「ふぅ~。」

もう少しで頼まれたデータ入力が終わる。

ふと机を見ると、他課へ回さなければならない決済が置かれていた。

「!!」

それは徴収課の和木坂課長へ渡さなければならない書類だった。

自席から離れた和木坂課長は、いつものように残業をしている。

きっと幸田ミチルが約束をドタキャンしたから、仕事をすることにしたのだろう。

そんな多忙な中、せっかく時間を作ってくれたのにドタキャンするとは、なんて申し訳ないことをしてしまったのだろう。

和木坂課長からは、さっき返信メッセージが届いた。

(残念だけど、また今度会えるのを楽しみにしてる。残業頑張って!)

そして茶色いクマが片手を挙げてガッツポーズをしているスタンプも添えられていた。

優しいな・・・和木坂課長。

本当はデートしたかったよ・・・。

こんなタイミングで和木坂課長と話すのは気まずいけど、仕事だから仕方がない。

私は書類の判を捺してもらわなければならない箇所に付箋を貼り、和木坂課長の席に向かった。

「和木坂課長。この書類、目を通したら判をお願いします。」

私がそう言うと、和木坂課長はパソコン画面から私へ視線を移し、軽く頷いた。

「ああ。ありがとう。」

そう言うと、すぐにまたパソコンへと視線を戻す。

その眼差しは、幸田ミチルへ向ける甘い視線とは全く違い、ただの同僚に向ける、それ以上でもそれ以下でもないものだった。

わかってはいたけれど、その事実に胸が痛む。

やっぱり和木坂課長は、私が幸田ミチルだってことに全く気付いていないのだ。



「はあ~。やっと終わった。」

もう時計は9時を回っている。

私は幸田ミチル変身グッズが入った大きなカバンを肩にかけ、事務所を出た。

本当だったら和木坂課長とバーで生牡蠣を食べてたはずだったのに・・・。

仕方がないからスーパーでカキフライでも買って帰ろうかな。

そう思っていると、後ろから足音が聞こえてきた。

「臼井さんっ」

聞いたことのある低音ボイスが私に声を掛けた。

「今、帰り?」

私を小走りで追いかけて来たのは、和木坂課長その人だった。

「わっ和木坂課長!」

「遅くまで大変だな。お疲れ様。」

和木坂課長はそう言うと、いつものように片方の目だけを細めてみせた。

「和木坂課長こそ、毎日お疲れ様です。」

そう言って頭を下げる私の横を、和木坂課長はさりげなく歩きはじめた。

和木坂課長が、私の肩に掛けられている大きなカバンを指さした。

「随分大きな荷物だね。これから彼氏の家に泊まりに行くとか?」

これはアナタに会うための変装グッズです・・・なんて言えるわけない!

「かっ彼氏なんていません。これは・・・あの・・・最近ジムに通い出しまして、その着替えです。今日は急に残業になってしまって行けなかったんですけど。」

「へえ。臼井さん、ジムに通ってるんだ。意外だな。俺もたまに行くよ。筋トレで汗を流すと気持ちいいからな。臼井さんはジムで主になにをやっているの?」

ジムなんて生まれてこのかた行ったことない!

「あ、あの、ヨガ・・・とか・・・?」

「なるほど。ヨガのクラスは女性に人気あるよな。」

「そう!いつも混みあってて、大変なんですよ。」

セ、セーフ!

「しかしこう連日残業だと疲れるよ。こんな日は美味い酒でも飲みたい気分だ。」

和木坂課長が腕を高く上げて、大きく伸びをした。

「ふふっ。そうですね。」

「臼井さんも酒、飲むの?飲み会ではいつも、あまり飲んでないだろ?」

「はい。酔うと眠くなってしまう体質なので・・・。あ、でも家ではよく飲みますよ?発泡酒とか。」

「俺ももっぱらビール党。」

すごい・・・私、臼井ちさでも和木坂課長と普通に話せている。

これは幸田ミチルのお陰かもしれない。

すると和木坂課長は思いがけない言葉を私に放った。

「ねえ、臼井さん。ちょっと一杯付き合ってくれないか?」

「・・・・・・え?」

「俺、今夜は君と飲みたい気分なんだ。」