あまり使いたくない手だったが、この際なりふり構っていられない。ベンは少し離れて空に向かって叫ぶ。

「シアン様! お願いです! 出てきてくださーい!」

 すると、ポン! という音とともにぬいぐるみのシアンが現れる。

 シアンは楽しそうにクルクルッと回ると、

「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! やっぱり便意が欲しくなったでしょ?」

 と、ドヤ顔で言った。

 ベンはそのドヤ顔が悔しくてキュッと口を真一文字に結んだが、今は便意に頼らざるを得ない。

「お、お願いします!」

 ベンは頭下げて頼む。

「じゃあ一万倍出してね?」

 シアンは悪い顔でニヤッと笑って言った。

「い、一万倍!?」

 ベンは固まった。千倍でもあんなに苦しかったのに一万倍とか、このクソ女神はなんて無慈悲なことを言うのだろうか?

「嫌なの?」

「い、いや、一万は耐えられないですよ」

「やってみなきゃ分かんないでしょ?」
 シアンはプクッとほっぺたを膨らまして言う。

「やらなくてもそのくらい分かるんです!」

 ベンは目をギュッとつぶり、声を荒げて言った。

 すると、ズシーン! ズシーン! と地面の揺れる音が近づいてくる。音の方を見ると、森の奥で何かが動いている。目を凝らすとこずえの上に巨大な一つ目がニョキっと現れた。

 班長は真っ青になって、

「サ、サイクロプス!? 逃げましょう!」

 と、ベネデッタの手を引く。

 一行はダッシュで走り出した。

 サイクロプスは一つ目がギョロリとしたAクラスの魔物である。身長は十メートルを超え、筋骨隆々の躯体から繰り出されるパンチは全てを砕いてしまう。

 今のこのパーティではサイクロプスは止められない。班長ですら足止めも無理だろう。

 絶望が一行を包む。

「くぅ、一万倍かぁ……」

 ベンは走りながら顔を歪ませて言った。

「ほらほら、急がないと全滅だゾ! きゃははは!」

 シアンはとても嬉しそうにベンの耳元で笑い、ベンはギリッと奥歯を鳴らす。

 ズシン! ズシン! という音が地面を揺らしながら近づいてくる。もはや猶予はなかった。

「分かりました。一万倍出してみますからお願いします!」

 ベンはギュッと目をつぶると、あきらめて叫んだ。

 すると、シアンはニコニコしながらベンに耳打ちをした。

「はぁ!? マジですか?」

「マジマジ! ほら、急いで急いで!」

 くぅぅぅ……。

 ベンは泣きそうな顔をしながら二人を先に行かせ、木陰でズボンをおろした。そして水筒の細くなってる飲み口をお尻に差し込んで、まるで浣腸(かんちょう)のように一気に水を流し込む。

 おうふ!

 下腹部に入ってくる冷たい大量の水。それはベンの便意を一気に解放した。

 ポロン! 『×10』
 
 そして、最後の力を振り絞り、残りの水も全部流し込む。

 ポロン! 『×100』

「お、いいねいいね!」

 シアンは嬉しそうに言う。

 ぐはっ!

 ベンは鬼のような形相で水筒を引き抜く。

 冷たい水が腸を刺激し、

 ぐるぐる、ぎゅぅぅぅ――――。

 と、猛烈な勢いで暴れ始める。

 くぅぅぅ……。

 ベンは奥歯をギリッと鳴らし、何とか便意を手なずけようと必死に括約筋を絞った。

 そうこうしているうちにも、サイクロプスは巨人とは思えぬすさまじい速度で班長とベネデッタを猛追し、追いついてしまっていた。

「ほら、頑張れ、頑張れ!」

 シアンは無責任に煽る。

 くっ!

 ベンは歯を食いしばった。ただ、使命感だけが彼を動かす。ベンは朦朧としながら、完全に逝ってしまった目でサイクロプスを追った。

 サイクロプスは二人を瞬殺する勢いでパンチを繰り出してくる。極めてマズい状態だった。

「急が……なきゃ……」

 ベンは苦痛に顔をゆがめながらピョコピョコと走っていく。

 班長は盾でサイクロプスのパンチを受け止めたが吹き飛ばされ、ベネデッタは神聖魔法を放つもののほとんど効いていなかった。

 二人は絶望し、サイクロプスはニヤリと笑う。

「あの小僧どこ行ったんだ! 役立たずめ!」

 班長は悪態をつき、ベネデッタはベソをかきながら叫んだ。

「きっと助けてくれるのだ! ベンくーん!」

 サイクロプスは一メートルはあろうかという巨大なこぶしを、思いっきり振りかぶる。その高さは五階建てビル位に達するだろうか。そして、一気にすさまじいパンチを撃ちおろす。

「いやぁ――――!」「ひぃぃぃ!」

 二人がもうダメだと思った瞬間、サイクロプスの足が吹っ飛ばされ、あおむけに無様に転がった。

 地響きが派手に響いて、土埃が舞う。

「えっ……?」「あ、あれ……」

 不思議に思った二人は、土埃の向こうに少年がピョコピョコと動いているのを見つけた。

「ベンくーん!」

 ベネデッタは手を振る。

 ポロン! 『×1000』

「キタ、キター!」

 シアンはクルクルっと楽しそうに回った。

 ベンは脂汗を流しながらサイクロプスの頭に近づくと、

「便意独尊!」
 
 と、叫びながら思いっきり頭部をパンチで撃ちぬく。

 グギャァァ!

 まるで豆腐みたいに頭部が吹っ飛び、やがて魔石を残しながら消えていった。

 班長はその様子を見てゾッとし、凍りつく。サイクロプスの体躯は金剛不壊(ふえ)と呼ばれ、剣で斬りつけても刃こぼれしてしまうくらいの硬度を誇っている。パンチなどで傷をつけられるようなものじゃない。それをベンはパンチ一発で粉砕したのだ。

 もはや人間技ではない。

 班長は呆然としながら首を振り、見てはいけないものを見てしまったような後悔にとらわれた。あのパンチが自分たちに向けられたら即死である。騎士団全員で束になってもこの少年には勝てない。なるほど、騎士団顧問というのは正しかった。班長は自らの無礼な言動を心から反省し、冷や汗をたらりと流した。









15. 伝説の真龍

「ベンくーん!」

 ベネデッタはベンに走り寄るが、ベンにはもう全く余裕がなかった。強引に流し込んだ水が腸内でさっきからグルグルとすさまじい音を立て、肛門を襲っているのだ。もはや一刻の猶予もない。

「失礼!」

 ベンは脂汗を流しながら一言そう言うと、ベネデッタを小脇に抱え、次いで班長も抱え、ピョコピョコと走り出した。出口はシアンが教えてくれる。

 走ると言っても千倍のパワーの走りである。あっという間に時速百キロを超え、飛ぶように草原を一直線に駆け抜けていった。

 その圧倒的な速度に二人は圧倒されて言葉を失う。ベンの超人的パワーは明らかに人の領域を超えているのだ。ただ、大人しく運ばれるしかなかった。

 途中オーガやゴーレムみたいなAクラスモンスターが行く手をふさぐ。しかし、ベンは止まりもせずにただ膝蹴りで一蹴し、楽しそうに飛んでいくシアンの後をひたすら追っていく。

 しばらく行くと湖があり、その湖畔に小さな三角屋根の建物が見えてきた。どうやら、ここらしい。

 漏れる、漏れる、漏れる……。

 ベンは建物の入り口で二人を下ろし、急いでドアを開ける。

 奥に下り階段が見えた。ビンゴ!

 だがその時、天井から閃光が放たれた。

 グハァ!

 ベンは天井に潜んでいたハーピーの攻撃をまともに受け、服が焦げた。千倍の防御力では身体は傷一つつかないものの、デリケートな下腹部にはこたえた。

 ビュッ、ビュルッ!

 たまらず肛門が一部決壊。オムツ代わりに仕込んでおいたタオルに生暖かい液体が染みていく。

 ポロン! 『×10000』

 ついに限界突破の一万倍に達してしまった。

「キタ――――! きゃははは!」

 シアンは大喜びである。

 ベンは奥歯をギリッと鳴らすと、

「エアスラッシュ!」

 と、叫んで初級風魔法を放った。初級とは言え一万倍の威力である、それぞれが普通の百倍くらいの威力を持った風の刃が数百発天井に向って放たれる。それはまるで竜巻が直撃したかのような衝撃でハーピーを襲う。

 キュワァァァ!

 断末魔の叫びが響き、ハーピーは屋根ごと粉々に吹き飛んでしまった。

 くふぅ……。

 ガクッとひざをつくベン。もう肛門は限界だ。しかし、まだこの先、ボスを(たお)さない限り外には出られないのだ。それまではこの便意を温存するしかない。休憩してもう一発水筒注入というのはもう耐えられそうになかった。

「ベン君……」

 ベネデッタはその尋常ではないベンの辛そうな様子に、思わず駆け寄って後ろからハグをする。しかし、それは下腹部を締め付けて逆効果だった。

 グハァ!

 思わず叫んでしまうベン。

 ビュッビュとまた少し決壊してしまう。

「ごめんなさい、わたくしそんなつもりじゃ……」

 オロオロするベネデッタ。

「だ、大丈夫。ちょっと待っててください」

 ベンは必死に肛門のコントロールを取り戻そうと大きく深呼吸を繰り返し、般若心経をつぶやきながら精神統一に全力を注ぐ。

 ベネデッタは心配そうな顔をしながら、癒しの神聖魔法をそっとかけたのだった。

 ベンの全身が淡く金色に光輝き、光の微粒子が舞い上がる火の粉のようにチラチラと辺りを照らす。

 ベンは激痛の走る下腹部をそっとなでながら、少しずつ癒されていくのを感じていた。


        ◇


「ありがとうございます。行きましょう」

 便意の波が少し収まると、ベンは立ち上がり、前かがみでピョコピョコと階段を降りていく。次の波が来たらきっと耐えられない。時間との勝負だった。

 そこには高さ十メートルはあろうかという巨大な扉があり、随所に金の細工が施され、冒険者の覚悟を試しているかのように静かにたたずんでいる。

 ベンはバン! と、扉を無造作にぶち開けて、中に突入して行った。

 すると、天井の高い巨大な大広間には中央に何やら小山のようなものがそびえている。そして、部屋の周囲の魔法ランプがポツポツと煌めき始め、部屋の様子を浮かび上がらせていった。

 ひっ! ひぃ!

 班長が思わずしりもちをついて叫ぶ。

 ランプが照らした小山、それはなんと漆黒の鱗に覆われた巨大なドラゴンだったのだ。それもこのドラゴンは鱗のとげも立派に伸びた真龍、もしかしたら神話の時代から生き延びている伝説の龍かもしれなかった。

「ダメです! ダメ! あれは我々の手に負えるものじゃない!」

 班長はドラゴンの圧倒的な存在感に気おされ、真っ青になって叫ぶ。

 確かにドラゴンというのはもはや災厄であり、一般的な攻撃は全く通じず、過去には一個師団が相対して多数の犠牲者を出しながらようやく仕留めることができた、というくらい破格の存在なのだ。

 しかし、ベンにとってはもはや一刻の猶予もなかった。

 早くも波が来てしまい、過去最悪レベルに腸は暴れまわり、グルグルギューとすさまじい叫びをあげている。

 持って十秒、それ以上は暴発か人格崩壊か、そのくらい追い込まれていた。