「二代目は、透さんが思っている以上に不安なんです。自分はもう古いんだろうか、と切実に思っている。だからあなたに認められたくて頑なにダメ出しするんです。自分の判断でまだいけるということを証明したくて、ね」
「親父が…不安…?」
呆然とした顔をして透が呟く。
恭一は微笑んで言った。
「今のままでは、お互い同じように角を突き出してぶつかってしまう。私もホテル北都の二代目なので、経験があります。そんな時は、アプローチのしかたを変えればいい」
透は何も言わず恭一の言葉を聞き入っている。
「二代目のことを素直に褒めてあげてください。そして尊敬してることもきちんと伝える。それをした上で、二代目のやり方もわかるけれど、こういうやり方もある、と提案する。気恥ずかしいかもしれませんが、意外と効果があります」
透は心が打たれたのか、押し黙って自分の手元を見ている。恭一は、目の前の料理を食べるのを静かに再開した。
その横顔を見ながら、みちるは恭一を誇らしく思った。そして、恭一はもう書店員ではないけれど、あの頃の尊敬できる上司のままなのだ、と納得した。そのことが妙に嬉しかった。
料理を食べ終えて、少しまったりしていると、もうすぐ新幹線の時間であることに気づいた。来た時のように、透が送ってくれると言う。そうして料亭を出ようとすると、ひどい雨が降っていた。そういえば昼間、くもっていたな、とみちるも思い出した。
岡山駅に到着する直前、透のスマホに着信があった。なんと若奥さんからで子供が熱を出しているという。
みちるも恭一も早く帰ってあげたらいいですよ、と言って、あいさつもそこそこに岡山駅前で下してもらった。すっとんで帰っていく透の車を見送り、料亭で借りた傘を開く。
傘は一本しかなかった。自然と相合傘になる。
「みちるさん、濡れるよ」
そう言って、恭一は傘を持つ反対の手でみちるの肩を抱き寄せた。恭一に肩を寄せる形になる。恭一のスーツから、さわやかな香りがした。
なんだろう、コロンかな…。
そう思いながら、近くにいる恭一のことを意識してしまう。顔が赤いのを恭一に見られたら恥ずかしいと思い、俯いて歩く。
岡山駅構内に入って傘を閉じて、みちるは、ぱっと恭一から離れた。
なんだろう、意識しちゃって…高校生みたい。
頬が火照るのを抑えようとしていると、恭一が「あ」と声を出した。駅の構内がざわついている。やっと平静に戻ったみちるは流れているアナウンスに耳を傾ける。
目を見張った。
「常務…雨天のため、運行停止って言ってませんか?」
「そうみたいだな」
「え…じゃあ、帰れないってことですよね。大変、泊まるところを探さなくちゃ」
みちるは、バッグからスマホを取り出した。
それを見ていた恭一がぷっ、と吹き出した。
「みちるさん、俺を誰だと思っているの?」
「え?」
再び一つの傘を差して身を寄せ合っていたみちると恭一の前に、黒塗りの車が止まった。そこから、白い手袋をつけたスーツの男性が降りて来て、恭一とみちるのために後部座席のドアを開けた。
「常務。おまたせして申し訳ありません」
「門倉さん、ありがとう。濡れないようにこれを」
と、門倉と呼ばれた男性に傘を渡す。ありがとうございます、と門倉は受け取ったが、ほとんど差さずに、さっと運転席に座る。みちるは門倉がやっと送迎専門の運転手であることに気づいた。
車が到着したのは、ホテル北都の岡山支店だった。そうなのだ。今日のお菓子めぐりの旅は、この岡山支店のためのものだった。当たり前のことを忘れていた自分が恥ずかしかった。
車を降りると、ドアボーイが恭一のカバンをさっと持った。
「おかえりなさいませ。常務」
「いつも悪いね。吉田、元気にしてたかい?」
「はっ。おそれいります」
ドアボーイは恐縮しながら恭一とみちるの前を歩いて行く。
エレベーターが着いたのは、最上階だった。みちるは、絨毯でふかふかの廊下を踏みしめながら恭一の後をついて行くしかない。
恭一と岡山で一泊することになった。それは理性的に考えてわかる。
だけど…部屋は別々よね?そうよね?
その心の呟きを、まるで聞いていたかのように恭一は言った。
「あー、さっきの岡山駅で足止めされた客で客室がいっぱいでね。ここしか、空いてなかった」
そう言って、恭一は、大きなドアを開けた。
何て答えればいいのかわからず、みちるは部屋に一歩踏み入れる。なんだか絨毯のふかふか加減が増した気がする。
凝った刺繍の施されたクッションの乗った立派なソファ。猫足の美しいテーブル。背の高いカーテンは明らかにゴブラン織。すべてが一流品だと思われる調度品の数々…。
ここって…ここって…どう考えても…
「ホテル北都のロイヤルスイート。どうかな。花園製菓のお嬢様には普通かな」
やっぱり…!
「いえ、私あまり旅行に行く方じゃなかったんで…こういうスイートルームは初めてです」
学生時代からバイトに明け暮れることに夢中だった。そしてなんとなくレイコさんとの旅行も乗り気になれず断っている間にゴージャス旅行を知らないで今まできてしまっていた。
それでも、スイートルームに関する知識は人並みに持っている。
た、確か…スイートルームのベッドってシングル二つじゃない、わよね…
かなり動揺していたが、恭一にそれを悟られないように、落ち着いたトーンで言った。
「あの、お部屋の中をじっくり見てもいいですか?」
「もちろんだよ。何か暖かい飲み物を持ってきてもらおう。コーヒーでいい?」
「はい。ありがとうございます」
みちるは大きな音を立てないようそっと部屋を見てまわった。
ゴージャスで大きなバスルーム。小綺麗な洗面室とトイレ。
いよいよ、寝室のドアを開けると。
みちるの想像通り、キングサイズのダブルベットがあった。
やっぱり…!
意外と恭一はくったくのないところがあるから、二人でベッドを使おうよ、とか言い出しかねない。
二人で同じ部屋に泊まるだけでも、もう心臓がバクバク言っているのに、同衾なんてありえない。
「ベージュのベットカバーか。もっと色味があってもいいな。みちるさんどう思う」
いつの間にか背後にいた恭一に言われて、ひゃっと声をあげそうなる。それをなんとかこらえて、言った。
「そうですね。薄いラベンダーなんかも素敵かもしれませんね」
「いいね。今度、提案してみよう。あ、みちるさんは今夜、このベッドを使って。俺はソファで寝るから」
「えっ…いいんですか。ソファなんて、体がきつくないですか。私がソファに」
「女性をソファになんて寝かせられないよ。ここは、俺の言う事をきいておきなさい」
ね、と至近距離で念押しされて、何となく、くすぐったい気分になる。
「じゃあ…お言葉に、甘えます」
「それがいい。コーヒーきたよ。少し、ゆっくりしよう」
ソファテーブルにコーヒーカップが並んでいた。コーヒーのいい香りがする。恭一と向かい合わせでソファに座ると、心地よく体がわずかに沈んだ。ほっと寛げそうだ。
「疲れただろう。一日中、動き回ったからな。お疲れ様」
みちるは首を振った。
「常務こそ。お疲れ様です。想像はしているつもりでしたが…色んなところに気を遣ってこられたんだな、というのが今日一日でわかりました」
「気を遣う?」
「はい…あの、ミニサイズにならないために」
恭一の、料亭でのメニューの選び方を思い出していた。恭一は笑った。
「まったくだよ。今だって、本当は、ビールが飲みたくてしょうがないんだ。でも、まあなんとかこらえられるようになったよ。みちるさんこそ、ひやひやしただろう」
「はい。料亭でのお料理の中に、お酒が入っていたらどうしようって…和食でも料理酒はけっこう使いますから」
「そうだよな。俺もけっこう調べたよ。それで、刺身とか生ものなんかをチョイスするようにしてるんだ」
そう言えば、ゆっくりお刺身を食べていた。なるほど、とみちるは感心した。そして他にも感心したことがあったのだ、と思い言った。
「常務が透さんにした、二代目と三代目のお話、とても感銘を受けました。あれはやっぱり実体験からくるものですか?」
「いや、俺と親父は意外と馬が合うほうでね。まあ、一番最初、二十代は好きなことをさせろ、と俺が言った時は少しもめたけど。親父も、俺が井の中の蛙になるのは避けたかったみたいでね。大学を実際に卒業して、IT起業に就職を決めてきたときは応援してくれてたし。結果、四回転職したけど、俺はそれでよかったと思っている。色んな立場を経験することができた。部下を育てることもしたし、ずっと下っ端でいる辛さも味わった。
今日、話した親子の確執は、陶芸家のところで修行している時に見たんだ。親子で陶芸をやっていて…やっぱり今日の透さんみたいに、息子が親父さんとぶつかってたよ。中立の立場にいた俺は、二人から相談を受けてね。お互いの気持ちを知ることができて、和解させることができた。やっぱりニュートラルな視点が大事なんだな」
「なるほど…常務は、ぶつかるのを避けてきたわけでもなく、ちゃんと向き合ってこられたんですね」
「うん…そういうことになる、かな」
「きっとお仕事に関しても、そうだったんでしょうね。私、今でも覚えています。文芸書の棚の前に立って、ずっと考え込んでいらしたでしょう。私が他の作業をして、時間が経ってから見ても、やっぱり棚を見ていた。そうこうする内に、じわじわと売り上げが伸びていって…すごい魔法みたいでした」
「親父が…不安…?」
呆然とした顔をして透が呟く。
恭一は微笑んで言った。
「今のままでは、お互い同じように角を突き出してぶつかってしまう。私もホテル北都の二代目なので、経験があります。そんな時は、アプローチのしかたを変えればいい」
透は何も言わず恭一の言葉を聞き入っている。
「二代目のことを素直に褒めてあげてください。そして尊敬してることもきちんと伝える。それをした上で、二代目のやり方もわかるけれど、こういうやり方もある、と提案する。気恥ずかしいかもしれませんが、意外と効果があります」
透は心が打たれたのか、押し黙って自分の手元を見ている。恭一は、目の前の料理を食べるのを静かに再開した。
その横顔を見ながら、みちるは恭一を誇らしく思った。そして、恭一はもう書店員ではないけれど、あの頃の尊敬できる上司のままなのだ、と納得した。そのことが妙に嬉しかった。
料理を食べ終えて、少しまったりしていると、もうすぐ新幹線の時間であることに気づいた。来た時のように、透が送ってくれると言う。そうして料亭を出ようとすると、ひどい雨が降っていた。そういえば昼間、くもっていたな、とみちるも思い出した。
岡山駅に到着する直前、透のスマホに着信があった。なんと若奥さんからで子供が熱を出しているという。
みちるも恭一も早く帰ってあげたらいいですよ、と言って、あいさつもそこそこに岡山駅前で下してもらった。すっとんで帰っていく透の車を見送り、料亭で借りた傘を開く。
傘は一本しかなかった。自然と相合傘になる。
「みちるさん、濡れるよ」
そう言って、恭一は傘を持つ反対の手でみちるの肩を抱き寄せた。恭一に肩を寄せる形になる。恭一のスーツから、さわやかな香りがした。
なんだろう、コロンかな…。
そう思いながら、近くにいる恭一のことを意識してしまう。顔が赤いのを恭一に見られたら恥ずかしいと思い、俯いて歩く。
岡山駅構内に入って傘を閉じて、みちるは、ぱっと恭一から離れた。
なんだろう、意識しちゃって…高校生みたい。
頬が火照るのを抑えようとしていると、恭一が「あ」と声を出した。駅の構内がざわついている。やっと平静に戻ったみちるは流れているアナウンスに耳を傾ける。
目を見張った。
「常務…雨天のため、運行停止って言ってませんか?」
「そうみたいだな」
「え…じゃあ、帰れないってことですよね。大変、泊まるところを探さなくちゃ」
みちるは、バッグからスマホを取り出した。
それを見ていた恭一がぷっ、と吹き出した。
「みちるさん、俺を誰だと思っているの?」
「え?」
再び一つの傘を差して身を寄せ合っていたみちると恭一の前に、黒塗りの車が止まった。そこから、白い手袋をつけたスーツの男性が降りて来て、恭一とみちるのために後部座席のドアを開けた。
「常務。おまたせして申し訳ありません」
「門倉さん、ありがとう。濡れないようにこれを」
と、門倉と呼ばれた男性に傘を渡す。ありがとうございます、と門倉は受け取ったが、ほとんど差さずに、さっと運転席に座る。みちるは門倉がやっと送迎専門の運転手であることに気づいた。
車が到着したのは、ホテル北都の岡山支店だった。そうなのだ。今日のお菓子めぐりの旅は、この岡山支店のためのものだった。当たり前のことを忘れていた自分が恥ずかしかった。
車を降りると、ドアボーイが恭一のカバンをさっと持った。
「おかえりなさいませ。常務」
「いつも悪いね。吉田、元気にしてたかい?」
「はっ。おそれいります」
ドアボーイは恐縮しながら恭一とみちるの前を歩いて行く。
エレベーターが着いたのは、最上階だった。みちるは、絨毯でふかふかの廊下を踏みしめながら恭一の後をついて行くしかない。
恭一と岡山で一泊することになった。それは理性的に考えてわかる。
だけど…部屋は別々よね?そうよね?
その心の呟きを、まるで聞いていたかのように恭一は言った。
「あー、さっきの岡山駅で足止めされた客で客室がいっぱいでね。ここしか、空いてなかった」
そう言って、恭一は、大きなドアを開けた。
何て答えればいいのかわからず、みちるは部屋に一歩踏み入れる。なんだか絨毯のふかふか加減が増した気がする。
凝った刺繍の施されたクッションの乗った立派なソファ。猫足の美しいテーブル。背の高いカーテンは明らかにゴブラン織。すべてが一流品だと思われる調度品の数々…。
ここって…ここって…どう考えても…
「ホテル北都のロイヤルスイート。どうかな。花園製菓のお嬢様には普通かな」
やっぱり…!
「いえ、私あまり旅行に行く方じゃなかったんで…こういうスイートルームは初めてです」
学生時代からバイトに明け暮れることに夢中だった。そしてなんとなくレイコさんとの旅行も乗り気になれず断っている間にゴージャス旅行を知らないで今まできてしまっていた。
それでも、スイートルームに関する知識は人並みに持っている。
た、確か…スイートルームのベッドってシングル二つじゃない、わよね…
かなり動揺していたが、恭一にそれを悟られないように、落ち着いたトーンで言った。
「あの、お部屋の中をじっくり見てもいいですか?」
「もちろんだよ。何か暖かい飲み物を持ってきてもらおう。コーヒーでいい?」
「はい。ありがとうございます」
みちるは大きな音を立てないようそっと部屋を見てまわった。
ゴージャスで大きなバスルーム。小綺麗な洗面室とトイレ。
いよいよ、寝室のドアを開けると。
みちるの想像通り、キングサイズのダブルベットがあった。
やっぱり…!
意外と恭一はくったくのないところがあるから、二人でベッドを使おうよ、とか言い出しかねない。
二人で同じ部屋に泊まるだけでも、もう心臓がバクバク言っているのに、同衾なんてありえない。
「ベージュのベットカバーか。もっと色味があってもいいな。みちるさんどう思う」
いつの間にか背後にいた恭一に言われて、ひゃっと声をあげそうなる。それをなんとかこらえて、言った。
「そうですね。薄いラベンダーなんかも素敵かもしれませんね」
「いいね。今度、提案してみよう。あ、みちるさんは今夜、このベッドを使って。俺はソファで寝るから」
「えっ…いいんですか。ソファなんて、体がきつくないですか。私がソファに」
「女性をソファになんて寝かせられないよ。ここは、俺の言う事をきいておきなさい」
ね、と至近距離で念押しされて、何となく、くすぐったい気分になる。
「じゃあ…お言葉に、甘えます」
「それがいい。コーヒーきたよ。少し、ゆっくりしよう」
ソファテーブルにコーヒーカップが並んでいた。コーヒーのいい香りがする。恭一と向かい合わせでソファに座ると、心地よく体がわずかに沈んだ。ほっと寛げそうだ。
「疲れただろう。一日中、動き回ったからな。お疲れ様」
みちるは首を振った。
「常務こそ。お疲れ様です。想像はしているつもりでしたが…色んなところに気を遣ってこられたんだな、というのが今日一日でわかりました」
「気を遣う?」
「はい…あの、ミニサイズにならないために」
恭一の、料亭でのメニューの選び方を思い出していた。恭一は笑った。
「まったくだよ。今だって、本当は、ビールが飲みたくてしょうがないんだ。でも、まあなんとかこらえられるようになったよ。みちるさんこそ、ひやひやしただろう」
「はい。料亭でのお料理の中に、お酒が入っていたらどうしようって…和食でも料理酒はけっこう使いますから」
「そうだよな。俺もけっこう調べたよ。それで、刺身とか生ものなんかをチョイスするようにしてるんだ」
そう言えば、ゆっくりお刺身を食べていた。なるほど、とみちるは感心した。そして他にも感心したことがあったのだ、と思い言った。
「常務が透さんにした、二代目と三代目のお話、とても感銘を受けました。あれはやっぱり実体験からくるものですか?」
「いや、俺と親父は意外と馬が合うほうでね。まあ、一番最初、二十代は好きなことをさせろ、と俺が言った時は少しもめたけど。親父も、俺が井の中の蛙になるのは避けたかったみたいでね。大学を実際に卒業して、IT起業に就職を決めてきたときは応援してくれてたし。結果、四回転職したけど、俺はそれでよかったと思っている。色んな立場を経験することができた。部下を育てることもしたし、ずっと下っ端でいる辛さも味わった。
今日、話した親子の確執は、陶芸家のところで修行している時に見たんだ。親子で陶芸をやっていて…やっぱり今日の透さんみたいに、息子が親父さんとぶつかってたよ。中立の立場にいた俺は、二人から相談を受けてね。お互いの気持ちを知ることができて、和解させることができた。やっぱりニュートラルな視点が大事なんだな」
「なるほど…常務は、ぶつかるのを避けてきたわけでもなく、ちゃんと向き合ってこられたんですね」
「うん…そういうことになる、かな」
「きっとお仕事に関しても、そうだったんでしょうね。私、今でも覚えています。文芸書の棚の前に立って、ずっと考え込んでいらしたでしょう。私が他の作業をして、時間が経ってから見ても、やっぱり棚を見ていた。そうこうする内に、じわじわと売り上げが伸びていって…すごい魔法みたいでした」



