを覗き込むようにして言った。小首を傾げた犬のような目をしている。
ず、ずるい…かわいい…!
みちるの中から、かあっと熱くなるものがあった。頬も上気している。
これでは、答えを言ってしまっているのも一緒だと思うけれど、恭一はまだみちるに問うような顔をしている。
ふう、と息を吐いて恭一は言った。
「みちるさんは…あれなのかな…俺のミニサイズ化が見たいだけなんじゃないか」
「はい、それはあります」
なぜかその点は、明確に言えるのだった。とにかくミニサイズの時の恭一はキュートで、どこかに隠して自分だけのものにしたい!と激しく思うのだ。これこそ萌えというもの。
「やっぱりそうか…」
ぐっと肩を落として、恭一がうなだれた。
なんだかみちるがいじめているような気になった。それもずるい、と思う。みちるとしても反撃したくなった。そこで、以前から疑問に思っていたことを口にすることにした。
「わ、私も、主任に聞きたいことがあります」
「何?」
うなだれたまま、恭一が言う。
「その…結婚寸前までいった方と、どうして破局したんですか」
実は、かなり聞きたかったことだった。みちるはこれまで恋愛経験がない。だから男女の機微などわからず、察してやることができない。
正直に、どうして、と恭一に問うしかなかった。
「そうきたか」
恭一が、げんなりした顔をした。また、息を吐いて、頭をあげた。
「そうだな。君を婚約者呼ばわりしてる者として、そこは教えるべきだよな」
みちるは頷いて先を促した。
「相手は、うちのホテルの大手の取引相手のお嬢さんだった。もう三十になったんだから身を固めろ、と言われて見合いした。きれいめで大人しい女性で、家庭をまかせられると思った」
きれいな人だったのか…みちるの胸の内がちくん、と痛んだ。
「デートの時もそつがなくて、マイナス点がないっていうのかな。こうやって結婚するんだ、と俺も納得しかけていた。…でも、半年前にそれが変わった」
半年前と言えば、ミニサイズ化が始まった頃だ。
「俺は、ミニサイズになった事で動揺していた。でも、彼女は生涯の伴侶となるわけだから、いつかミニサイズになることを打明けないと、と思っていた。その矢先。彼女の作った料理の中に酒が入っていて…彼女の目の前で、俺はミニサイズになってしまった」
恭一の声のトーンが暗い。みちるは「どうなったんですか」ときいた。
「うん。彼女は失神してしまって…気がついてから、俺を化け物を見るような目で見た。近づかないで、とも言われて…ショックだったよ。自分が呪わしい存在なんだと思えてね。それから数日後、彼女との結婚は白紙になった」
「そんな…」
みちるは、その時の恭一に駆け寄って言ってあげたかった。
こんなに可愛いのに!呪わしくなんか、ない!と。
だからね、と恭一が微笑んだ。
「君が、なんて言ったかな…きゅん…」
「きゅん死にです」
「そう、それ。そう言って喜んでたとき、複雑な気分もあったけど、嬉しくもあった。この子は俺を化け物扱いしないんだな、って」
「そんな…そんなの、当たり前のことです」
「でも、俺は救われた。こんな子となら、やっていけるかもしれない、そう思って、君を婚約者扱いした。まあ時期尚早だったかな」
みちるは、力強く頷いた。
「そうですよ。お見合いの席でお庭を見ている時は、この見合いを断るって主任は言ったのに、両親と会った時には『おつきあいさせてください』って。激変してるんですもん」
「あれは、君も悪い。ミニサイズ化した俺を見て、あんまりきゃーきゃー言うから、いじわるしたくなったんだ」
「ひどい」
そう言いながらみちるは笑っていた。何となく、言いたいことを言い合えてぐっと距離が縮まったような気がした。
「で、結局、俺をどう思ってるんだ。まだ答えを聞いてない」
う、とみちるは固まった。
恋愛経験がないので、自分の心のあり様が、もうひとつわからない。恋愛小説を読むのは好きだけれど、あれは架空の世界だからのめりこめるのであって、現実の男性相手となると、どうしたらいいのか。
自分の胸の内に問いかける、自分は恭一を改めて、どう思っているのか。
「ぼたもち」
ぽろっとみちるは呟いた。
「は?」
怪訝な顔をして、恭一がみちるを見る。
「ほら、棚からぼたもちって言うじゃないですか。すごいラッキーなことがあった時。主任が私に向き合ってくれるなんて、棚からぼたもちが落ちてきたようなもので…ただ、そのぼたもちが大きすぎて、私には食べられないんです」
んん?と、恭一が、眉間に皺を寄せる。
「よくわからんな…ぼたもちが大きい分には嬉しいんじゃないか」
「だから。主任は、私からしたら大人すぎて…主任には、私よりもっと大人の女性がお似合いなんじゃないか、って思ってしまうんです」
「そんな大人の女性に、化け物扱いされたんだよ。らちが明かないな。君はさっきから俺のことを特別みたいに言うが、好きな女がいたら触れたいと思う、普通の男だよ」
みちるの瞳が揺れた。
「好きな、女…?」
恭一は、くしゃっと、みちるの頭を触った。
「木内みちるさん。俺は、君が好きだよ」
みちるの中で、ああでもない、こうでもない、とほどけなかった糸が一気に解れた気がした。
主任が、私のことを、好き…
ダイレクトに、やっと心の底に届いた。手が届きそうと思っても、実は違うんだ、と手の平を返されそうで、手を伸ばすことができなかった。
でも、はっきりと、恭一は自分に告白してくれた。
そんなはずない、ともう打ち消さないでいいんだ。
そう思ったら、目じりに涙がにじんできた。
「どうした」
恭一が、優しい声で至近距離でささやく。
「嬉しくて…泣けてきちゃいました」
「…かわいいな、もう!」
恭一が、みちるを頭から抱え、抱しめた。きゃ、とみちるは、声をあげてしまう。もう心臓は、ばくばくだ。
「みちる…」
恭一が、みちるの頬を触り、顔を近づけてくる。
みちるのドキドキが最高潮に達した時、スマホの着信音が流れた。
「…ちっ、不粋だな」
恭一が忌々しそうに、みちるから身体を離し、テーブルの上で鳴っている自分のスマホを手にした。画面を見て、顔付きが変わる。
みちるは、恭一から離れ、ばくばくした高鳴りを抑えようと考えた。
な、何か口に入れて、気分転換…。そう思って、バッグを引き寄せた。
「はい、槙田です。ええ…そうですか。よかったですね。はい…ええ。わかりました。明日、大丈夫です。電車に乗れなくて一泊したので。はい。お疲れ様です。ありがとうございます。では」
声のトーンが明るい。何かいい電話だったんだ、とみちるは察した。
「いい知らせだ。一倉の透さんからだった。息子さんの熱もさがって大したことなかったそうだ」
「わあ、よかったですね」
「うん。それと、親父さんとよくよく話し合ってくれたらしい。一倉のお菓子を北都に卸すかどうか。結果的には、GOサインが出たそうだ」
「ほんとですか!」
みちるの顔もぱあっと明るくなる。
「うん。明日、午前中に、透さんと会うことになった。試食会の仕切りなおしだ」



