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 とある市立病院の暗い病室。個室、白いベッドに横たわっているのは、今年36歳になる、保鈴健一である。彼は五年間勤務した父親の会社、保鈴建設を辞めて、その後




全くバイトすらせず、僅かな貯金を取り崩す、闇の生活に入った。彼は常に金に窮迫



し、常に不安と焦燥の中で、酒に溺れながら生活した。


 そして遂に残り金がぎりぎりになり、エアコンやテレビをリサイクル店に売り、いよいよ逼迫した。




 そんな折り、あろうことか、二人姉弟の、五歳年上の姉、保鈴麗子が肺癌に罹患した。



 非常に仲の良い姉弟だったので、健一の落胆と絶望は半端ではなかった。健一の酒量は増え、貯金も底をついた。




 そして姉の麗子の皮肉な誕生日の今日、
健一は甚だしい苦悩の果てに、自殺を決意した。



 麗子は既に末期癌で、ホスピスに入所していた。健一は彼の人生は終結したと、強く感じ入り、自決を考えた。




 2月11日、これも何とも皮肉な建国記念日にして、麗子の誕生日、健一は自殺を決行した。



 鋭利なキッチンナイフによる、リストカット。だけでなく、中性洗剤を吞んだり、煙草を食したり、何としても死ぬつもりだった。



 リストカットは一度でなく、幾度となく左手首を切り刻んだ。鮮血が床に迸った。




 しかし中々死ねなかった。あれだけ出血し、毒さえ喰らったのに、簡単には死ねなかった。



 健一の意識は一時的に遠退いた。




 しかし、何故か、一時間程経過した後に目覚めた。




 健一はどうしても理解出来なかった。床は血の海、血へどを吐いていた。



 毒物を皆吐き戻してしまった。そして動脈を斬り損ねたのだ。



 健一は血塗れで立ち上がり、そんな体力があるのが不思議だったが、電話で救急車を呼んだ。




 駆けつけた救急隊員は自殺未遂者には冷淡だった。健一は救急車の中で倒れ伏した。



 手首の出血はほぼ止まっていた。救急車は市立病院に向かった。




 このような経緯で、健一は病室のベッドに横たわっていた。高い発熱があり、破傷風の注射を受けたばかりだった。




 両手に点滴を受けて、身動きも取れない。健一は苦痛の頂点に居た。




 その時、病室に入って来た者があった。姉の麗子だった。



「健一、遣ったわね」




「ああ、恥ずかしい限りだよ」





「私が余命幾ばくもないから、こんなことなをしたの?」




「いや、唯全てが終わったと思った。個人的動機だよ」




「莫迦ね、やっぱり私のせいなんでしょ」




「まあね、否定はしない」




「本当に、仕方のない人ね」




「私だけでなく、貴方まで死んでしまったら、お父さんが悲しむわ」




「まさか、父は何とも思わない。僕如きが亡くなっても、痛くも痒くもない。判ってるだろう、それが現実だ」




「健一ったら、お父さんも其処まで酷薄じゃないわ。いつも確かに強がってらっしゃるけど、ああ見えて案外繊細なの」




「僕はそうは思えない。あれは怪物だよ」



「そんな風に言っては駄目」




 麗子はハンカチを出して、健一の額の汗を拭った。優しくそっと。



「手を何で切ったの」



「キッチンナイフだよ。先刻破傷風の注射を打った。八度くらい発熱してる」




「そう」



「僕は死ぬかもしれない」



「そんなこと考えないの。きっと注射が効くわ」




「僕もだけと、姉さんもやつれたね」



「当たり前よ。私の病気は重篤。もう会えなくなるのよ」



「うん」健一は恐る恐る切り出した。「姉さん、東京旅行のこと覚えてる?」




「ええ、覚えてますとも」



「泉岳寺のこと覚えてる?」



 麗子は困惑した。



「泉岳寺のことはもう忘れなさい」




「そうだね」





「私、ホスピスから抜け出して来たのよ」




「ああ、市立病院から近かったね。途中大丈夫だった?」



「大丈夫よ、未だそれくらいの体力は残ってる」




 麗子は今度は、健一の左手首の分厚い包帯を擦った。



「本当に莫迦ね、こんなことして。お父さんは?」



「先刻帰ったよ。付き添うような人じゃない」



「心配なさってるわ」



 健一は頭を振った。




「迷惑を掛けてって、酷く怒られたよ」





「当たり前じゃないの」




「そうかな」





「何もかも忘れて、今は眠りなさい。安静にすれば、熱も下がる」




 麗子はそっと健一の額にキスした。




「眠りなさい、唯ゆっくりと」




「姉さん」




「何……」



「僕、精神科に入院したくない」



「そんなことも今は忘れて、眠りなさい」



「ああ、そうする。でもこれで別れになるかもしれないね」



「ええ、これでお別れかもしれない」



「姉さんこそ、今夜はゆっくり寝てね」




「ううん、外泊許可を取ったから、今夜は付き添うわ」



「いや、帰った方がいいよ。僕は独りで充分。帰ってよ」




「そう、判った」




 麗子は再び額にキスした。





「眠るのよ。全て忘れて」



 エアコンが利かないのか、病室の空気は冴え渡ってきた。


 

 健一が眠ったのを見届けると、麗子は病室をあとにした。




 夜中の一時だった。寒い2月の冷気、麗子は市立病院を出た。



 ホスピスまでの暗い夜道、麗子は覚束ない足取りで歩いた。そして更に暗い路地に入った。




 常夜灯はあるものの、店舗の類はない路地。麗子は道の真ん中を歩いた。




 その時、背後から何者かが追って来ていることを、彼女は気付かなかった。




 追跡者は彼女との距離を足早に詰めた。駆け足で、麗子の後方に来た。




 麗子は振り返った。




 追跡者は矢庭に、ポケットから刃渡りの長いナイフを取り出した。麗子は悲鳴を上げた。



 追跡者は素早く、麗子の腹にナイフを突き立てた。






     2

 大黒町の片隅にある廃ビル寸前のビルに、その私立探偵事務所はあった。木製の




階段で昇らなければならない、その殺風景な事務所内にて、亀田浩志は相も変わらず、




暇を持て余し、大音量でロックを聴いていた。元バウハウスのヴオーカル、ピーターマーフィーのソロアルバム、ライオンだった。




亀田は大昔を振り返り、後悔していた。想えば、ビリースクワイアの新宿でのライブに行った時、次の公演のバウハウスのチケットを買うべきだった。




後に再結成ライブもあったのかもしれないが、全盛期最後のバウハウスのコンサートは如何程素晴らしかったろうか。





考えると何十年も後の今も、後悔で心が疼いた。それから少し後の、シスターズオブマーシーのコンサートも、チケットは買ったものの、バンドが解散して中止になった。





此方も全く苦々しい記憶として、心を悩ませる。直後に発売されたLDのライブが余りにも素晴らしかっただけに、一層だった。





ゴシックは矢張り当時のものが良かった。マリリンマンソンなど聴きたくなかった。




 と其処へ、突然電話が鳴った。久し振りの仕事かと、瞬時に緊張が走った。




「はい、亀田探偵事務所」



「すみません、わたくし黒田京子と申します」





「調査の御依頼でしょうか」




「あの犯罪に関わる調査なんですけど、お受けして頂けるんでしょうか」




「犯罪と仰有ると、何です」




「殺人事件ですの」





「それは厳しいと云えば厳しいんですが、受けないこともありません」





 仕事にあぶれていたので、藁にもすがる想いだった。内心は重責過ぎる、不快感で一杯なのだが。



「今は丁度予約も入って居りませんし、直ぐに来られますか」




「はい、お願い致します」




 受話器を置くと、亀田は臨戦態勢に入った。最近の新聞を開いて、鹿児島市で発生した殺人事件を探した。何分狭い土地で、





その種の報道は数少ない。末期癌の市役所職員の刺殺。これかなと、勘で思った。2月12日深夜、市立病院近くの路地にて、保鈴





麗子が殺害された。容疑者として、彼女の実弟の保鈴健一が警察の事情聴取を受けている。健一は市立病院に入院中だったが、




夜中に脱走していた。殺害動機他を取り調べ中、となっている。それ以上詳細な記事




は未だ出ていない。亀田は黒田京子の到着を待った。



 凡そ30分程で、彼女は事務所に現れた。




美貌だが質素な服装の30前の女性だった。




「黒田さん、御職業は」




「接客業です」



「と仰有ると」



「スナックのホステスを致して居ります」




「成る程、御依頼の件は何でしょう」





「お友達の殺害容疑を晴らして欲しいんですが」




「お友達のお名前は」





「保鈴健一と申します」




「ああ、矢張りあの事件ですか」




「健一さんは人殺しの出来るような人ではありません」




「そうですか。で、貴方と彼の関係は本当にお友達?」




「ごめんなさい。恋人です、私達」




「それならご心配も判ります」




「健一さんは、保鈴建設という会社の会長の一人息子です」




「会長、御父様の名前は」




「保鈴伊豆夫」




「では社長は?」




「宮前二郎と仰有る方です。会長の姪、宮前陽子さんの夫に当たる方です」



「成る程、会社は一族で、経営陣を固めてらっしゃる。会長の息子の健一さんの役職は何です」





「あの」京子は言葉を詰まらせた。「何もありません。健一さんは会社を退職したんです」




「そうですか、事情があるんですね。で、辞められる前の役職は?」





「何もありません。平の一経理課員でした」




「それは不思議ですね」





「退職する直前は一現場作業員でした」





「それは……何か事情があるんですね」





 京子はハンカチを出して、僅かに零れた涙を拭った。





「健一さんは本当に哀れな方なんです。心の病気を患って、誰からも正当な評価を与えられてないんです」




「ご病気ですか。それはそれは。彼は大学は」





「行きましたけれど、中退でした」




「所謂Fラン?」



「違います。ちゃんとしたところです」




「心の病気は重いんですか」




「私から見ると贔屓目があるかもしれませんが、普通の人と大差ないですわ」





 亀田は頷いた。



「判りました。すると貴方は玉の輿を狙ってるとかでは全然ない訳ですね」





「勿論ですわ」






「貴方は健一さんの殺害容疑を晴らしたい。彼は姉の麗子さんを殺すような動機はない訳ですね」






「はい、あんな仲の良い姉弟を、私は見たことがありませんでした。お姉さんを殺す筈はないんです」






「しかし警察はそう見てはいない」





「ええ、私も事情聴取を受けました。警察は健一さんが殺したと思い込んでいます」






「それを私に何とかしろという訳ですね」






「はい」





「判りました。貴方以外で、彼が頼りにしているのは誰ですか」






「従兄弟の宮前陽子さんです。社長夫人の」





「そうですか。で、調査料金の話になるんですが」




 亀田は規定の調査料金を説明した。 



       3



 雑踏でごった返したハンバーガーショップ、亀田は従兄弟の安田警部補と対座して、ビッグマックにかぶり付いていた。安田はポテトとコーヒーだけだった。



「御前……」安田が云った。「ハンバーガーと牛丼ばかり食べてるんじゃないか」




「そうかもしれません」





「日本人は肉食には不向きだ。今に胃を悪くするぞ」




「お気遣い有難う。それより事件の話を先に」





「うむ、そうだな。保鈴健一だが、少し姉の麗子との関係が深すぎるように思われる」



「それじゃ、彼は犯人ではないと」





「逆だよ。可愛さ余って憎さ百倍ということかもしれん」




「そんな、格言通りいきますか」





「いくだろう、人間の愛憎というのは複雑なものだ」




「仮にそうとしても、麗子は末期癌だったのでしょう。わざわざ殺す必要ありますかね」







「憎しみ故にだよ。其処に愛情が混ざっているから、自分の手で死に至らしめたいと考える」




「考え過ぎでしょう。健一は姉を愛していた。故に彼が殺害した筈はない。単純に考えたら」





「しかし、凶器のキッチンナイフから、健一の指紋が検出された」




「健一は料理をします?」





「するらしい。嘗て彼は一種の家庭内奴隷だった。家事の一切を遣っていた」





「すると、別の犯人が、彼の指紋の付いたキッチンナイフを手袋をはめて凶器に使ったのでは」




「その可能性はゼロとは言わない。が、それこそ単純に考えたらどうだ」




「単純にね。しかし私は今回は容疑者側の人間なので」




「どうしてだ。容疑者に肩入れするのは」





「本来、依頼人の秘密は明かせないのですが、今回は教えましょう」




「それはまた何故?」




「容疑者に、依頼人の代理として面会したいからです」





「御前が接見か」




「冗談じゃない。私は弁護士ではない。面会です」





「依頼人は誰なんだ」





「健一の恋人の黒田京子です」





「成る程な、それで容疑者側か。しかし面会が許されると思うか」






「其処は叔父さんの力で」





「困った奴だな。暫くは聴取にたてこんで無理だぞ」





「弁護士ではないから権利はありませんが、私立探偵として当然の要求です」




「時間切れにならないかな。優男だから長期戦に耐えられず、自白するかも」




「拷問ですか」






「莫迦言うな」





「それじゃ、なるべく早い段階で、健一に面会を」







「了解、他に何かあるか」




「マスコミに流していない情報を是非」





 警部補は微かに苦笑した。





「そうくると思った」





「すると何かあるんですか」








「トップシークレットだ。麗子は死に際に、路面に血文字を書いた」






「何と……」





「片仮名で、ネハン」





「ネハン?」




「まだある。彼女は小銭入れから硬貨を取り出して、両手に握っていた」





「幾らですか」



「右手に510円、左手に12円を」




「それは訳が分かりませんね」




 亀田はハンバーガーを食べ終わって、コーラをがぶ飲みした。警部補は静かにホットコーヒーを飲み干した。






      4



 大型トラックが猛スピードで通り過ぎた。木材団地はセメントと石油の匂いが充満していた。





亀田は電車を降りて、保鈴建設に徒歩で向かっていた。木材団地は彼の侵入を拒むかのような雰囲気を漂わせていた。





 保鈴建設の受付で案内を請うた。予め会長との面会予約は入れてあった。





 五階の会長室まで一人で上った。




 ドアをノックした。




「入れ」




 ドアを開いた。




「君が、京子君から雇われた私立探偵か」





「はい、亀田浩志と言います」





「其処に掛けたまえ」



「有難うございます」






 会長の保鈴伊豆夫は銀髪をオールバックにしていた。角張った顎、沈鬱な表情。




「京子君も無駄なことをしたな。健一が遣ったに決まっている」




「そうとばかりも言えません。健一さんは何者かに嵌められたかもしれません」





「或いはそうかもしれんが。麗子と健一は仲の良い姉弟だった。一心同体と言っても良い」




「そうでしたか。健一さんは何故会社を辞められたんですか」






「前にも睡眠薬で自殺未遂した。だから経理課員から、現場作業員に降格した。彼奴は私の顔に泥を塗った」






「現場の仕事は彼には続かなかったのですね」





「そうだ、あれは人間のクズだ」




「しかし無実の罪は晴らさなくてはなりません」





「無実なのか」




「いや、犯人である可能性もゼロではありません」



「これから君が調査するのだな」




「その通りです」





「警察でもあるまいに」






「そうですが、これも職務の裡です」




「私からはこれ以上何も聞き出せんぞ」










「判りました」







「次は何処へ行く」





「社長夫人の家に。健一さんと特別に親しいそうで」



「そうか」






「 これで失礼します」





 亀田は椅子から立ち上がった。



  

       5

 閑静な住宅街、豪勢な邸宅が建ち並ぶベッドタウンに、保鈴建設社長、宮前二郎の家はあった。




 亀田は廃車寸前の中古車に乗って、この団地に来た。宮前宅は駐車場は広かった。




 車を降りると、直ぐさま玄関に回った。ドアのインターホンを鳴らした。どんより曇る日曜日だった。



「お約束しておいた、亀田という者です」





 ドアが開いた。出迎えたのは、社長夫人、宮前陽子だった。




 亀田は中に招じ入れられた。





 応接間の長椅子に座るよう勧められた。






 陽子が、テーブルに緑茶を供した。




 暫く後、幾らか太り気味の紳士が現れた。




「私が社長の宮前二郎です」






「私立探偵の亀田と申します。黒田京子さんから、健一さんの殺害容疑を晴らして欲しいと依頼されました」




「健一が殺したと思っていたが」





「警察もその見当です。しかし恋人の京子さんは別の意見を持っています」




「では通り魔の犯行だと」




「それは考え難いと思います」




「そうだ」宮前は鋭い目つきになった。「ナイフに健一の指紋があったとか聞いた。疑問の余地はないでしょう」





「警察も同じ考えです」



「それじゃ、あんたは無駄なことを遣っている」




「いえ、京子さんは健一さんは人殺しをするような人ではないと仰有る」





「そうかな」




「 と仰有ると?」





「健一はあの下らん、ダリオアルジェントのファンだった。警察はレンタルビデオの履歴も調べている筈だ」






「恐らくそうでしょう。またアリバイがないのも痛い」




「アリバイはないのか。どうせ、精神科入院が怖くて病院を脱走したのだろう」





「そのようです」





「なら決まりだな。探偵の仕事はない」






「しかし、麗子さんと健一さんは非常に親密な間柄でした。そのお姉さんを殺害しないでしょう」





「でも」陽子が初めて口を挟んだ。「泉岳寺のことがあります」



 亀田は振り返った。





「何でしょう。泉岳寺とは?」







「いいえ、口が滑りました。何でもありません」





「仰有ってください。健一さんと赤穂浪士が何の関係が?」





「それは家庭内秘密だ」二郎が云った。





「殺人事件の調査なんです。是非ともお聞かせください」





「無理だな。もう帰って頂けませんか」





「最後に陽子夫人にお尋ねしたい」





「はい」




「健一さんは何故あんなに会社の評価が低いのですか」






「あれは本当に哀れな人なんです。大学中退ですけど、一度精神科の門をくぐったことで、中卒扱いにされた」







「精神科経験によって、学歴がクリアされたんですね。それで、一族経営の会社の会長の息子なのに、役職が付かなかった」






「役職どころか、一現場作業員でした」





「何故なんですか」






「陽子、言うな」





 夫が制止したが、彼女は聞かなかった。




「私は健一さんの従姉弟です。麗子さんの次に彼を理解しています。実は家族の代替措置がはかられて、夫が会長の息子扱いになった。健一は赤の他人扱いになったんです」








「成る程、 そういう事情でしたか。で、何故彼は精神科に入ったのですか」






「パーキンソン病の母親の介護をしていて、言わば精神科に売られていったんです」








「其処は今一つ理解に苦しむのですが」









「これ以上は申し上げられません」








「其処が泉岳寺に関わるのですね」









 陽子は沈黙した。





     6

 店内に鉄玉の騒音の鳴り響くパチンコ店、亀田はまばらに勝ち玉の並ぶ、台の間の狭い通路を通り抜けた。






 或る老人の台の前に来た。老人は一心にパチンコに集中している。




「もしもし、山中先生ですね」





「何だって、玉が五月蠅くて聞こえない」




「山中先生ですか」




「先生?私はもう教員じゃない。引退した」




「保鈴健一をご存知ですね。貴方の教え子だった」



「知らん」




「嘘だな。玉をカードに入れて、ちょっと来て頂けますか」





「何だ。貴様刑事か」





「私立探偵です」




 二人はパチンコ店内の食堂に入った。



「必要経費で落とすから奢ります」



「それじゃ、ラーメンを頼む」





「先生は高校時代の保鈴健一の担任でしたね」



「先生と呼ばないでくれ。私はパチンコで破産寸前の老人だ」





「昔、健一の担任でしたね」





「ああ」




「貴方は、泉岳寺についてご存知ですね」




「何の話だ」





「しらばくれないで、ご存知でしょう」





「保鈴家の秘密だ」






「事件はご存知でしょう。健一さんが犯人にされてしまいます、この儘では」






「逆だと思うが、これを知ると容疑が深まる」




「判断は私がします」



「そうか、別に大した秘密じゃない。ちょっと変わった補導に過ぎない」




「補導というと」





「健一は高校時代、札付きの不良だった。しかし尻尾は掴めなかった。それで、市役所職員の姉の麗子が、警察と結託して一計を案じた」







「どんなことを」





「麗子と二人で東京旅行した時に、泉岳寺で、レプリカの刀を土産に買った。麗子はその刀を、羽田空港で健一の手荷物に隠した」



「つまり」亀田は息を呑んだ。「健一さんは」




「そうだ。健一は、ハイジャック未遂の容疑に問われた」




「成る程、そうだったのか。それで逮捕された?」






「逮捕は免れたが、指紋を取られて前歴が付いた」




「その前歴のせいで、精神科入院させられた」







「そう聞いているが」







 亀田は嘆息した。


  


「そうだったのか」








       7


 亀田の、保鈴健一面会の要望は漸く許可された。事前に彼は従兄弟の安田警部補と話した。





「一つ情報がある」警部補は云った。







「何です」






「麗子には、サラ金に借金があった。それを父親の伊豆夫が肩替わりした」




「幾らです」




「一千万円だ」




「成る程」






「麗子に対して強い嫉妬があるだろう。これでもまだ健一を無実だと思うか」




「依頼人の利益が第一です」




「そうか」




 亀田は、保鈴健一に面会した。





「貴方は誰なんですか。弁護士ではないし」





「私立探偵の亀田と言います。黒田京子さんの代理で来ました」





「私立探偵」






「そうだ、貴方について様々調査した」




「探偵に何が判るんですか」




「ほぼ全て君のことは理解していると思う」





「まさか」





「本当だ。泉岳寺のことも知っている。君は疎外されている」




「ええ」





「君は、麗子のダイイングメッセージを理解しているね」







「いいえ」



 亀田は健一の瞳を凝視した。





「嘘だな。眼は口程にものを言う。君は既に知っているな。誰が真犯人か」






「知っていても言いません、口が裂けても」





「そうだ、それが君だ。私は理解者だよ。君は罪を全て被って犯人になるつもりか」







「それが僕自身ですから」





「死刑になってもいい のか」






「仕方ないです。全ての悪徳を引き受けるのが僕です」




 亀田は凝視を強めた。







「本当にそれで良いのか」





「ええ」







「マゾヒストか」






「いいえ、これが僕自身ですから」






   8

 亀田は再度保鈴建設を訪れた。


 エレベーターで、会長室まで上がった。



 亀田は室内に入った。


「会長、また来ました。私立探偵の亀田です」




「探偵、健一の無実とやらは晴らせそうか」





「出来ると思います」




「何だって」
 
   
「麗子さんは死に際に、ダイイングメッセージを残しました。路面に血文字で、ネハンと」







「ネハン?」



「更に麗子は両手に硬貨を、510円、12円掴んでいた」




「意味は?」







「ごく簡単な暗号です。同時に辞世でもある」






「辞世なのか」



「ええ、涅槃経と言えば、いろは。即ち、色は匂へど散りぬるを。我が世誰そ常ならむ。有為の奥山今日越えて。浅き夢見し酔ひもせず」





「それが麗子の死に際の心情か」



「ええ、いろはにほへとに番号を打つ。47まで打てる。詩にない、んは省く。麗子は数字を表す硬貨を持っていた。500 10を右手に、12を左手に。これを並べると、ほすす、いす。左手は規則が異なる。12、を。0は円環の47を指す」




 会長は憮然と佇む。






「古文の散らし書きの規則は、濁点を打たない。をとおは同じ。並べると、ほすすいすを、保鈴伊豆夫、貴方をこのダイイングメッセージは指すことになる」




 会長は平然としていた。




「ダイイングメッセージに証拠能力はあるまい」




「ありません」





「此処だけの話だ。如何にも私が麗子を殺した」






「そうでしたか。麗子が一千万円の借金を貴方に肩替わりさせたから。たったそれだけで」



「私は麗子に過大な期待を掛けていた。最高の大学にも出して遣った。何事も麗子を最優先した。私の期待を奴は裏切った」






「会長、私は専門の仕事も遣りました。企業調査です」




「誰か社員を買収したな」




「私の仕事の裡です。会社の財務状態を調査した。結論から言うと、貴方の会社は倒産寸前だ」







「宮前が悪い。酷い放漫経営で会社を駄目にした。奴も期待を裏切った」






「甘いですね。あのタイプの士人がただで済ますと思うんですか」




「というと」





「彼は、倒産を貴方のせいにして、損害賠償請求を訴えてきますよ。そんな噂を警察で聞いた」





「ううむ」






「判らないんですか。代替措置の息子より、
実の息子の方が貴方を愛していることが」





「健一はクズだ」




「判らないんですか。健一は貴方の殺人罪を引き受けるつもりです」




「健一はダイイングメッセージを」



「知っています。私は犯罪を立証する必要はない。あなたは終わりだ。首をくくるんですね」





「きさま何者だ」







「探偵 です。貴方はリア 王みたいだ、まるで。表面だけを信じる者はいずれ破滅します」