大したことのないやり取りばかりなのに、なぜか次々と溢れてくる。どうでもいい話なのに、一言一句迷うことなく思い出せてしまう。
 それはきっと、私の頭の中の容量がほとんど空っぽだからだ。
 普段口にする言葉といえば、学校で問題を当てられた時の回答や、スーパーのレジのおばさんなんかとの短いやり取りだけ。自然な会話をする相手なんて、日常ではお母さんくらいしかいなかったから。
 誰かとの会話を覚えておくための頭のスペースは、悲しいほど空いていた。
 それがある日、植村くんという異物が生活に乱入してきて……。

〝あ、やだ。雨降ってきた……〟
〝うわっ、お前傘持ってる? 入れて入れて〟

 なぜか足が止まりそうになるのを、首を振りながら前に進む。
 ……行かなきゃ。
 私の人生に、植村くんがいたらいけない。
 万が一呪いが解けたら、また生き地獄が始まってしまう。
 小突かれ、蹴られ、人格を否定され続ける日々が始まってしまう。
 もう二度とあんな思いはしたくないんだ。
 わかってる。全部、理解してる。
 だから……。
 さよなら。植村くん。
 石段を降りて、住宅街に出る。
 空を見上げると夕焼けはとうに通り過ぎて、北の方から真っ黒な闇が流れ込んでいた。
 押し寄せてくる孤独の波に、指先がじりじりと冷えていく。気温が落ちたからじゃない。心の底の底に、冷たい氷が敷き詰められているのに気づいたからだ。
 前の私に戻るだけ。
 なのに、なんでこんなにあの闇が怖く感じるのだろう。
 わからない。自分のことなのに。自分の気持ちなのに。
 どうして今、私こんな気持ちになっているんだろう。
 どうして、私、は……。

「!」

 不意にどん、と、体を押されて、よろけてしまった。
 振り返ると、真っ赤な顔をした植村くんが私の腕を掴んでいた。
 激しく息を切らしている。駅から走ってきたのか、気温はもう寒いくらいなのに、額に汗を滲ませている。
 お別れのつもりだったのに。
 その人間が急に目の前に現れて、どうリアクションをしたらいいのかわからない。

「……笠井、栞莉、十六才! 四月十一日生まれ、牡羊座!」

 いきなり叫ばれて、耳がキンと痛んだ。
 今までに、誕生日を話した覚えなんてない。生徒手帳で知ったのだろう。でも、いきなり、なんで?
 呆気にとられながら見返していると、植村くんは私の腕を掴んだまま、崩れ落ちるようにその場に両膝をついた。

「あー、覚えてた! セーフセーフ!」
「ど……どうしたの」
「いや、じーちゃんの監視が強すぎて、なかなか逃げられなくて。スマホも取り上げられてるうちに充電切れてて、散々だったんだよ。よかったー、まだいてくれて!」

 下を向いて呼吸を整えながら、安堵する植村くん。それでも私を掴む腕は離さない。
 背の高い植村くんの後頭部をはじめて見下ろしながら、私は力なく棒立ちになっていた。

 植村くん……。
 ……なんでそんなに、がむしゃらになれるんだろう。
 別に、忘れてもよかったのに。
 忘れたら、また明日から前の日常が戻ってくるだけだったのに。
 他人の私に、そこまでする理由がわからない。そんなに苦しくなるまで走って、がんばって会いにくる意味がわからない。
 植村くんは、人に忘れられるなんて悲しいからって言うけれど。
 そうだとしても、植村くんには関係ないことなのに。

「……別に、忘れてもよかったのに」

 その気持ちが、何度目かの言葉となって外に出てしまった。
 まだ呼吸が乱れている植村くんは、下を向いたままだ。
 でもやがて、汗を光らせたまま顔を上げた。

「……俺が忘れてもさ、お前は覚えてるんだろ」

 言いながら、植村くんは少しだけ微笑んでいる。
 少し笑ってみせるだけで、いつもとは違う人のように見えた。

「忘れた俺を、お前はきっと駅で見かけてさ。それでまた、勝手にへこむんだろ。また忘れられた、なんつってさ。そんなの想像すると俺まで怖くなるよ。お前、こんなこと繰り返してて切なくなんねぇの」

〝あなた、どうしたの〟

 不意にあの言葉が蘇った。
 多田さんにコーラをかけられた、朝。私を心配して声をかけてくれた駅員さんは、純粋に私を心配してくれていた。
 その顔は、二日前にミネラルウォーターをかけられた時と、まったく同じ表情で……。

 ……違う。
 違う違う。
 どうでもいい。
 そんなこと、どうだっていい。
 だって、私にはもっと大事なものがあるんだから。
 いじめのない生活。
 お母さんに心配をかけない生活。
 それが叶うなら、私は誰に忘れられようともかまわない。植村くんに私のことを忘れられてもかまわない。
 私はもう、誰にも傷つけられたくないんだ。
 本気でそう思ってる。
 そう思ってる、のに……。
 なんで植村くんは、私の気持ちを掻き乱すの?

「……別に、植村くんに忘れられたって……私はどうってこと、ないよ」

 言葉にすると、裏腹の感情が胸の底から湧き出すのを感じて、急いで心に蓋をした。
 知らない、知らない。
 お願いだから出てこないで。
 見ないふりをさせてよ。
 気づかないふりを、させてよ。
 そうすれば痛みはないんだから。
 お願い……。
 すると、植村くんの私を握る手に力が込められた。

「……ほら。またその顔。悲しそうな顔、してんじゃんか」

 胸が、ぎゅっと痛んだ。
 植村くんが、私の腕に体重をかけて立ち上がる。
 顔を見てしまうとまた惑わされそうで、目を合わせられない。なのに、彼の手元へと視線を下げると、その指先から細くて頼りない糸が私の指へつながっているのが見えた気がして。

 ——私はなぜか、その手を振り解くことができなかったんだ。