それでも落ちたら死んでしまう。

 ベンは大きく息をつくと、驚かさないようにそっと隣の窓を開け、

「そこのメイドさん、ちょっとおいで」

 と、言って手招きをした。

 するとまるで忍者みたいにメイドはするすると窓枠に降り立ち、嬉しそうに入ってくる。赤毛をきれいに編み込み、笑顔の可愛い女の子だった。

「私、選んでもらえたんですね!」

 女の子は手を組んでキラキラとした笑顔を浮かべる。

「残念ながら君は失格! 命がけのアプローチは今後反則とする!」

 ベンは毅然(きぜん)とした態度で言い放った。

「そ、そんなぁ……。私、まだ処女なんです。病気もありません。しっかりご奉仕します!」

 女の子は必死にアピールするが、そんなアピールはベンには重いだけだった。

「いいから、今日は営業終了。早く出て行って!」

「は、母が病気なんです! クスリを買わないと死んでしまうんです!」

 女の子はベンの手を取ってすがってくる。

 一体なぜこんなことになってしまったのかわからず、ベンは思わず宙を仰いだ。自分がエッチをすると人助けになる。エッチってそういうモノだっただろうか?

 ベンはクラクラする頭を両手で支え、大きくため息をついて言った。

「お母さんの件は残念だが、それを僕に言われても……」

 すると、女子は急にベンに抱き着き、

「私ってそんなに魅力……ないですか?」

 そう言ってウルウルとした瞳でベンを見つめる。

 甘酸っぱくやわらかな女の子の香りがふんわりとベンを包み、ベンは目を白黒させた。

 そして女の子は器用にシュルシュルとメイド服のひもをほどき、脱ぎ始める。

「ストップ! スト――――ップ!!」

 ベンはそう叫ぶと、女の子をドアまで引っ張っていって追い出す。

「えー! ちょっとだけ! ちょっとだけですからぁ!」

 そう言ってすがる彼女の手を振り切って、

「今日はこれまで! 明日、ちゃんと話をしよう」

 そう言ってドアをバタンと閉めた。

 はぁぁぁ……。

 ベンはよろよろとベッドまで歩くと倒れ込み、海よりも深いため息をついた。

 異世界でハーレム。それは男の夢だと思っていたが、実際になってみるとそんな楽しい話では全然なかった。金のために女の子たちは必死になり、行為をしたら計算され、街の予算から彼女たちに支払われる。

 そして、大真面目な会議の席で、

『ベンの慰安費が今月は多いのではないか?』『いやいやもっとヤってもらわないと』『この子を気に入ったようですな』

 などとプライベートが議論されてしまうのだろう。最悪だ。

 もちろん、あんなに可愛い女の子とイチャイチャできるならいいじゃないか、という考え方もあるが、『母の薬のために抱かれているんだこの娘は』ということを考えてしまったら、もう楽しむことなんてできなくなってしまう。

 あぁ、なんて不器用なんだろう……。

 その晩、ベンは薄暗い天井を見つめながら何度もため息をつき、眠れない夜を過ごした。


      ◇


 翌朝、目が覚めると、もうすでに陽はのぼり、レースのカーテンには燦燦(さんさん)と光が差し、明るく輝いていた。

 ふかふかで巨大なベッド。先日までドミトリーのせんべい布団で寝ていたので、こんなフカフカなベッドは居心地が悪い。

 ふぁ~ぁ……。

 ベンは寝ぼけ眼をこすり、トイレに行こうと立ち上がる。

 ベッド変えてもらおうかなぁ……。

 ドアを開けた。

「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」

 なんと、メイドたちがずらっと並んで頭を下げている。

 ベンは固まった。

 彼女たちはずっとここで背筋を伸ばしながら自分の起床を待っていたのだ。きっと何時間も。一体この地獄はどこまで続いているのだろうか?

「お、おはよう」

 ベンはうんざりしながらそう言うと、トイレへと歩き出した。

 するとなぜか全員ついてくる。

「ちょ、ちょっとまって! 君たちなんでついてくるの?」

「ご主人様のお(しも)のお世話も私たちの仕事ですので」

 メイドはニコッと笑って答える。

「大丈夫! トイレは一人でやる。いいね? 君たちは食堂に行ってなさい」

 ベンはそう言ってメイドたちを追い払い、急いでトイレに駆け込む。

 便器に腰かけたベンは、まるでロダンの『考える人』のように苦悩の表情を浮かべながら、このとんでもない新生活を憂えた。
















22. 魔物の津波

 自宅では気が休まらないので早めに宮殿に出勤するベン。

 宮殿はまだ焼け跡が残り、痛々しいが、夜通し復旧作業が進んでいるようで、日々少しずつ綺麗になっている。

「それにしてもあのメイドたちどうしようかな? ベネデッタさんに知られたら軽蔑されるよなぁ……」

 ベンがつぶやいていると、

「あら? あたくしが何ですって?」

 そう言ってベネデッタが後ろからいきなりベンの腕をつかんだ。

「うわぁ! お、おはようございます。いや、ベネデッタさんを失望させないようにしないとなって、思ってまして……はい」

 ベンは目を白黒させ、冷や汗を流しながらごまかす。

「あら、ベン君は私の命の恩人、失望なんていたしませんわ」

 そう言って碧眼をキラキラと輝かせながら最高の笑顔を見せる。

 ベンはドキッとしながら、

「そ、そうですか。そ、それは良かった」

 と言って、頬を赤らめた。

 その時、向こうから手を振りながら誰かが駆けてくる。

「顧問! 大変です!」

 それは班長だった。班長は青い顔しながらダッシュでやってきて、悲痛な面持ちで言う。

「魔物が約一万匹、トゥチューラを目指しているという報告がありました」

「一万!?」

 ベンは青くなった。トゥチューラの兵は数千人しかいない。一万はトゥチューラの存亡にかかわる事態だった。今から王都に救援依頼を送っても到着までには何日もかかるだろう。自分たちで一万の魔物の軍勢を対処しなくてはならなくなった。

「ベン君どうしよう!?」

 ベネデッタが眉間にしわを寄せて不安げにベンを見る。その美しい(あお)い瞳にはうっすらと涙が浮かび、ベンの心は大きく揺さぶられた。

 ベンにしてみたら逃げるのが最善である。命がけで戦うメリットなどない。ひとり身の気楽な身分だから、他の街に移住してしまえばいい。

 でも……。彼女を見捨てて逃げる? 本当に?

 ベンは首をブンブンと振り、大きく息をついた。

 そして、覚悟を決め、

「大丈夫、任せてください」

 と、ニッコリと笑って見せた。

 前世でもこうやってトラブルの度に最前線で対応して命を削り、結果過労死してしまったわけだが、それは今世でも変わらない。お人好しでクソ真面目。でも、ベンはそれでいいと思った。こんな素敵な女の子に頼られて、それでも見捨てて逃げるような人生には何の価値もないのだ。

 とはいうものの、一万の軍勢には一万倍の【便意ブースト】では足りないだろう。ベンは未知の領域、十万倍を目指さねばならなくなってしまった。

 そして、それがもたらす苦痛を想像し、気が遠くなって思わず宙を仰いだ。


       ◇


 城壁の上に立ってみると、一面の麦畑の揺らめく陽炎の向こうに無数の黒い点がうごめいて、こちらに迫っていた。なるほどあれが魔物に違いない。

 あんな津波のような暴力がこの街を洗ったら滅亡は必至だった。

 兵士たちはたくさんの石を城壁の上に運び上げているが、顔色は悪い。城門に群がってくる魔物を上から石を投げて倒していくという作戦らしいが、さすがにこれでは一万には耐えられない。

 もちろん、弓兵も魔法使いもいるが、数百ならともかく、一万という数字は圧倒的な力をもって兵士たちの心を蝕んでいく。

 兵士たちは口々に不安をささやきあっており、士気は地に落ち、状況は非常にまずい。


 やがて魔物たちは、城門近くの麦畑に集結し、

 ギャウギャウ! グギャァァァ!

 と、口々に奇怪な叫び声をあげ、威圧してくる。

 そして、骸骨の馬(スケルトンホース)に乗った巨体の魔人がカッポカッポとゴブリンたちを蹴散らしながら先頭に出てきた。

 何をするのだろうかとベン達も、城壁の兵達も固唾を飲んで様子を見守る。

 すると、魔人は大声を張り上げた。

「おい! 人間ども! 我は魔王軍四天王が一人【フルカス】! ベンとやらをだせ!」

 ベンは思わず天を仰いだ。

 あの魔法使い、四天王のナアマの伝言を聞いてやってきたのだろう。あの時、瞬殺できなかったことが悔やまれる。

 ベンは大きく深呼吸をすると、不安げなベネデッタの肩をポンポンと叩き、

「ちょっと準備してくる。瞬殺してやるから安心していいよ」

 と、ニコッと笑った。

 ただ、そうは言ったものの十万倍は未知の領域。ベン自身自信はなかった。ただ、今はこう言い切る以外道が無いのだ。

 その時だった、

「ハーッハッハッハー! ベンなど待たずとも、この勇者が相手してやろう!」

 と、勇者の声が響き渡った。

 ベンに倒されて人気急降下の勇者としては信頼回復の好機だったのだ。フルカスさえ倒せば英雄の座を取り戻せる。勇者は必死だった。