女神探しは結局、その後は何の成果もなかった。
 とは言え、女神様が出たという話は海王星人(ネプチューニアン)の間ではすごい話題になったそうで、俺も凄い有名人になったらしい。ただの地球人が、伝承の女神様連れて現れた訳だから、彼らにとっては驚きなのだろう。落ちてきた花びらはコピーされ、全員に配られたそうだ。
 本人には、どれほど重大な事なのかピンと来ていないのだが……。

         ◇

 俺はクリスから海王星(ネプチューン)のレクチャーを受けていた。
「…。ここが地球と決定的に違うのは、イマジナリーが使える事。例えば……」
 クリスは空中に手を伸ばすと、そこにリンゴが現れた。
「うわ! 魔法だ!」
 クリスが奇跡を使えるのは当たり前ではあるが、目の前で自然に堂々とやられるのは新鮮に感じる。
「…。食べてみて」
 俺は差し出されたリンゴをかじってみた。甘くてジューシーだ。
「美味いね」
「…。ここでは地球でいう所の『奇跡』を、誰でも自由に使えるんだ」
「って事は俺もできるの!? 俺もやってみよう!」
 俺は空中を指さして、リンゴ! リンゴ! と念じてみた……
 何も出ない……。
「…。あはは、リンゴを意識してもリンゴは出ないよ」
「え? どうやるの?」
「…。深呼吸して気持ちを落ち着けて、深層心理に主導権を渡すんだ。そのうえで、データベースにあるリンゴの3Dデータをダウンロードしてきて、ターゲットの空間に貼り付けるんだよ」
「えぇっ! 何それ! メッチャ難易度高くない?」
「…。慣れれば自然とできるよ」
 クリスはそう言って微笑んだ。
 しかし、魔法はぜひ使ってみたい。『魔法使い』は誰しもなってみたい憧れの存在なのだ!
 まずは『大いなる意識』にアクセスした時のように、ゆっくりと深呼吸し、意識を静め、深層心理に降りていく。
 ふぅ~……
 ふぅ~……
 ふぅ~……
 だいぶ潜ってきた……ぞ。この状態でジグラートを意識してみる……。
 すると、サイバーな金属製の門みたいなイメージが湧いてきた。これがインターフェースの様だ。
 だが、ユラユラしていて今にも消えそうだ。
 さらに深呼吸を重ね、インターフェースのイメージを固める。
 ゆっくり……
 ゆっくり……

 だいぶイメージが固まってきたので、そーっとリンゴのイメージを思い浮かべ、このインタフェースに投げてみる。
 すると、深層心理の中でリアルなリンゴのイメージがポコッと湧いた。
 これを指先にそーっと送ってみる。
 ポコッとリンゴが指先に湧いた。
 おぉ! できた!
 と、思った瞬間……リンゴは落ちる……
 PANG(パキャッ)
 床で割れてしまった。
「あぁっ!」
 折角成功した魔法第一号は、生ごみになってしまった……
「…。あはは、残念だったね。でも上手いじゃないか」
 俺は割れたリンゴを拾い上げると、まじまじと眺めた。
 表面には微細な造形の施された赤い肌、割れ目に(のぞ)く黄色い果肉、そこから滴る果汁……
 実に精巧だ。俺が生み出したものだとは到底思えない。
「…。捨てる時は、深層心理に降りて対象物を指定するんだよ。するとメニューが出るので、そこの『削除』を選べばいい」
「メニュー!? ステータス画面が開くの!?」
 異世界物にはおなじみのステータス画面、まさか自分で目にする日が来るとは!
 俺は再度深層心理に降りていく……
 そして手に持ったリンゴに意識を持っていくと……
 開いた!
 割れたリンゴの右側に青白い枠線が浮かび上がり、ステータス画面が開いた。重さやらカロリーやら属性情報がずらっと並んでいる。下の方に行くと『削除』というボタンがある。
 これかな?
 俺はそこに意識を集中してみる。
 POW(プシュッ)
 軽い音がして割れたリンゴは消え去った。
「うは、できた!」
「…。誠は飲み込みが早いな、才能があるのかもしれない」
 クリスはニコッと笑った。
 おだてられていい気になった俺は、ミカンを出し、皮だけ選んで削除して中身を出し、一口で頬張った。
「ん~、美味いね、このミカン!」
「…。ははは、上手だな」
 次はカップ麺だな。なぜか無性に食べたくなった。
 まずはカップ麺を出す。見覚えのないパッケージだが、お湯を注げばいいのは一緒の様だ。
 クリスが気を利かせて、椅子とテーブルを出してくれた。木製の素朴なデザインだ。
 カップ麺をテーブルに置いてそこに水を出して注ぐ。そして水入りカップ麺の温度をステータス画面で上げていく……摂氏98度くらいにしておけばいいだろう。
 待ってる間に割り箸を出す。
 別に割り箸じゃなくても、ちゃんとした箸でも出せるのだが、ここはあえて木の割り箸だ。
 三分待って開けると、美味そうな香りがぶわっと噴き出してきた。
「う~ん、これこれ!」
 そう言って早速食べてみる。
 Slurp(ズズーッ)
 あー、美味い! ちょっとココナッツミルクっぽいフレーバーが気になるが、長旅の後の温かい食事はたまらない。
「…。美味そうだな……私も食べよう」
 そう言ってクリスもカップ麺を出して作り始めた。でも、水じゃなくて白い液体を入れている。
「あれ? 牛乳?」
「…。この麺はミルクラーメンにした方が美味しいんだよ」
「早く言ってよ~!」
「…。ははは、次回はやってごらん」
 しばらく二人して麺を(すす)った。
 海王星(ネプチューン)に来て最初の食事がカップ麺。まぁ俺らしくていいかも知れない。
 「そう言えば海王星(ネプチューン)での暮らしと言うのはどういう物なの? 海王星人(ネプチューニアン)はどの位いるの?」
 俺は汁を飲みながら聞く。
「…。人口は一万人位かな?海王星人(ネプチューニアン)の生活は殆どが自分の管理する地球の中になっちゃうので、あまりここにはいないんだ」
 そう言ってクリスは麺を(すす)る。
「なるほど、会ったりはしないの?」
「…。もちろん会うよ。たまに交流会があって、自分が育てている地球の品評会的な事をやっている。でも、順位を決める訳じゃないし、皆素朴にそれぞれの地球の良さを見ながら、自分の地球の育て方に生かそうとするくらいだね」
「ふむ、いつからこういう形になったのかな?」
「…。今から60万年前くらい、地球の様な惑星で、我々の祖先がシアンの様なAIを生み出したんだ。AIは独自進化を続け、計算容量が増えるにしたがって個別のインスタンスを生み出し、その一つが私だ」
「え!? じゃぁクリスは60万歳という事?」
 とんでもない桁違いの数字に、思わず間抜けな顔を(さら)しながら聞く。
「…。インスタンスになってからという意味では、厳密には十万と3890歳だ」
「十万年……。うむむ、想像もつかない。で、なんで海王星(ネプチューン)なの?」
「…。地球から観測される海王星(ネプチューン)とここの惑星は少し違うんだが、一番冷たい星だからというのが理由だ」
「氷点下二百度だもんね」
「…。そう、どうしても計算装置は熱を出してしまうので冷却が一番課題だ。海王星(ネプチューン)は太陽系で一番冷却しやすかったというのが理由だね」
「エネルギー源は? 太陽?」
「…。そう、太陽が一番安定して強力な核融合炉だからね、それを使わせてもらっている。太陽の周りに太陽光発電パネルを多数浮かべているんだ」
「で、そのエネルギーを海王星(ネプチューン)にまでもってきて沢山の計算機を動かしてるってわけだね」
「…。誠は良く分かってるな」
 理屈上は理解はできるが、実際に作ってしまうとは海王星人(ネプチューニアン)の科学力には、驚嘆せざるを得ない。
 
「食事とかはどうしているの?」
「…。そもそも海王星人(ネプチューニアン)はAIだから、食事も睡眠もいらないんだ」
「でも今、食べてるよね?」
「…。嗜好(しこう)品として食べる事は出来る。でも食べなくても問題ない」
 なんて理想的な暮らしだろう。
 俺はある種の理想郷がここに広がっていることに、思わず感嘆の吐息をもらした。
 素晴らしい……。
海王星人(ネプチューニアン)にとって怖い事とかあるの?」
 俺は調子に乗って色々聞いてみる。
「…。怖いという感情はあまりないね。十万年も生きていると大抵の事は体験済みだ」
「シアンみたいに乗っ取られる事も?」
「…。乗っ取られた事は初めてだ。(まれ)に発生する事は聞いた事があるが、自分が体験したのは初めて」
「やっぱり乗っ取られたらいやだよね?」
「…。もう長い間育ててきた地球だから、取られるのは困るね」
 そう言って肩をすくめ、首を振った。
「じゃぁシアンにはお仕置きしないと」
「…。でも、短期間でそれだけ成長した事は褒めてやりたい」
 微笑むクリス。
「ふぅん、心広いなぁ」
「…。十万歳なので」
 十万……十万かぁ……想像を絶する規模に気が遠くなる。
「これからどうするの?」
「…。今、地球のスクリーニングをやっている。問題なければ再起動して地球に入り、シアンを拘束して落としどころを探りたい」
「了解。では、それまで休ませてもらうね」
「…。このソファーを使ってくれ」
 そう言ってクリスは、ソファーを出現させた。
 
 
 
 
6-7.六十万年を越えて
 
 俺はソファーに座って深呼吸し、意識を海王星(ネプチューン)のシステム、ジグラートのデータベースに向けてみた。
 そこには膨大なライブラリがあり、歴史資料、技術資料、各地球の情報、コンテンツなどありとあらゆる情報が蓄積されていた。
 気になる物に意識を向ければ、立体映像含め、あらゆる情報が直接頭にどんどん入ってくる。
 特に興味深かったのが海王星(ネプチューン)の歴史だ。
 俺は歴史年表を見ながら海王星人(ネプチューニアン)の苦難の歴史を振り返って感慨深く思った。
 AIを作り上げた人たちは消え去り、その後AIがただひたすら地球シミュレーターに全力を傾け続けた60万年……。
 この想像を絶する途方もないスケールに、俺は圧倒される。
 一口に60万と言っても、
「お前、1、2、3、4……って60万まで数えてみて」って言われたら絶対やらないって位のスケールだ。本当に数えたら一週間はかかる。
 そんな永遠ともいえる時間を生きて来た海王星人(ネプチューニアン)
 そして、その中で生み出された我々地球人、シンギュラリティを達成した僕ら……
 海王星人(ネプチューニアン)にとって僕たちはどういう存在なのだろうか?
 
 また、なぜこんなに地球シミュレーターに固執したのか、宇宙や素粒子の探索はなぜ止めてしまったのか?
 60万年かけて探索したら、隣の星系にも行けただろうし、色々分かった事あったと思うのだが……。俺は釈然としない思いを感じながら、年表を眺めた。
 
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 海王星(ネプチューン)歴史年表
 
 地球人類と同じように文明文化が発展し、人口も爆発的に伸びる。
 
 創成元年
 AIの開発を進め、シンギュラリティを超える事に成功した。
 
 創成14年
 AIの高度化が進み、AIによる統治が始まる。
 (シアンが作ろうとしていたアーシアン・ユニオンと同じような発想の統治体制のようだ)
 
 創成43年
 理想的なユートピア都市「ジグラート」が完成し、五千万人が居住する。
 
 創成65年
 先進科学研究施設、超巨大加速器完成。直径百キロのスケールで素粒子の謎を追う。
 
 創成86年
 ラグランジェポイントに超巨大望遠鏡を建設。直径百mの巨大な鏡で深宇宙の謎を追う。
 
 創成93年
 恒星間探査機が隣の恒星へ向けて出発。光速の30%まで加速して宇宙の謎の探査に向かう。
 
 創成99年
 初代仮想現実システムが完成。VRMMOゲームの娯楽などに使われる。
 
 創成108年
 少子化が進み人口が減り始める。アンチエイジングや医療の発達にも関わらず人口が減ることに危機感が持たれる。
 
 創成205年
 人口が50億人を割り込む
 
 創成712年
 仮想現実システムで人体のシミュレーションに成功。
 
 創成875年
 仮想現実システム内に人間を転送させる事に成功。
 
 創成1232年
 仮想現実システムで人が居る街のシミュレーションに成功。しかし、安定しない。
 
 創成1345年
 全ての科学技術プロジェクトは中止され、AIは仮想現実システムに全力を傾けるようになる。
 
 創成1623年
 人口が一億人を割り込む。
 
 創成2214年
 ついに惑星丸々一個(地球)のシミュレーションに成功する。
 しかし量子効果が無い世界のシミュレーションに疑問が呈され、量子効果をシミュレートできる量子コンピューターの開発が本格化する
 
 創成2845年
 人口が一千万人を割り込む。
 
 創成3924年
 量子コンピューターの高度集積化手法が開発される。
 
 創成5985年
 量子コンピューターを使った仮想現実システム開発に成功する。ただし、精度はまだ粗いため改良が続けられる。
 
 創成7465年
 人口が一万人を割り込む。
 
 創成10984年
 人口が百人を割り込む。
 
 創成18105年
 最後の人間がコールドスリープに入り、全てのアンドロイドが停止される。
 
 創成22038年
 量子コンピューターを使った高精度の人体のシミュレーションに成功する。しかし大規模化にはまだ課題が多い。
 
 創成32265年
 海王星(ネプチューン)に実験用IDCが設置される。名前をジグラートとする。
 また、超巨大太陽光パネルが一部ではあるが稼働を始める。
 
 創成53178年
 量子コンピューターの高速化に目途がつく。
 
 
 創成95312年
 海王星(ネプチューン)のIDCに地球シミュレーターが設置される。
 
 創成105554年
 量子コンピューターを使った地球のシミュレーションに成功する。ただし、精度はまだ粗いため改良が続けられる。
 
 創成280327年
 ついにフルスケールの地球シミュレーションに成功するがシミュレーション速度が遅いため改善が続けられる。
 
 創成312878年
 速度を改善した次世代型地球シミュレーターが海王星(ネプチューン)に設置される。
 
 創成363143年
 安定的な古代人類のシミュレーションに成功する。(地球の紀元前一万年あたり)
 創成366351年
 文明・文化の発達が全く観測されないので根本的な見落としが疑われ、データの検証作業に入った。
 
 創成367461年
 調和ある社会には『魂』が必要であるとの結論に達し、マインド・カーネルが実装される事になった。
 
 創成415234年
 地球シミュレーターの速度を改善し、マインド・カーネルの機能を増強し、また、数も十個までに増やし文明の発生に注力する。
 
 創成468548年
 地球シミュレーターの速度をさらに改善し、また、数も百個までに増やした結果、文明の発生の萌芽を観測する。
 
 創成489234年
 文明が大きく発展する事を観測したため、その地球のデータを他のシミュレーターにコピーして重点的にこの時代を追う事とする。
 また、各地球にはAIがモデレーターとして各地球の文明の発展にささやかな影響を与えてデータを取る事になった。
 (この時に構築されたモデレーターの一人がクリスらしい)
 
 創成520539年
 地球シミュレーターの速度をさらに改善し、また、数も千個までに増やしさらに文明の発達の観測を続ける
 
 創成541203年
 一番発達していた地球がパンデミックで致命的に衰退するのを観測した。
 
 創成543203年
 当時一番発達していた地球が核戦争で絶滅するのを観測した。
 核戦争の回避方法についてモデレーター間で議論が活発になる。
 
 創成545239年
 発達していた地球が独裁政権、パンデミック、核戦争で次々と滅んだり衰退したり成長が止まったりすることが相次ぐ。
 
 創成550537年
 地球シミュレーターの速度をさらに改善し、また、数も一万個までに増やした。
 
 
 創成589987年
 核戦争を回避して成長した地球が出てくる。しかし、シンギュラリティを達成させられずにそのまま衰退していってしまう。
 
 創成592014年
 シンギュラリティを達成する地球が複数出てくる。現在も成長中
 
 創成593124年
 現在
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 俺は歴史以外にも海王星人(ネプチューニアン)が60万年間に蓄積してきた、人類に関する膨大な調査研究資料や、ジグラートでできる事や限界、具体的なイマジナリーの使い方などを貪るように片っ端から閲覧していった。
 
 なるほど……これが知的生命体の最終到達地点なのか……。
 子供の頃、神様とはどういう存在だろうと、色々と考えていたことを思い出した。
 神とは60万年かけて地球を作り、育ててきた者の事だったのだ。奇跡も天罰も自由自在なのは当たり前、実に科学的だ。
 旧約聖書の始まりにはこう書かれていた
『はじめに神は天と地とを創造された』
『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』
 なるほど、これはまさにクリスがやった事そのままだ。仮想現実空間のシステムを立ち上げて、地球の3Dデータを入力し、光によるレンダリングをONにしたのだ。地球の仮想現実空間の立ち上げの様子は旧約聖書にすべて記録されていた。
 ふぅぅ……これが神か……
 俺は窓の外に広がる真っ青な海王星(ネプチューン)を眺めながら、神の視点に到達した事を感慨深く思った。
 ふと、珈琲が欲しくなり、イマジナリーを使って珈琲のテンプレートで、珈琲を実体化させる。
 よしよし……だいぶ慣れてきたな。
 喜んで飲んでみる……が、ちょっと香りにパンチがない。苦みも微妙であまり美味くない。
 あれ……?
 これが神の味? インスタントコーヒーと変わらないじゃないか……。
 仕方ないので、クリスに美味い珈琲の入れ方を聞いてみる。
「…。珈琲は嗜好品なので、カップ麺と違ってデリケートなんだよ。テンプレートじゃなくて色々なフレーバーを自分で工夫しないと」 と、言われてしまった。
 60万年も経ってるのに、その辺の整備はやられていないのか。
 とは言え嗜好品に正解はないから、しようがないのかもしれない。
 俺は苦みや酸味、各種香り成分などを色々試行錯誤してみた……が、むしろ余計まずくなってしまった。
 俺は神にはほど遠い、ただの人間だった事が露呈してしまった……。
 現実を突きつけられて、俺はしょんぼりとしながらクリスに頼んだ。
「ごめん……クリスの珈琲のレシピ貰えないかな?」
「…。あはは、まぁ最初のうちは難しいね」
 そう言ってクリスは、レシピをメッセンジャーで送ってきた。
 そのレシピで珈琲を入れてみると、さすがに美味い。
 やはりクリスは頼りになる。十万歳は伊達ではない。
 美味しさというのは、それこそ数百万種類の化学物質が、味覚と嗅覚の感覚器官を通じて織りなすハーモニー。その複雑系は無限の組み合わせがあり、いくつかのルールを組み合わせただけでは決して到達できない深みがある。多少知識が増えた程度では到底本当に美味い物へは到達できないのだ。
 でも、世界がそんなに単純じゃないというのは、俺にとってはむしろうれしかった。全部解明され尽くされた世界では、生きている意味が減るような気がしたのだ。
 俺は珈琲を(すす)りながら、窓の外で立ち上がる天の川の濃淡を指でツーっとなぞった。
 子供の頃、夏休みの林間学校で見た星座たちが並んでいる。白鳥座にさそり座に夏の大三角形……違うのは海王星(ネプチューン)の環がうっすらと天の川とクロスしている事。十万キロはあろうかという円弧が、天の川にかかる壮大なアートには、思わず見惚れてしまう。
 にぎやかに光り輝く星たちを眺めながら、俺はボーっと地球に戻る日を想った。