——朝は嫌いだ。
 今日もまた、一日が始まってしまうから。

 中学生の頃にいじめが始まって以来、私は生きていくためにできる限り感情を殺すようになった。それでも、毎日やってくる朝を何も感じずに通り過ぎることはできなかった。
 それは、本当は私が自分の心を隠しきれてないという証拠だ。
 私は、毎日のように自分に降り注いでくるつらさをなかったことにできていない。誰かに何かをされるたびに、たとえ唇は動かなくても、痛んだ心が必死に助けを求めている。
 そして我慢ができなくなったタイミングで、隠していた感情が外に漏れ出てしまうんだ。
 昨日、植村くんと話した時みたいに……。
 だから、唯一何も起こらない休日は私にとってオアシスだった。
 朝、お母さんの朝ご飯を作って仕事に行くのを見送ったあと、私はまた布団に潜り込む。
 土日くらいは無の世界に浸りたい。誰にも攻撃されない、誰にも脅かされない、私だけの世界。
 今週も、一週間に一度の幸せな休日がやってきた。
 ……そのはずだったんだけど。

「栞莉、今日はどこか行くの?」

 朝七時、お母さんが卓上ミラーの前で髪をきつくむすびながら聞いてきた。
 食パンをかじっていた私は思わず、え、と言って手を止める。
 老人ホームで働くお母さんは、土日はたいてい出勤日。でも出勤したあと私がずっと家で過ごしていることを知っているから、いつもはそんなこと聞いてこないのに。
 少し戸惑いながら、紛らわすように食パンにマーマレードを塗りたくった。

「別に、どこも行かないよ。家が落ち着くし、友達とはどうせ学校で会えるし……。夕方になったら晩ご飯の買い出しには行くけどね。今夜、ハンバーグでいい?」
「わ、ありがとう。お母さんハンバーグ大好きよぉ」

 髪をとかしたりするとこれから外出するのがバレそうだから、わざとボサボサのままでいたのに。やっぱりお母さんは私のこととなると勘がするどくて怖くなる。
 そわそわしながら食パンを牛乳で流し込んでいると、お母さんが横にやってきた。

「ね、これ見て!」

 子どもみたいな笑顔で背中から何かを取り出す。
 ジャン、という効果音とともにテーブルに置かれたのは、トリートメントのボトルだった。
 有名雑誌のモデルさんが宣伝している、少し値が張るトリートメント。高級路線を意識しているシンプルなボトルは、私たちの住む築十数年のオンボロアパートの景観にまったく似合わない。

「……え。どうしたの? これ」
「半額セールやってたからつい買っちゃった。栞莉、前にCM見ていいなーって言ってたでしょ?」

 言いながら、お母さんはわくわくと私の喜び待ちをしている。その気配を感じながら、私はボトルに印刷されたスタイリッシュな英語の飾り文字を見つめていた。
 ……うそだ。
 売り出したばかりの新製品なのに、そんなに安く売るわけない。お母さんは素直で無邪気な性格の分、うそをつくのが下手だ。
 また、無理して買ったんだ。
 お金なんてないのに。
 私のために。
 気持ちは、うれしい。……けど。
 少し、苦しい。

「……ありがとう。今夜、使うの楽しみだな」
「栞莉、最近本当に家事がんばってくれてるから。感謝だよぉ」

 お母さんが頭を胸に押しつけて、まだ絡まったままの髪を撫でてくる。照れ臭くて、パンの粉ついちゃうよ、と言ってその腕から逃れた。
 お母さんだけは、私をちゃんと見てくれる。
 世界でただ一人だけ。私を真正面から見てくれる、愛してくれる、私の大好きな人。
 中学の頃、池であの願いが叶えられてから、私は一日もお母さんと離れて過ごすことはなかった。
 寝坊してもかまわない土日だって、毎朝ちゃんと出勤前のお母さんと顔を合わせて記憶を途切れさせないようにした。幸いお金がないからお母さんは親しい友人と旅行に行くこともなかったし、私も修学旅行の類いは同じ理由で欠席した。
 だからお母さんは世界で唯一、私の昔からの記憶を持ち続ける人。
 でも。
 ……もしいつか、お母さんの中から私の記憶のすべてが消えてしまったら……。
 そこだけが、私が池で願いを叶えて、後悔している部分。

「行ってくるね」
「うん。無理しないでね」

 どんなに疲れていても、私の前では笑っていてくれるお母さん。
 神さまにあんなお願いをしておいて、お母さんにだけは忘れられたくないと思っている私はずるいだろうか。