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 期末テストも終わり冬休みが目前となった土曜日、私は朝早く起きて家を出た。
 外に出ると空気は思ったより冷たくなくて、久しぶりに雲ひとつない晴天が私を見下ろしていた。
 今日は特に、空が高い。まっさらな空に手を伸ばしてみたけれど、まるで届きそうにない。
 それは果てしなく続く未来への距離のようで、見上げていると希望と不安がないまぜになるような、複雑な気持ちになった。
 歩きながらスマホを開く。
 昨夜来た、植村くんからのメールを開いた。

〝あした、じゅういちじにいすみじんじゃで〟

 SNSもチャットアプリも入れていない植村くんだけれど、電話番号だけでもメールは送れるのだと勉強したらしい。電話ではなく、はじめてメッセージで連絡してくれた。
 植村くんのメールは園児の書く文章みたいで、何度見ても笑ってしまう。相当苦労しただろうに、それでも練習して送ってくれたのだと思うとそのやさしさがうれしかった。
 ただ、正直会う気持ちにはなれなくて。
 土日を費やして、謹慎までさせて、あんなに迷惑をかけた植村くんとまた会うのは苦しくて。
 どうしようかとメールを眺めていると、三十分後に鬼電がかかってきたので、結局メールで〝わかりました〟とだけ返信した。
 胸が鳴っている。
 そんな自分を悔しく感じる。
 もう迷惑をかけないと決めたのに。結局は植村くんに流されてしまう。
 ……いや。
 本当は今、私は自ら植村くんに流されたがっている。

「はよ」

 石段の前まで来ると、植村くんがいつもの一番上の段に座っていて、挨拶をしてきた。
 呪いが解けてから、植村くんとちゃんと会うのははじめてのことだ。また少し髪色が明るくなっている植村くんを見て、なんだか緊張してしまった。
 でも、いつもの通り、いつもの挨拶をする植村くんを見ていると緊張している自分がバカらしくなってしまって、自然と笑みが溢れた。

「……おはよう」

 それだけを言うと、私も石段を上り、神社に向けて歩き出した。
 久しぶりに二人で来る、勿忘(ワスレナ)の池だ。
 もう、来る必要もないのだけど。植村くんに言われるまでもなく、集まる場所はここしかないと思った。いや、来なきゃいけないと思った。
 朝の挨拶をしたきり、お互いに会話がないまま歩く。
 かと思えば、雑木林を歩いている途中で植村くんが口を開いた。

「ワンピース?」

 わざわざ指摘されるとは思わなくて、一瞬言葉に詰まってしまった。
 ワンピース。前にお母さんと出かけた時、「栞莉めちゃくちゃ似合ってる!」と言われて半強制的に買わされた、薄水色のワンピース。それを今日は着ていた。
 今朝は少しだけ暖かくて、コートの前を開けていたから、植村くんも気づいたのだろう。

「あ、これ……ずっと着てなかったんだけど、もう着てもいいんだなって、思って。今まで、変にオシャレなんかして外に出て、クラスの子にからかわれたらと思うと怖かったから……」
「ふーん。で、それを、わざわざ俺の前に着てくると」
「……え。何かだめだった?」

 植村くんと会う時はいつもベーシックな服を着ていたけれど、私は基本人と会うことがないから、ワンピースなんて今日みたいなタイミングでしか着る機会がない。
 ずっとタンスの中で眠っているのもかわいそうだったから、たまにはと思って着てみたのに。

「いや、だめじゃないけど、さ。なんか変な気分になるじゃんか」

 数歩前を歩く植村くんは、どんな表情をしているのかよく見えない。言っている意味がよくわからず、私は返事をしないまま歩いた。
 そしてしばらく歩いたところで、植村くんが急に止まったものだから背中に派手にぶつかってしまった。
 びりびりする鼻を押さえていると、植村くんが小さく呟いた。

「あ」

 雑木林の先、池にたどり着く前の道に縄が張られ、先に進めなくなっていた。
 その真ん中に看板が立っている。
〝立ち入り禁止〟という赤い文字が、大きく私たちを阻んでいた。

「まだ、閉鎖されてるんだ……」
「閉鎖っていうか……このまま池、埋め立てられるのかもしんねーな」

 勿忘(ワスレナ)の池は少し前から封鎖されていた。
 先日、池を訪れた人が骨を見つけたためだ。
 その日、いつもならなみなみとした美しい水を張っている池は、カラカラに乾き切っていたという。そして不思議に思い池の底を見ると、人らしき骨が落ちているのを見つけたのだ。
 きっとそれは、男性の骨なのだろうと思った。
 大昔に亡くなった、心やさしい一人の男性の骨。多くの人の願いを見守り、一度は心を閉ざしたけれど、ようやく前に進むことができた。
 私がそれを知ったのは、地元の短いニュースでだけ。
 だから、詳しいことはわからない。私の考えもすべて想像でしかない。
 でも、そうであればいいな、と思った。
 道を塞がれてはどうすることもできず、私たちは来た道を戻った。
 神社から雑木林に入る手前にもベンチがあったので、そこに座る。冬休み目前の晴れた午前中、小さな神社を参拝しに来る人はいなくて、それはそれで落ち着いた。でも見える景色はいつもの慣れ親しんだものではなくて、どこか物悲しさを感じてしまった。
 もう、私たちの思い出の場所はなくなってしまうかもしれないんだ。
 二ヶ月間植村くんと一緒に見てきた景色は、永遠に失われてしまうかもしれないんだ。
 ……ううん。その悲しさもあるけれど……。
 勿忘(ワスレナ)の池に住んでいたあの男の人に、もう一度感謝の気持ちを伝えて、手を合わせたかった。