「私の一側面だけを見て、理解した気にならないで! 私はあなたが思うような完璧な人間じゃないし、あなたの都合のいい虚像を映し続ける鏡じゃないの!」

好かれるのは料理研究家としても配信者としても必要だった。
しかし、それをすべてだと思って気持ちを押し付けられるのはごめんだ。
私は私。生身の人間なのだ。

「あとね、私の夫を馬鹿にしないで! 何も知らないクセに!」
「あーあー、そんなこと言っていいの? ファンを蔑ろにしたって拡散しなくちゃ」
「あなたのしていることはストーカー行為よ」

彼女が私の左手だけを解放した。逃がすためではない。ポケットから取り出したのはカッターナイフだ。

「私がどれほど本気かわかってもらわなきゃならない」

底冷えする声に、私の頭の中はせわしく働いていた。
どうしよう、ともかくお腹を守らなきゃ。何をされてもこの子だけは……。

「夕子!」

声が響いたと思った瞬間、私は後ろに強く引かれた。私の身体を女から引きはがしたのは史彰の腕。

「史彰……!」
「エントランス前にきみのスマホが落ちていた。こっちから声が聞こえたから……」

史彰は私をかばうように前に進み出て、たじろぐ女を睨みつけた。

「夕子に変な手紙を送ってきたのはあなたですか。そのカッターはなんですか」

女性は黙っている。明らかに分が悪くなったのはわかっているようで、じりじりと移動している。逃走をはかろうとしているのだろう。