王宮にやってきたアシェリーを迎えたのは、ラルフの従者だった。

「こちらへどうぞ。陛下の元までご案内いたします」

「あ、ありがとう」

 会うたびに恭しい態度に変化していく従者に、アシェリーは戸惑っていた。

(確か彼は私のことを毛嫌いしていたはずだけれど……)

 主が嫌っているからアシェリーへの当たりもきつかったのだろうが……。
 親切にもラルフが従者を手配してくれたのだろう。政務室の場所は何度も行っているからアシェリーは知っているのだが、ラルフの心遣いはありがたく受けることにした。
 ふと、廊下の後ろでメイド達がヒソヒソと話している声が聞こえる。

「あの女……何しにしたのかしら? 陛下に捨てられたくせにね」
「陛下の優しさに付け込んで、まだ付きまとうなんて恥知らずだわ」
「エルシー様が次の王妃筆頭候補なんだから、邪魔しないでほしいわね」

 足を止めて振り返ると、焦ったようにメイド達がそそくさと去って行く。

(彼女達は確か……エルシー様の付きのメイド達だったわね)

 エルシーはラルフのいとこだ。隣国に嫁いだ前国王の妹の娘で、今年十八歳になる。今はこの王国に長期遊学中で、ラルフとは昔から仲は良い。
 アシェリーは高慢な性格だったので王宮の人々から疎まれていたが、その中でもエルシー付きの侍女達には特に嫌われていた。エルシーがラルフに好意を抱いているから、侍女達も主に倣ってのことなのだろう。

「申し訳ありません。管理が行き届いておらず……」

 苦々しげな表情で、従者はそう口にした。
 アシェリーは苦笑を浮かべて首を振る。

「いいえ、気にしておりませんわ。むしろ、私はそう言われても仕方がないような振る舞いをしておりましたから……彼女達を咎めないであげてください」

 そう言うと、従者は驚いたように瞠目した。

(昔の私は本当にひどかったわ。エルシー様に嫉妬して、彼女を毒殺しようとしていたんだから……)

 誰かを害する前に、前世の記憶を取り戻せて良かった。
 いくらラルフを愛しているからといって、恋敵を殺していいはずがない。
 もっとも原作では毒殺は失敗して、アシェリーは悪事がバレて投獄されることになっていたのだけれど。

(……私はもう誰も害したりしないわ)

「……アシェリー様はお変わりになられましたね」

 ぽつりとつぶやいた従者の言葉に、アシェリーは微苦笑する。

「だったら、嬉しいですわ」

 同じ態度を繰り返していたら懺悔にならない。
 たとえ愛するラルフとエルシーが婚約したとしても、アシェリーは黙って見守るだろう。

(まぁ、陛下は聖女様と結ばれる運命だから、エルシー様も私も失恋してしまうのだけれど……)

 そう思うと不思議と仲間意識が湧いてきてしまうのだが、エルシーからしたら良い迷惑に違いない。





 従者に導かれて政務室に入ると、アシェリーはスカートを持ち上げて礼を取る。

「ご無沙汰しております、陛下。アシェリーです」

「あ、ああ……君か」

 ラルフは執務机から顔を上げると、戸惑いを含む眼差しでアシェリーを見つめた。

「そこに掛けてくれ。いまお茶を用意させる」

「ありがとうございます。ですが、お気遣いは不要ですわ。私はお客としてではなく、治療師の仕事としてやってきただけですので長居するつもりはありません」

 そう言って微笑む。

(施術が終わったら、すぐ帰りましょう。陛下は私の顔なんて長い時間見たくないでしょうから……)

 しかし、ラルフは焦ったように首を振る。

「いや、治療師としてやってきてくれたのだ。俺がもてなしするのは当然だ。施術が終わったら一杯くらいは付き合ってくれ」

 そう乞われてアシェリーは困惑しつつ「わかりました」と、うなずく。

(いったいどうしたのかしら……?)

 離縁してから三か月。週に一度は施術にきているから、もうこうして会うのは十二回になるだろうか。その間、お茶に誘ってくれることはなかったというのに。

(まぁ、一杯くらいは良いか。体調が安定しているから、治療の間隔を二週間に空けようと話をしてみましょう)

 ラルフは上着を脱いでソファに腰掛けた。
 適度に鍛えた裸体をさらしており、アシェリーは直視できない。
 できるだけ手が触れないように心がけながら、目を閉じて魔力コントロールをしていく。

(本当は手が触れている方が効率良いんだけど……)

 実際、治療院にくる人に対してはそうして施術しているのだ。
 けれど、ラルフに対してそれができない。これ以上嫌われたくないから。

(以前は施術を言い訳に、ラルフの体に必要以上にベタベタ触れて嫌な顔をされていたけれど……もうそんなことはできないわ)

 彼を二度と苦しませないと誓ったのだ。そのためにも距離を保つ必要がある。
 全て施術が終わると、ようやく落ち着いたようにラルフは深く息を吐いた。

「……ありがとう。だいぶ楽になった」

「それは良かったです」

(今は週に一度の往診だけど……陛下のお体も安定しているから、二週間に一度にしても良いかもしれないわ)

 ラルフもアシェリーの顔が見なくて済むならその方が気楽だろう。お互いのためにもそちらの方が良い気がした。

「前より魔力が安定してますし、施術の間隔を空けても大丈夫だと思いますよ。次から二週間後にしましょうか?」

「それはダメだ……っ!」

 アシェリーの言葉に間髪入れずラルフが否定する。
 突然大声を出されてビックリしてしまったアシェリーに、ラルフは慌てたように言いつくろう。

「い、いや……大声を出してすまない。まだ、そんなに期間を空けるのは不安だから」

 そうゴニョゴニョと言い訳されて、アシェリーは首を傾げつつも受け入れた。

「もちろん、陛下がお望みならそういたします」

「ああ、そうしてくれ」

 その時、メイドがワゴンにティーセットを載せてやってきた。

「紅茶をお持ちしました」

 彼女はなぜかラルフと目配せした後、アシェリーに向かって頭を下げる。

「こ、こんにちは。私をおぼえていらっしゃいますか?」

「あら……? あなたは……」

 どこかビクビクしている彼女は、かつてのアシェリーの侍女だ。
 そして先週、ラルフの元へ施術にきた帰りに魔力の暴走で倒れていたのをアシェリーが介抱した記憶がある。

「あの時は助けてくださり、ありがとうございました!」

 再び深々と頭を下げる彼女に、アシェリーは笑みを向ける。

「いえ、私は当然のことをしたまでですわ。お元気になられて良かったです」

 メイドはアシェリーの優しい態度に、驚いたように目を丸くしている。
 これまではメイド達にさんざん偉そうに接していたから当然だろう。

(なるほど。陛下は私に彼女を会わせるつもりでお茶に誘ってくれたのね)

 そう納得する。
 その時、ふと脳裏に原作のシーンが浮かんだ。

(ああ、そういえば……メイドの彼女も原作に出ていたわね)

 それをようやく思い出した。
 確か、彼女は魔力暴走を起こして王宮で亡くなったのだ。
 ラルフに『君ならどうにかできるだろう。助けてやってくれ』と頼まれてもアシェリーは見殺しにした。それが、ますますラルフの態度が硬化していく原因になったのだが……。

(……助けることができて本当に良かったわ)

 自分の愚かな行動を清算できたことに安堵する。
 アシェリーは紅茶を飲み終えると、立ち上がってラルフに礼をした。

「美味しいお茶ありがとうございました。それでは、私は失礼いたします」

「……もう帰るのか」

 少し残念そうなラルフの言葉に当惑する。

「え……っ」

(もう他に用事はないはずよね……?)

「いや、じゃあ城の出口まで送って行こう」

「あ、いえ……! ここで結構ですので」

「良いから」

 よく分からない押し問答に負けて、アシェリーは見送られることになってしまった。
 その時、壁際で控えていた従者がラルフの元まで寄り、何かを耳打ちする。ラルフの表情がゆがみ、その後に驚いたように目を剥いた。

「どうかなさいましたか?」

 そう尋ねると、ラルフは首を振って「いや……行こうか」とアシェリーを促した。

「……君は変わったな」

 廊下を歩きながら、ぽつりとラルフはそう口にする。

「……そう、でしょうか?」

「──ああ。先ほど従者から聞いたのだが、エルシーのメイドに陰口を叩かれても、彼女達をかばったらしいな」

「それは……」

 言いよどむアシェリーに、ラルフは微笑む。

「それに、こう言っては気を悪くするかもしれないが……、以前の君は下働きの者の体調を気遣うこともなかった」

(……これまでは、陛下以外に興味がなかったから……)

 周りがどうなっても構わないから、誰かが魔力暴走を起こしても放っておいたのだ。
 同じ部屋で倒れたメイドがいたとしても、冷たい目で『邪魔よ。どこかに連れて行って』と言い放つような女だった。

(……私、本当に最低だったわ)

 かつての自分を考えると、頭を抱えてしまいたくなる。悪女にふさわしい振る舞いしかしてこなかったのだ。処刑されても仕方ない。

「……街での君の噂も聞いている。皆に好かれていて、とても評判が良いらしいな」

 ラルフの言葉に、アシェリーは目を瞬かせた。

「いっ、いえ、そんな……」

(まさか、陛下の耳にそんな話が届いているなんて……)

 困惑と喜びが襲ってきて、アシェリーは首を振る。

「皆さんに良くしていただいて、とてもやりがいがあります」

「そうか……」

 ラルフはアシェリーが向けられたことがない優しい眼差しをしていた。それにドキリとする。
 この三か月、少しずつラルフの態度が変わってきているのを感じていた。

(良かった……少しは罪滅ぼしになっているかしら?)

 ラルフは聖女と結ばれて、悪女アシェリーは処刑される。その未来を知っていても、やはり彼に憎まれ続けるのは嫌だ。
 廊下の角を曲がろうとした時、ふと前方からエルシーが侍女を引き連れてやってくる姿が見えた。

「あら、陛下。ご機嫌麗しゅうございます」

「ああ」

 エルシーが満面の笑みで挨拶するも、ラルフはむすっとした顔をしていた。
 その様子にアシェリーは首を傾げる。
 まるで、彼が大事な話を邪魔されている時のような表情をしていたからだ。

(以前は、その顔を向けられていたのは私だったけれど……今日はどうしたのかしら。陛下はご気分が良くないみたい)

 エルシーはラルフに歩み寄ると、アシェリーに見せつけるように彼の胸にしなだれかかる。

「陛下、新しい香水をつけてみましたの。どうかしら?」

 あからさまに挑発するようにアシェリーに見てくる。
 アシェリーが冷遇されていることを知っていて、エルシーはこれみよがしにラルフとの仲を見せつけてくるのだ。

(ああ……またか)

 これまでだったらアシェリーが発狂してエルシーに突っかかっていた。しかしラルフがエルシーをかばうので、さらに怒り狂ったアシェリーがラルフに意地悪なことをして嫌われるという悪循環。
 それを思い出してアシェリーは顔をしかめる。
 しかし、ラルフはエルシーの身を素早く引き剥がした。

「エルシー、私は忙しい。匂いを確かめてもらいたいなら他の人をあたってくれ」

 そっけなく言われて、エルシーがぽかんとしている。

(あ、あれ? これまでの彼なら『うん、悪くないな』くらいは笑顔で言ったと思うけれど……)

 困惑しているアシェリーの手を取ってラルフは進もうとする。

「あ、あの……」

(良いのかしら? ほうっておいて……)

 戸惑っているアシェリーに、うつむいて震えていたエルシーがキッと睨みつけてきた。

「……廃妃のくせに」

 ボソリとつぶやいたエルシーの声は、存外に廊下に響いた。
 その場で凍りついたのは一人や二人ではない。アシェリーもそうだった。そして、なぜかラルフも。

「まだ陛下に付きまとうなんて、どれだけ恥知らずなのかしら」

 まだ言い続けるエルシーを止めたのは、ラルフの氷のような声だった。

「エルシー」

 突然声色が変わったラルフに、エルシーはビクリと肩を揺らす。
 ラルフは大きくため息を落とした。

「叔母上に頼まれていから多少のことは大目にみていたが……やりすぎだ。もう隣国に帰れ」

「えっ、そんな……陛下……」

 エルシーはショックを受けたようだった。

「アシェリーは俺に付きまとっているわけじゃない。俺が頼んできてもらっているんだ」

「え……?」

 ざわりと周囲に戸惑いが広がる。
 皆アシェリーが治療師としてやってきていることを知らない。ラルフの魔力暴走のことを周囲に知られては困るから伏せられているのだ。
 だから皆はアシェリーがラルフに付きまとっていると思いこんでいたのだろう。

「……行くぞ」

「あっ……、は、はい。陛下……」

 アシェリーは迷ったが、ラルフに手を引かれるまま後に続いた。
 エルシーに声をかけても彼女の怒りに油をそそぐだけだろうと思ったから。
 王宮の正面扉の前で、ラルフは足を止めた。

「後は護衛に送らせよう」

「い、いえ、お気遣いなく」

「いや、そうはいかない。一人で帰るのは危険だ」

(離縁した妃なんて放っておけば良いのに、義理堅い方だわ)

 そう思いながら、アシェリーは繋がれたままの手をじっと見つめた。
 すると、ようやく気付いたようにラルフは手をパッと離す。お互いどこか落ち着かないようなしぐさで辺りを不自然に見回した。

(私達、何やってるんだろう……)

 顔が熱くなっている。
 何だか意味不明にドギマギしながらも、アシェリーはラルフのことを心配してしまう。

「あの……差し出がましいようですが、あのような言い方をされると周囲から誤解されてしまいますわ」

「言い方?」

「その……『俺が頼んできてもらっている』とか……」

 思い出して顔が熱くなる。
 いや、治療師としてやってきているわけだし、ラルフの言葉が完全に間違っているわけではない。
 しかし、アシェリーがラルフの施術にやってきていることは伏せられているのだから、周りからは男女の意味に捉えられてしまうだろう。

(もうすぐ聖女様が現れる時期なのに、彼女に誤解されたら困るわ……)

「その通りだろう。君は俺を治療するためにきてくれているんだから。それを周囲にも知らせるべきだ」

 アシェリーは慌てて首を振った。

「それはいけません。陛下の体調のことを周りに知られては、その弱みに付け込まれてしまいます」

 一番彼の弱みに付け込んでいたのはアシェリーだ。説得力があるに違いない。
 しかしラルフは躊躇っている様子だ。

「だが……」

 しつこく言い寄る女だと馬鹿にされている現状をラルフはなんとかしたいと思ってくれたのだろう。
 その心遣いに胸の奥があたたかくなる。

「……私は陛下のお気持ちだけで十分ですから」

 そう言ってアシェリーが微笑むと、ラルフは目を見開いた。そして、ふいっと顔を背ける。なぜか頬が赤く染まっていた。

 その後、アシェリーは風の噂でエルシーが隣国に戻ったことを知った。