——植村くん?
 ううん。違う……。

 薄暗い、神社へと続く道。そこに浮かぶ黒いシルエットはたしかに男性のようだけれど、植村くんより少し小さくて細身だ。
 思わずいつもの茂みに身を隠すと、すらりとした男性が闇の中に浮かび上がった。
 大学生くらいの人だ。
 これまでも、これくらいの年齢の人はこの池でよく見かけてきた。若い人の中では、神社でお参りしたあとこちらにも、という流れがあるのかもしれない。
 でもこんな夕暮れに、一人で来るなんて。
 どこかで遊んできた帰りだろうか。
 ——それとも、一人だけの空間で、集中してお祈りでもしたいのか。
 やさしそうな、きれいな顔立ちの彼は私のすぐそばを通り抜け、池へと向かっていく。そして手すりの前まで来ると、音もなく両手を合わせた。
 暗がりに、さわさわと葉が擦れる音が鳴る。
 ここからは見えないのに、風でゆっくりと細かい波をたたせている池の水面が目に浮かぶ。
 彼の後ろ髪がふわりと揺れて、それがもとの位置に落ち着いたあとも、彼は手を下ろしてずっと池を見下ろしていた。
 微動だにしない、まっすぐな後ろ姿。清潔そうなシャツの背中が妙に物憂げに感じて、見入ってしまう。
 振り向いたら彼は泣いてるんじゃないかと思った。

〝調査だ〟

 ……別に、調査なんてもう、どうでもいいのに。
 いつも聞き込みをするのは植村くんだったのに。
 私はなぜか、立ち上がっていた。
 茂みを抜け出し、音を立てないようそっと神社への道を戻る。そして少ししたところで振り返り、今度はわざと足音を立てて歩き出した。今たまたま来た人です、とでもいうように。
 池を眺めていた男の人は、私の気配に振り向くと池の前を譲るように奥へと移動した。
 彼が離れすぎないうちに、おそるおそる近づいて声をかけてみる。

「……こんばんは」

 不自然に、声が震えてしまったかもしれない。
 およそフレンドリーな人間だとは感じさせられない話しかけ方だったけれど、彼は思いがけず、柔らかい微笑みを返してくれた。

「こんばんは」

 ひとラリーを交わしたものの、そのまま次の言葉が出なくなってしまった。
 考えなしに話しかけてしてしまったせいで、何を言えばいいのかわからない。緊張しすぎて、植村くんがどんな言葉で人の懐に入り込んでいたかも思い出せない。
 でも……。
 池をしばらく二人で眺めていて、なんでもいいからと、口を開いた。

「何か……お祈りしてたんですか?」

 結局、直球で聞いてしまった。
 それくらいしか思いつかなかった。でも、このまま無言で立ち去られるよりマシだ。
 そっと男の人の方を見ると、彼はまた穏やかに目を細めた。

「……はい。別れた彼女が帰ってきますように、って」

 ……え。
 思いがけない重い話題に、一瞬声が出なくなる。
 失礼なことを聞いてしまった。何か切実な想いがありそうなことはわかっていたのに。
 胸の奥に隠しておきたかったであろうことを暴いてしまった気がして、申し訳なくなる。

「……ごめんなさい。あの……私」
「あ、ごめんね。困らせちゃった……気にしないで。なんか、僕もちょっと言いたくなっただけだから」

 彼も彼で、私のあまりの反応に慌てたように笑顔を作った。
 先ほどからふんわりとした表情をしているのに、どこかつらそうに見えるのは悲しい過去があるからだろうか。
 ふーっと息を吐くと、男の人は手すりに両腕をもたれかけた。

「もういい加減、立ち直らなきゃって思ってるんです。こんなことしてても意味ない、自分が変わらなきゃいけないってわかってるんだけどね……。つい、ここに来ちゃう」
「……ずっと、通ってるんですか?」
「うん。何年も」

 また軽率にひどいことを聞いてしまって、何も言えなくなってしまった。でも彼は特に気にする様子もなく、また池へ視線を戻す。
 何年願っても、願いは叶ってないんだ。
 こんなに一途に想っているのに。
 この池は、そう簡単に人の願いを叶えない。私の〝これ以上いじめられませんように〟という切実な願いも聞き入れてはくれなかった。ここにいるのは偽りの神さまなのだろうか。
 でも、偽りでもなんでもいいから、この人の願いこそ叶えてあげればいいのに、と思った。
 この人のことは何も知らないけれど、とてもつらそうなことはわかるから。私が植村くんに自分の事情を話した時と同じ、初対面の人に気持ち吐き出してしまいたくなるほど追い詰められているように見える。
 でも、この池の神さまがこの人の願いを選んであげなかった理由はわからない。