「じゃあ、ゆっくりして行って」

 冷たい一言だけ残してノバン・ヘンビスタはハーディスに背を向ける。

 ヘンビスタ侯爵家主催のパーティーに招待されたハーディス・ファンコットはいつも通りの婚約者対応に溜め息をついた。

 婚約者をパーティーに連れて来て、それで役割を果たした気になっているのね。

 そして自分の妹の元へと向かう自分の婚約者の背中を茫然と眺めてハーディスは大きな溜め息をつく。

 柔らかい茶色の髪を結いあげ、ピンク色のドレスを身に纏い、周囲からもてはやされているのは妹のアマーリアだ。天使の生まれ変わりの彼女は黙って座っているだけで人々を魅了する。

 今もアマーリアを囲み、人だかりができていた。その群衆を掻き分けて妹の元へと急ぐ自分の婚約者には悲しみや怒りを通り越して呆れしかない。

 ファンコット伯爵家の長女であるハーディスは侯爵家の次男であるノバンと婚約している。

 家同士の婚約なので当人達の意志は関係ない。

 ノバンはハーディスよりも天使の生まれ変わりである妹のアマーリアに好意を持っているのはすぐに分かった。

 神々と天使の住まう天界と密接に関係しているこの世界では神や天使の生まれ変わりが誕生する。

 天界で命を終えた彼らが気紛れでこの世界に生を受けて、この世界で命を終え、再び天界に戻るそうだ。

 天使と神の生まれ変わりは強い聖力を持って生まれる。天使の生まれ変わりは家門を繁栄させ、神の生まれ変わりは家門に繁栄と権力をもたらすと言われており、もし生まれれば一族では特別扱いされる。

 また婚姻を結ぶ際にも重要視されることだ。

 ファンコット伯爵家は女児しか生まれず、家門を絶やさないためにノバンを婿入りさせる婚約だ。

 アマーリアはまだ婚約しておらず、求婚も多いが決めかねているようだ。しかも父はアマーリアには甘く、彼女の望む相手と結婚させてもいいと考えている。

 そんな風に考えていると冷たい液体が浴びせ掛けられる。
 薄いグリーンのドレスが冷たくなり、頬も濡れている。

「お姉様、ごめんなさいっ。私、手が滑ってしまって」

 空っぽになったグラスを手にしてアマーリアは言う。

「ワザとじゃないんだ。許してやってくれ」

 そう言うのはノバンだ。
 本来であればノバンが庇うのはハーディスでなければならないが、彼はしきりにアマーリアを庇う。

 私のフォローなんてしたことないものね。

「ごめんなさい、お姉さま。ドレスが濡れてしまったわ」
「大丈夫だよ。濡れただけだし、白ワインじゃないか」

 それは貴方が言うことじゃないですけどね。

 自分のしたことに項垂れて見せるアマーリアの肩に優しく手を乗せてノバンは彼女を励ます。

 そうして彼女はノバンが自分の味方なのだとハーディスと周囲に知らしめる。いつものことだ。

 この人はここが自分の邸だと知っているのかしら。

 婚約者ではなく、懸想する婚約者の妹を庇う光景を見て、周囲が何を思うか考えないのだろうか。

 正直、そんなお馬鹿さんと婚約なんて嫌なのですけど。

「お姉様? 怒ってらっしゃるの? ごめんなさい! 本当にワザとじゃないのよ」
「怒ってないわ」

 呆れていますの。

 ここで怒り狂えばアマーリアはハーディスを悪女に仕立て上げるだろう。もう既に経験しているため、無駄なことはしない。

 ここで怒鳴れば今度はノバンが婚約解消を突き付けてくるに違いない。ここ数年の彼は自分との婚約を解消してアマーリアと婚約したがっているのが透けて視えるようだった。

 涙目になって大袈裟に心にもない謝罪をする妹と自分の婚約者に呆れ声しか出ない。

 このやり取りをしている今もハーディス達は好奇の視線に晒されているのだ。

『こんな公衆の面前でノバン様は何を考えていらっしゃるのかしら』
『クスクス、伯爵令嬢もお気の毒ですわね』
『相手が天使では仕方ありませんわ』

 どこからともなく聞こえてくる話し声に心が重くなる。

『せっかくのドレスが台無しですわ』
『ドレスがダメでもダンスに誘う殿方もいらっしゃらないから関係ないのではないかしら』
『愛想笑いの一つも出来ない女では殿方も寄り付きませんものね』

 囁かれる声に頭が重くなる。

 いつもの事ですが、疲れてしまいますわね。

 まだここに着いて僅か五分。
 この疲労感とは。

「少し早いですが私はこれで失礼致します」

 そう言って出来るだけ綺麗にお辞儀をする。
 此処にいても痛い視線に晒されるだけだ。

 ダンスにもほとんど誘われない。ハーディスを誘うのであればアマーリアを誘いたいという男達ばかりだ。

 男性の視線はほぼ全てアマーリアに注がれているので女性達はいつも口惜しい思いをしているが、ハーディスほど惨めな思いはしていないはず。

「そんな……一度も踊らずに帰るだなんて、失礼よ」

 誰のせいだと思っているのかしら?

 ハーディスを窘めるような言い方をするアマーリアはノバンの腕に自分の腕を絡める。

 自分は踊る相手には困らないと言いたいのね。

 アマーリアの後ろにはダンスに申し込む順番で揉めている男達がいる。
 ノバンはすでにハーディスのことは眼中になく、アマーリアだけを見つめている。

「たまにはお姉さまのダンスが見たいわ。上手なのだから、踊れば良いのに」

 踊る相手もいないのでしょう、っと心の声が聞こえてくる。

 本当に何でここまで意地悪されなくてはならないのかしら?

 自分から妹に意地悪をしたり、怒ったりしたことはない。
 みんなから好かれて、何でも手に入れることができる特別な妹に嫉妬するのはいつも自分だ。

 家でもほとんどの者がアマーリアの味方でハーディスは長女でありながら父と食事も共に出来ない。アマーリアが嫌がったことで食事は別々に取っている。ドレスやアクセサリーもハーディスが着ているのは亡くなった母のお古だ。山のようにドレスや宝石を買い与えられている妹とは違い、ハーディスはほとんど買ってもらっていない。

 妹を高位の貴族に嫁がせようと父は必死で妹の装いに金を使い込んでいる。

 家での味方は古株のメイド長一人と三匹の犬だけ。メイド長の彼女も今年いっぱいで退職が決まっている。

 彼女が居なくなってしまうと自分はあの家に今以上に居づらくなるだろう。
 それに三匹の犬の餌ももらえなくなるかもしれない。

 まぁ、無理には餌の必要のない子達だけれども。

 侘しい思いをさせてしまうかもしれないと思うとハーディスは溜息が止まらない。

「あら、音楽が始まったわ」
「踊ろう、アマーリア」

 そう言ってアマーリアの手を取るノバンにそこにある白ワインを瓶ごと投げつけたい衝動に駆られるが、ぐっと抑える。

 次々とペアが決まり、手を取り、腰を抱いて踊り出す。
 一人取り残されたハーディスを気の毒そうに思う視線が刺さる。

 ここにいては邪魔ですわね。

 ハーディスは手袋をはめた手の甲で頬の水気を拭う。
 ドレスは白いワインと言ってもしっかりと染みになっている。

 染み抜きできるかしら?

 夜会にも着て行けるドレスはこれだけだった。
 唯一の一枚を台無しにされたショックは大きい。

 楽しそうな声と賑やかな音楽に背を向け、歩き出す。

 ここにいても仕方がないですね。

 ハーディスはホールを出て廊下に出ると階段を下りる。