階段の先には美しい庭が広がっており、噴水と噴水を囲むように薔薇の花が植えられていた。

 噴水の縁にゆっくりと腰を降ろすとようやく、一息つくことが出来た。好奇の視線と嘲笑から逃れて一先ずほっとする。

 頃合いを見て帰りましょう。

 あまり早く帰ると父が煩い。
 だけれどここに留まるよりは家の方がマシだ。

「帰ったら仕事も片付けないと」

 ハーディスはノバンと結婚後は二人で領地に戻って領地の管理しなければならない。女ではあるが領地の財政管理を学び、家門の助けになるように手伝いをしている。今では父親よりも仕事をしているくらいだ。

 今はハーディスが王都と領地を行き来しながら領地の運営を行っているため、ハーディスはとても忙しい身なのだ。

 自分が領地の管理を主だってしている限り、無理矢理邸を追い出されることはないとは思うが、最近ではそれも分からなくなってきた。

 ノバンが父に婚約者を取り替えるよう要求していると耳にしたからだ。ノバンがアマーリアと結婚すれば、アマーリアを余所に嫁がせる必要がなくなり、一緒に住むことができるという提案に父がぐらついているからだ。

 そうなれば出て行かなければならないのはハーディスの方になる。

 この際だから腹いせにドレスも十着ぐらい新調しようかしら。

 それもきっと叶わない。ハーディスの買い物にはやけに意見する父のことだ。購入しても売られるかアマーリアのクローゼットに入るのが関の山だ。

「はぁ」

 大きな溜め息が零れる。

 微かに香る白ワインの匂いと濡れたドレスが自分の惨めさと孤独さをより一層強調している気がした。

 水面に映る自分の顔をまじまじと見つめる。

 おかしいですわね……。

 顔はそれなりに美しく産んでもらったと思っているのですけれど。

 肌は部屋の中で仕事ばかりしているせいで白く、顔も女神の生まれ変わりだった母譲りの美貌を持っている。プラチナブロンドの長い髪は自慢だし、瞳の色はエメラルドグリーンの宝石のよう。

 正直、アマーリアよりも美人ですけど。

 それでも男性から声が掛からないということは私は自己愛が強すぎるということですね。

『この家を頼むわね、ハーディス』

 亡くなった母の言葉が胸に落ちてくる。
 
 幼い頃に亡くなった母は家のことをとても気にしていた。
 空の上にいるであろう母が安心できるようにハーディスは尽くしているつもりだが、母の言葉で自分はいつまで頑張れるだろうか。

 ハーディスは何度目か分からない溜め息をつく。
 ぼんやりと波打つ水面を見つめていると突如水面が大きく揺れた。

「きゃあっ」

 水面が大きく揺れ、水が泡立ち、周りを濡らした。
 水面から何かが現れた。

 噴水の水の中から現れた何かが動き、ハーディスは反射的に立ち上がる。

「これは失礼。人がいたとは思わず」

 若い男性の声がする。

 バシャ―っと水を足で掻いて噴水から脱出して、ハーディスに向かい合う。
 頭から爪先まで当然のことながらずぶ濡れである。

「きゃあっ、う……腕! 腕が大変なことになってますわ!」

 ハーディスは突如現れた男性の腕が奇妙な形に曲がっているのを見て悲鳴を上げた。

 関節が絶対に曲がらない方向に曲がっている。

「あぁ、親切に教えてくれてありがとう」

 そう言って柔らかく微笑む。

「えっと、反対方向に……あれ、おかしいな」

 ぼき、ごりっと骨が砕けたり擦れるような音がしてハーディスは震えた。曲っていた腕に更に屈曲し、大変なことになっている。

「もう止めて下さいっ!」

 ハーディスは彼の腕に手を翳す。

 淡い光が宙に漂い、男の腕を取り囲むと一瞬、目が眩むほど強く発光する。
 光が消失する頃には異様に曲った腕は元の状態に戻っていた。

 手を閉じたり開いたり、腕をぐるぐると回して男性は腕の調子を確かめて驚きの表情を浮かべて言った。

「まさかこれ程の聖力をお持ちとは……」

 男は目を丸くしてハーディスを凝視する。

「存じ上げず申し訳ありません、お名前をお聞かせ頂けませんでしょうか?」

 恭しく礼をする男性に月の灯りが差し込んだ。

 淡い月の光でもわかる端整な顔立ち、長身で手足はすらりと長く、眩い金色の髪と最も特徴的なのは燃えるような赤い瞳だ。

 ガーネットの宝石のような瞳がハーディスをじっと見つめている。

 思わず見とれてしまう美しい男性だ。

「……名乗る程のものではございません」

 ハーディスは我に返り、視線を逸らした。

 関わると面倒なことになりそうですしね。

 自分は婚約者がいながら妹と人目を憚らずダンスでもデートでもするくせにハーディスが他の男性といるのは気に入らないノバンだ。

 アマーリアも一緒になってハーディスを責めるのは目に視えている。

「どうか今のことはお忘れ下さい」

 ハーディスは一礼してドレスを翻す。

 こんな染みだらけのドレスでなければ堂々と胸を張ってだ談笑の一つでも出来たかもしれないですけれど。

 ハーディスは本日何度目かの溜め息をつく。

「待ってください、ご令嬢」

 そう言って男性はハーディスを声で引き留めた。

 立ち止まり振り向くと男性はハーディスに向かって手を出す。

 何でしょう?

 不思議に思っていると手の平に光が集まり、炎を閉じ込めたようなオレンジ色の石が生まれた。

 その石をハーディスの手に握らせる。

「僕だと思って持っていて下さい」

 赤とオレンジの混ざったような色味の石はキラキラと輝く宝石同然で温かい。

「僕も急ぐもので、今夜はこれで失礼します」

 そう言ってハーディスの手の甲に口付けを落とす。

「また会いましょう」

 その言葉を残して男性は建物の中に姿を消した。

 一瞬、女性の黄色い歓声で邸が湧いた。

 あれ程の美丈夫であれば当然ですわね。

 口付けられた手の甲に触れられた唇の感触が残っている。
 ハーディスは少しだけ大きい鼓動を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。

 手の中にある石からは温もりを感じ、見ているだけで心が解れた。

 こんな所、アマーリアに見られなくて良かったわ。

 後で何を言われるか分からない。
 ハーディスは炎色の石を大切に握りしめ、一夜の思い出とすることにした。