さて、この世の事をもう少し詳しく話そう。
基本的に、天国には仏様とその眷属…天童などが、地獄には閻魔様とその眷属…鬼などが住む。
しかしながら、どちらの眷属でもない者…魑魅魍魎共は、三途の川の岸辺に住む。
彼岸も、閻魔様の元で働いては居るが、眷属では無いので同じことだ。
そして面白い事に、殆どの娯楽場はこの三途の岸辺にあった。
賭け事の場や娯楽書物庫…勿論色事も全て三途の岸辺。
その為、夜の三途川には娯楽を求めた仏や魍魎…果ては鬼までもが集まる。
昼間は屋形船が通るのみの三途川は、夜になると提灯や灯籠の光で美しく幻想的に彩られる。
しかし、この世の煩悩を集めた街でもある為、ある意味健全な天童や小鬼は来られない。
勿論風紀管理の徹底した閻魔様など以ての外。
そんな街で、彼岸は副業をして居た。
それは、彼の生き甲斐でもある仕事だった。
まぁ同時に、閻魔様に知られれば首が飛びそうな仕事ではあるが、多少のリスクを負ってでも、彼岸はこの仕事を続けていた。
何故なら…それは彼が一番知りたいモノを教えてくれる仕事だったからだ。
閻魔様の城を後にした彼岸は、急いでいた。
もう夜遅いが、彼の副業は夜遅くから始まる。
地獄の道路には、朧車…無人の人力車とでも言おうか、それが列を成して通っていた。
彼岸はそのうちの一台に飛び乗る。
『おヤァ旦那、どちらまデ行かれますかイ?』
そう言った朧車に、彼岸は素早く云った。
「三途川の遊郭まで」

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彼岸は座っていた。
何もせず、ただ座って居た。
それでも、多くの仏や魍魎や鬼が彼に話しかけ、物を与え、褒め称えた。
美しい、綺麗だ、これ以上の者が有ろうか。
そんな事を言ってくる彼等に、しかし彼岸は身動ぎもせず、ただ時々頷くのみ。
それが店の旦那に言われた、彼の仕事だった。
「いいですか、絶対に喋らない、それから褥(しとね)に誘われても絶対に行かないで下さい。出来れば動いて欲しくもないのですが…ああ、男とバレたらどうなるか…ましてや彼岸様とバレたら……私の命が吹き飛びます」
百目鬼と呼ばれる旦那は、百の目全てをギュッと閉じて身震いしながら言った。
よっぽどバレるのが厭らしい。
まぁ…故にコレが彼岸の仕事だった。
…店の看板…遊郭の遊女。
何故か。答えは、彼岸の野望を叶えるものが遊郭にあったからである。
何故わざわざ遊女なのか。それは、三途川の遊郭には影間…即ち男娼と言う概念が無かったからである。
しかし彼岸が、どうしてもこの職に就きたいと百目鬼の旦那に云った為、昼は[彼岸様]、夜は[遊女の悲哀](悲哀は遊郭での名前)…として活動しているのである。
さて、今日も今日とて、彼岸…いや、悲哀は大きな座敷の中心に座って居た。
目の前には悲哀を一目見ようと、多くの客が集まっていた。
客は各々の手に土産物を持って悲哀の元に行っていた。そしてそれを悲哀に渡し、少しでも気を引こうとしていた。
座敷に向かって金子を投げる客までいる。
無理矢理入ろうとしている客を、悲哀付きの禿が必死に押さえていた。
客が花魁でもない遊女にここまでするのには理由があった。
まず容姿。此れが驚く程美しいのだ。
シャクナゲと藤の花飾りを頭に付け、毛先にかけて紅く染まった長く艶のある黒髪を、通常の遊女とは違い、結い上げる事なく流している悲哀は驚く程儚げで美しかった。
元々白い肌に白粉をはたく必要はなく、目の端と唇に紅をさしているのみ。なのに美しかった。銀色の目は、悲哀の黒髪によく映えた。
勿論、魍魎共とて美しさの基準はある。しかし全種族が美しいと感じる美しさなどこれまで無かった。
しかし悲哀はどうだろう。客の中には天狗や人魚、果ては傘お化けまでいる。
…実に不思議な事だ。特に傘お化けなど、顔の構造どころか身体の構造まで違うだろうに。
しかしそれでも欲しいと思ってしまう程にはのめり込んでいるのだろう。
次に悲哀の金額だ。
以前、悲哀を見受けしたいと云った鬼が居た。それは、地獄の上級鬼だった。
そんな事されたら悲哀が男だとバレてしまう上、閻魔様にバレて首が飛ぶ。焦った百目鬼は、悲哀の値段を[大判五千]と云った。
大判を五千枚…家が一個どころか、三個も四個も建つような巨額だ。
年収でかなりの高収入とされている上級鬼でも見受けを諦めたのだ、一般の魑魅魍魎など手の出しようがない。
それでも矢張り引かれるのか、その鬼は未だに客として訪れている。
まぁ…高嶺の花なのだ、悲哀は。
誰も手が出せない分、どんどん美化されて憧れられる。
お陰で悲哀は、花魁にならないのを皆が不思議がるぐらいには価値がつり上げられていた。

さて、客の「悲哀!」と呼ぶ声が飛び交う中、当の悲哀には或る言葉が浮かんでいた。
『やばい、足が痛い』
これである。
他人の声も聞かず自分の事とは何とも失礼な話だが、悲哀はかれこれ半刻も正座しているのだ。身動ぎもしていない為、足が痛くなるのは必然。
悲哀はすくっと立ち上がった。
座敷の向こう側にいる客が、「ワー!」と歓声を上げる。
しかし、悲哀は客の方に近付くのではなかった。
単に休憩しようとしたのだ。
奥の座敷に引っ込んでしまった悲哀に、客が「ああ〜…」と悲しげな声をあげる。
一方、悲哀…否、彼岸はホッと息を吐いた。
普段表情が無いだの感情が無いだの言われる彼岸だが、無表情なだけで喜怒哀楽はある。
故に普通に疲れたりもするのだ、表情が薄すぎて誤解されがちではあるが。
彼岸は遊女の衣装を着崩した。胸の辺りに詰め物をしていたのもあってか、非常に暑かったのだ。
前をくつろげて詰め物を取った彼岸は、完全に油断していたのか、頭の髪飾りを取り、後頭部に手を当てた。すると長い髪が蛇の様にのたうち、シュルシュルと音をたてて元の長さに戻っていった。
続いて喉元に手を当てると、こちらも骨がコキリとなって喉仏が浮き出てくる。
「フー…」
完全に男に戻った彼岸は、座敷にゴロンと横になった。
少し休憩して、もう一度戻ろうと思ったからだ。
しかしその時だった。
天井からドンッという音がしたのだ。
「…!?」
彼岸はビクリとし、慌てて身を起こした。
その瞬間…
彼岸の真上の天井板がドォンと落ちた。
彼岸は速攻で飛び退いたが、悲哀の姿になるにしてはいかんせん時間がなかった。
「いだだだ…」
天井から落ちてきたのは顔の綺麗な遊女だった。真っ白な髪なので雪女だろうか。
だが、彼岸には冷静に分析する暇さえ無かった。
彼が男だと知っている者は、遊郭には百目鬼の旦那しかいない。
つまり…
「あ、すみません!ここ専用の休憩室でしたか、直ぐに行きま…」
『行きます』と言いかけた白い遊女は冷や汗をかいている彼岸を見て固まった。
数十秒固まる遊女。
そして目を見開き…
「ッッ!?」
叫ぼうとして焦った彼岸に手で口を塞がれた。
遊女の口を塞ぎながら、彼岸は絶望していた。

ただ、終わった、と言う四文字が頭を渦巻いていた。