見下ろすと、勇者とタンク役が馬に乗ってカッポカッポと魔人の方を目指し、悠然と進行しているのが見える。

「おぉぉ、勇者様だ!」「勇者様が来てくれたぞ――――!」

 一気に沸き立つ兵士たち。

 それは絶望的な状況に差した一筋の光明だった。


「勇者? お前がベンの代わりになどなる訳ないだろう」

 魔人はあざける。

「ほざけ! 貴様など聖剣のサビにしてくれる!」

 そう言うと、勇者は聖剣をスラリと抜き、空に掲げてフンと気合を入れる。刀身には幻獣模様の真紅の煌めきがブワッと浮かび上がった。

 うぉぉぉぉ! 勇者様――――!

 兵士たちはこぶしを突き上げ、一気に盛り上がる。

 しかし、フルカスはバカにしたように鼻で笑うと、

「聖剣は見事だが、貴様には過ぎたものだ」

 そう言って、空中に黒いもやもやの球を浮かべると、それを勇者に投げつけた。

 黒い球はゆるい放物線を描きながら勇者に迫る。

「うわっ! なんだそりゃ!?」

 勇者は球を聖剣で一刀両断に切り裂くが、手ごたえ無く、球はそのまま勇者の顔面を直撃する。

 ぶわっ!

 まるで泥団子を食らったように、球のかけらは勇者の全身にへばりついた。そして、モゾモゾと、動き始める。なんと、球は毛虫の魔物の集合体だったのだ。

「ひ、ひぃ! な、何だこれは!?」

 あわてて払い落そうとする勇者だったが、毛虫の数は膨大だ。どんなに払い落としても払い落としきれない。

 やがてモゾモゾと多くの毛虫が勇者のプレートアーマーの隙間からどんどんと中へと入っていってしまう。

「ふひゃひゃひゃ! くすぐったい! やめろ! ひぃ!」

 勇者はあがくが、侵入されてしまった毛虫にはなすすべがない。

 やがて毛虫は下着を食い尽くし、プレートアーマーの金具を食いちぎっていく。

 プレートアーマーはついにはバラバラになって、ガコン! と音を立てて地面に散らばっていった。

 馬上には素っ裸の勇者だけが残される。

 勇者は口をパクパクさせ、無様に縮みあがった。

「がーっはっはっは! 随分貧相な身体だな」

 フルカスは笑い、一万の魔物の群れも、

 ゲハゲハゲハ! グギャァァ! ギャッギャッギャッ!

 と、大声で笑い始める。

「次は毛虫たちにお前の身体を食い荒らすように指令してやろうか?」

 フルカスはニヤニヤしながら言った。

 勇者は真っ赤になって、

「くぅ! 卑怯者! おぼえてろぉ!」

 と、捨て台詞を残して逃げ出してしまった。

「口ほどにもない。クハハハハ!」

 フルカスはあざ笑う。

 一万匹の魔物たちも、

 ギャッギャッギャー! フゴッフゴッ!

 と、口々に奇怪な笑い声をたてながら愉快そうに笑った。

 人類最強のはずの勇者が刃を交えることもできず、あっさりと敗退してしまった。城壁の上の兵たちは皆真っ青な顔をしてお互いの顔を見つめ合う。

 切り札であるところの騎士団顧問のベンという少年は、本当にあんな魔人に勝てるのだろうか? 勝てたとして、残り一万の魔物はどうするのか?

 どう考えても勝算のない戦いに、兵たちは逃げたくてたまらなくなるのを必死にこらえていた。

 ベンは勇者の敗退を見て静かにうなずくと天幕に入る。もはやこの街に住む十万人の命運は自分の便意にかかっているのだ。

 ベンは大きく息をつくと覚悟を決め、水筒をお尻にあてがった。


       ◇


「お待ちどうさま……」

 ベンはよろよろしながら天幕から戻る。新型の水筒二本で一気に高めた便意はすでに一万倍に達していた。

 しかし、一万では足りない。もう一声、十万に達さねばならなかった。

 ぐぅ、ぎゅるぎゅるぎゅる――――!

 ベンの腸は猛り狂いながら肛門を攻めてくる。

 ぐふぅ……。

 ベンは顔を歪め(ひざ)をつく。一気に水筒二本はヤバすぎる。かつてない猛烈な便意にベンの肛門は崩壊寸前だった。

 しかし、トゥチューラの街の人たちの命がかかっているのだ。絶対暴発などできない。

 ベンは脂汗を垂らしながら必死に括約筋に喝を入れ、何とか腸が落ち着くのを待った。

「ベン君、だいじょうぶですの?」

 ベネデッタは声をかけるが、ベンはギュッと目をつぶって奥歯をかみしめるばかりで返事ができなかった。

 漏れる……、漏れる……。

 顔をゆがめ、激しい便意と戦っているベンにベネデッタは神聖魔法をかけた。

 ベンの身体はほのかに黄金の光を纏い、少しだけ苦痛を和らげてくれる。

 しかしどんなに待っても十万倍の表示は来なかった。このままではトゥチューラの陥落は必至だ。

「おい! 早くベンを出せ! 出さなきゃその城壁ぶち抜いて皆殺しにするぞ!」

 魔人は煽ってくる。

 くぅぅぅ……。

 ベンは覚悟を決め、ポケットから下剤を出した。

 ただでさえ限界近いのにさらに下剤。それはまさに自殺行為である。

 だが、多くの人の命には代えられない。ベンは目をつぶって一気飲みをした。

 ゴホッゴホッ!

 強烈な悪臭が口の中に広がり、思わずむせてしまう。

 やがてやってくる強烈な便意の第二弾。

 水筒の水でパンパンになった腸に下剤がパワーを与え、ここぞとばかりに絞り出しにかかる。

 ぐぉぉぉぉ。

 ベンは四つん這いになって、必死に便意に耐えた。

 漏れる……、漏れる……、漏れる……、漏れる……。

 ここがトゥチューラの存亡をかけた勝負どころ。絶対に負けられない戦いが今、ベンの肛門で繰り広げられていたのだ。

 そんなことを全く理解できない周囲の人たちは、狂ってしまいそうになるベンに何もできず、オロオロとしながら、ただ見守るばかりだった。











24. 大いなる代償

 ポロン! 『×100000』。

 ついにやってきた、前人未到の十万倍。

 しかしベンの肛門は暴発寸前だった。

 痛たたたた……。

 ほんの些細な衝撃でもバーストしてしまう極限の状態で必死に耐えるベン。まさにここが破滅か勝利かを決める天王山。ベンは全力で括約筋を振り絞った。

 やがて少しだけ波が引き、腸が落ち着いてくる。

 そのすきに冷汗を垂らしながらユラリと立ち上がると、真っ青な顔で魔物たちの方によろよろと腕を伸ばす。

「ファ、ファイヤーボール……」

 ベンはボソッとつぶやいた。

 ベネデッタは耳を疑う。ファイヤーボールとは子供が練習に使う初級魔法で、魔物を(たお)すのに使えるようなものじゃなかったのだ。

 しかし、いきなり空中に数十メートルの超巨大な円が魔物に向けて描かれ、不気味に赤く光り輝いた。

 えっ?

 周りの人は何が起こったのか分からなかった。

 やがて円の内側には六(ぼう)星が描かれ、ルーン文字が精緻に書き加えられ、さらに小さな円が数十個、円の中に追加され、そこにも六芒星とルーン文字が書き込まれていった。

 いまだかつて誰も見たことのない魔法陣だった。その圧倒的なスケールの魔法陣から灼熱の巨大な球が、ゴゴゴゴと腹に響く重低音を放ちながら生み出されていく。

 魔物も兵たちも一体何が起こったのか分からなかったが、その圧倒的なエネルギーに皆、青ざめた顔で冷や汗を浮かべていた。

「に、逃げろ――――!!」

 フルカスは真っ青な顔をして叫ぶと、スケルトンホースに鞭を入れてゴブリンを踏みつぶしながら一目散に逃げだしていった。

 直後、巨大な炎の球は激しい閃光を放つとパウッ! という衝撃音とともに吹っ飛んでいく。そして、逃げ惑う魔物たちの群れの真ん中で炸裂した。

 天と地は激しい光と熱線に覆われ、直後、衝撃波が辺り一帯を襲った。

 城壁は倒れんばかりに揺れて(やぐら)の屋根が吹き飛び、街道の木々は蒸発していく。

 うわぁぁぁ! ひぃぃぃ!

 兵士たちは皆倒れ込み、まるでこの世の終わりのような圧倒的なエネルギーの奔流(ほんりゅう)に恐怖で動けなくなった。

 やがて、巨大な灼熱のキノコ雲が辺りに熱を放ちながら上空へと舞い上がっていく。その禍々しいさまは、まるでこの世の終わりかのようであった。

 熱線で蒸発した麦畑には巨大なクレーターが出現し、魔物など、一匹も残っていない。ただ、荒涼とした死の大地が広がるばかりだった。

 高く舞い上がるオレンジ色に輝くキノコ雲を見上げながら、兵士たちは魔物よりはるかに恐ろしい圧倒的な暴力に、恐怖でガタガタと震える。ベンの破壊力は人間や魔物とは異次元の領域に達しており、神話に伝わる神の営みそのものだった。

 騎士団顧問の少年ベン、その名は圧倒的恐怖の象徴として兵士たちの胸に刻み込まれ、新たな神話の一ページに加わることとなる。

 ベネデッタもベンのすさまじい魔法に圧倒されていたが、横でベンが倒れてとんでもない事になっているのに気が付いた。

 ブピュッ! ビュルビュルビュ――――。

 ベンは意識を失い痙攣(けいれん)しながら肛門から異様な音を上げていた。それはまるで先日の勇者の姿を思い出させる。

「ベン君! ベン君!」

 ベネデッタは声をかけるが、ベンは反応しない。

「救護班! 救護班、急いで!」

 ベネデッタは叫び、ベンは毛布にくるまれ、担架で運ばれていった。


         ◇


「あ、あれ? ここは……」

 ベンが目覚めると清潔な真っ白い天井が見えた。

 そして横を見ると、ベッドの脇にはキラキラとしたブロンドの髪に透き通るような美しい寝顔……、ベネデッタだった。ベンの手を握り、うつらうつらしている。

 えっ!? これはいったいどういうこと?

 ベンは焦って記憶を掘りおこす。確か魔物の群れに向けてファイヤーボールを放ったような……。そこから先の記憶がない。

 えっ!? まさか!?

 ベンは急いで自分のお尻をチェックする。乾いた高級なシルクの手触り。誰かに着替えさせられていた。これは暴発を処理されたということを意味している。

 やっちまった……、うぁぁぁ……。

 ベンは頭を抱え、毛布の中で丸くなった。

 今まで、どんな時でも最後まで死守した肛門。しかし今回ついに突破されてしまったのだ。

 ベンはその底知れない敗北感に気が遠くなっていく。

「あ、気が付かれましたの?」

 ベネデッタが起きてニコッと笑った。

「はっ、はい! こ、ここは……どこですか?」

 ベンは急いで体を起こし、冷汗を流しながら聞いた。

「ここは宮殿の救護室ですわ。城壁でベン君、倒れちゃったからここに運ばせましたの。それで……、シアン様からすべて聞きましたわ」

「えっ!? 全てって……もしかして……」

 ベンは真っ青になる。便意を我慢して強くなるなんて、絶対女の子には知られたくなったのだ。

「そんな辛い目に遭っていたなんて、あたくし、全然知らなくて……。ごめんなさい。トゥチューラのために……、ありがとう」

 ベネデッタはそう言ってギュッとベンの手を握った。

 その言葉にベンの中で何かが(せき)を切ったようにあふれ出し、思わず泣き崩れる。

 ひぐっ! うぅぅぅ……。

 ベンの目から大粒の涙がぽたぽたと落ちた。

 ベネデッタはそんなベンを心配そうにハグし、

「辛かったですのね」

 と、言いながら優しくベンの頭をなでた。

 ベンはうなずき、今までの苦しい便意との戦い、理解されない孤独で凍り付いてしまっていた心がゆっくりと溶けていくのを感じていた。

 ふんわりと立ち上る優しい甘い香りに包まれ、ベンは温かいもの満たされていく。

 思い返せば前世のブラック企業で延々と深夜まで激務をこなし、文字通り命を削っていたのだが、感謝されたことも謝られたこともなかった。どこか『自分なんてどうせ』と卑屈に思い、低い自己評価でそんな状況を受け入れてしまっていたのだ。しかし、そんな状況が続けば、心が硬直化してしまう。ベンの心は死にそうになりながら、ずっとこれを待っていたのかもしれない。

 ベネデッタの思いやりのこもった一言は、前世から続くベンの心の奥底のひずみを優しくゆっくりと癒し、ベンはとめどなく湧いてくる涙でトラウマを洗い流していった。

 心は三十代のベンからしたらベネデッタは子供なのだが、今のベンには年齢などもはやどうでも良くなっていた。

 ポトポトと自らの服に落ちる涙を、ベネデッタは厭うこともなく、ほほ笑みながら優しくベンの背中をなで続ける。それはまるで聖女のもたらす無限の愛のようであった。