シアンの能力は不安だが、今は佐川に集中しないとならない。シアンは違法な人体実験で作られたAI、バレたら人生破滅だ。絶対に隠し通さないとならない。
 浮気っぽい情報がとれたのは、攻めるチャンスではある。
「あれ? 奥さんがいるのに恵美さんと仲良し……どういう事なんですかね?」
 俺はニヤッと笑って追い込む。
「な、仲良しって、仲がいいのは、別に何の問題もないじゃないか!」
「きのう ふたりで ホテル……」
 淡々とばらすシアン。
「し、し、失礼だな! 誰が何しようが勝手じゃないか!」
 佐川は真っ赤である。
「もちろん、浮気する自由は、誰にだってありますよ。でも付きまとわれない自由は、我々にもある。諦めるか……奥様とお話しさせていただくか……どちらを選びますか?」
「……、脅すのか?」
 ジロっとこちらをにらむ佐川。
「とんでもない、平穏な教団での暮らしに、土足で上がってきているのは、あなたの方ですからね、自衛措置ですよ」
「くっ!……しかし……惜しいな、世界一の才能を見つけたのに……」
 ここまで追い込んだのに、まだ諦めきれないらしい……しぶとい……。
 
 安全のためには、佐川にはすっぱり諦めてもらう以外ない。未練を持たれて、こっそり調査されてしまうようなリスクも潰しておきたい。
「分かりました、最後にチャンスをあげましょう」
 俺は佐川の目をまっすぐ見て言った。
「え!?」
「神の子とジャンケンしてください。十回やって一回でも勝てたら出演しましょう。もし、一回も勝てなかったら二度と我々には近づかないこと、近づいたらあなたにも、マンションの十階へ行ってもらいます」
「え? 一回勝つだけでいいの?」
 佐川は大喜びである。
 
 由香ちゃんは
「そんな条件でいいの!?」 と、驚いているので
「僕たちの子供を信じなさい」
 俺は、にっこりと笑った。
 
「シアン、ジャンケンで勝ってくれ」
 シアンのふんわりと柔らかい頬を軽くなでながら、指令を出すと、
「きゃははは!」 と、うれしそうに笑った。
 
「じゃあ行きます。一回戦目、最初はグー! ジャンケンポン!」
 赤ちゃんの小さな手がチョキを出し、パーの佐川に勝った。
「まーだまだ! あと九回ある!」
 佐川は余裕の表情だ。
「二回戦目、最初はグー! ジャンケンポン!」
 またシアンの勝ち。
 その次もシアンの勝ち……
 この辺りで佐川は気が付く。
「なんだよ……あいこにもならない……。どういう事だよ……」
 最初の勢いはどこへやら……なんだか可哀想である。
 
「神の子は偉大です。人間に勝てる訳がない」
 俺はちょっと自慢気に言い放つ。
 実はシアンは、単純に後出しをしているだけなのだ。佐川の出す手を見てから、グーチョキパーを選んで出しているのだが、その後出しが0・一秒の早業なので、佐川には分からない。
 
 やけくそになる佐川が全敗するのに、一分もかからなかった。
 ストレートの十連敗である。
 
 俺はにこやかに言った。
「はい、では約束通り、二度と我々には近づかないでくださいね」
 これで解決だろうと、思ったのだが……。
 
 佐川はしばらくうつむいていたが、いきなりガバっと顔を上げると、俺の手を両手で包んでこう言った、
「神の力は素晴らしい! 私もぜひあなたの教団に入れてください!!」
 なんだよそれ……斜め上の回答に、俺は思わず天を仰いだ。
 いつになったら解放されるのか……。
 
「動画なんてもうどうでもいい、神のおそばに私も置かせてください!」
 熱のこもった目で俺を見つめる佐川。
 俺はウンザリしながら言葉を選んだ。
 
「神の力をご理解いただいて何よりです。ただ、我々の宗教は、一般人を信徒に迎えません。高潔なる心の持ち主しか、神は信徒として認めないのです」
「俺じゃダメ……なのか?」
 哀しそうな目で俺を見る。ウソの設定に喰いつかれるのは、非常に良心に堪える。早く何とか切り抜けたい。
 
「浮気をしているような方では無理です」
 俺は佐川の手を振り払った。
「浮気はダメって、そもそもウチの奴が、ヤらせてくれないから、こんな関係になったんだ。俺のせいじゃない!」
 どうもセックスレスらしい……なぜ俺は赤裸々な夫婦事情を、カミングアウトされているのか?
 ずぶずぶと泥沼にはまっていく感覚に、俺は眩暈(めまい)がした。
 
「えーと……浮気は奥さんが原因だ、という事ですか?」
「旦那をほったらかしにする、あいつのせいだ」
 佐川は強気にそう言い放つが……浮気しておいて、それはないのではないか。盗人猛々しい。イラっとした。
 
 俺はこの難局を乗り切るべく、必死に頭を使う。浮気を奥さんのせいにするクズを、どう説得するのか……。しかし、そう簡単にいいアイディアなど思い浮かばない。ウソにウソを重ねてここまで来てしまっているのだ。この設定からどう突破口を作るのか……。
 マジで逃げたい……。
 俺は胃の辺りがキュウっと痛くなってきた。
 だが、今逃げたら追いかけてくるだろう、何としてでも諦めてもらうしかない……。
 俺は必死に頭を絞った。そもそも夫婦間の不和の原因は、お互いの尊重の不足にある、と聞いた事がある……で、あれば……
 俺は佐川の目をしっかりと見据えて、ゆっくりと聞いた。
「奥様に『ありがとう』とか『愛してる』とか、ちゃんと伝えてますか?」
「え!? そ、そんな事言わねーよ」
 まぁ、そんな所だろう。でも『ありがとう』くらいは、日ごろから言わなくては、人間関係など維持できないのでは?
 
「では、川上恵美さんにはどうですか?」
「え!? そ、それは……」
 黙ってしまった。言っているらしい。
 釣った魚には餌をやらないタイプの様だ。気持ちはわからないではないが、それでは夫婦関係が壊れてしまうだろう。
 
「せ、先生の所はどうなんだよ? ちゃんと毎日言ってるのか?」
 佐川は、俺と由香ちゃんを交互に見る。
 
 え!?
 俺と由香ちゃんを夫婦だと思っているようだ。この勘違いは利用した方がいいのだろうか? しかし、これ以上うそを重ねるのは……。
「もちろん、言ってくれてますよ! ね? あ・な・た!」
 え!?
隣で由香ちゃんが、にっこりと返事をしてしまう。
 こうなったら仕方ない、俺もにっこり笑って、由香ちゃんの設定に合わせる。
「毎日愛を語る、それが夫婦の基本ですよ」
 俺は偉そうに佐川を諭す。
ところが……
「あれ? 今日はまだ……聞いてない……かなぁ……」
 由香ちゃんは首をかしげ、小悪魔な笑顔で俺を見る。
 何というトラップ!
 この状況を利用して、俺にいたずらを仕掛けるとは! まるで美奈ちゃんじゃないか。と、思いつつもここは冷静に切り抜けねばならない。
「そ、そうだっけ?……いつも、ありがとう……あ、愛してる、よ?」
 棒読みにならない様に気をつけつつ、でもちょっと理不尽な恥ずかしさで、声が変になってしまった。
「私も……、愛してるわ」
 由香ちゃんは優しい笑顔でうれしそうに俺を見る。その可愛いブラウンの瞳に俺は引き込まれ、俺の心の奥底で何かがカチッと音を立てるのを聞いた。
気が付くと、俺は涙をポトッと落としていた。
「あ、あれ?」
 俺はいったい何が起こったのかわからず、手の甲で慌てて涙をぬぐう。
 由香ちゃんはハンカチを出して、心配そうに俺の頬にあてた。
 それを見ていた佐川は、何か感じる所があったようで、
「分かりやした先生! あっしが間違ってやした! ウチの奴ともう一度向き合ってみやす!」
そう言いながら頭を下げた。
良く分からないが、納得してくれたなら良かった。
 俺はまぶたをパチパチと動かし、ふぅと大きく息を吐いて気持ちを落ち着けると、
「それがいいでしょう。神のご加護がありますように」
 そう声をかけながら、十字を切って手を組む。
「ありましゅように」
 シアンも真似して手を組んだ。

      ◇

 俺達はそそくさと荷物をまとめ、その場を去る。
 佐川はいつまでも俺達の姿を見送って、何度も頭を下げていた。
 
 彼は奥さんと仲直りできるだろうか……帰りのタクシーの中で、俺は佐川の行く末を色々と考えてみたが……多分無理だろう。
 人はそう簡単には変われない、もう何年もかけて硬直してしまった関係が、改善する可能性はそもそも低い。
 人は心の生き物、人間関係は心を共鳴させる事で維持される。共鳴が止まったら心は閉じ、関係も切れてしまう。そして一度閉じてしまった心は、そう簡単には開かない。
 俺としては、佐川にも幸せになって欲しい、と思っているが……今までの業が深すぎる。
 
 とは言え、俺自身、人間関係の悩みの中にいる。ましてや未婚の俺には、結婚生活の大変さなど分からない。散々偉そうなことを言ってしまったが、自分の結婚生活が破綻しない自信など全くない。そもそも俺は親に捨てられた愛を知らない男、結婚する資格があるかすら怪しいのだ。
 ちらっと横を見ると、由香ちゃんがシアンを愛おしそうになでている。
 こういう家庭を作れたら、上手くいく……のだろうか?
「由香ちゃんは結婚したい?」
 セクハラにならないように、さりげなく聞いてみる。
「うふふ、どうしたんですか?」
 何だかうれしそうにニッコリと笑う。
「そりゃぁ……したい……ですよ。誠さんは?」
「俺は……分からない」
 そう言って軽く首を振った。
「どうしてですか?」
 由香ちゃんが首をかしげる。
「実は俺、保育園の頃に親に捨てられてるんだ……」
 言った後、余計なこと言ってしまったと思った。つい口が滑った。
 由香ちゃんは、
「ごめんなさい、余計なこと聞いちゃった……」
 そう言って萎れる。
「あ、気にしないで、忘れて!」
 ちょっと引きつった笑顔で、由香ちゃんをフォローする。
 タクシーの中に流れる、AMラジオのうるさいコマーシャルが耳障りだった。
 由香ちゃんが、おずおずと切り出す。
「その……捨てられたことが……トラウマになっちゃってるって事ですか?」
「うーん、まぁ、捨てられちゃうとねぇ……」
「誠さん、気さくで楽しそうに見せて、ハグとかするけど、巧妙に、踏み込んだ人間関係にならないように逃げるじゃないですか。そこに原因があるのかも……」
「え? 俺ってそんな?」
「そんなですよ」
 由香ちゃんは、ちょっと不機嫌そうに窓の外を眺めた。
 向き合わねばならない課題を突き付けられ、俺は大きく息を吐く。
 そう、そうなのだ……。
「なぜ捨てられたのか、一回ちゃんと話聞いた方がいいとは……思って……」
「聞きましょうよ」
 食い気味に、強い調子で諭してくる由香ちゃん。
「でも……いまさらどんな顔で会いに行くのか……」
「私が聞いてきましょうか?」
「いやいや、これは俺の問題だから」
「人生一回しかないんですよ? トラウマなんてどんどん潰しましょうよ」
 俺は大きくため息をつき、軽く首を振った。
 由香ちゃんは他人事だと思って、正論をバンバンぶつけてくる。しかし、世の中の問題は正論が解決してくれるわけじゃないのだ。
「……。あ、そのマンションの前で降ろしてください」
 俺は運転手さんに声をかけ、降りる準備をして逃げた。
 由香ちゃんは、ちょっと不満そうだった。
 
 
        ◇

 その晩、由香は京都駅ビルのカフェにいた。綺麗な花の内装で、振り返ると(きら)びやかな夜景が広がっている。
 珈琲を頼み、しばらく待っていると、中年の女性が手を上げて近づいてくる。誠の母、静江だ。白のシャツにブラウンのチュニックワンピースで、ネックレスをしていた。
「由香ちゃんね、はじめまして! こんばんは!」
 なぜかとても歓迎している。
「こ、こんばんは。すみません、いきなり……」
「いいのよ、わざわざ京都まで来てくれて、ごめんなさいね」
「いえいえ、会社からここまで二時間ちょっとです。意外と近いですよ。……。クリスからお母様の陰の貢献を聞きまして、居てもたってもいられなくなったものですから……」
「貢献……ね、あれは私からクリスさんに頭下げてお願いしたの。別にそんな大層な事じゃないわ。それより……由香ちゃんこそ誠とシアンちゃんの面倒をいつも見てくれてありがとう。クリスさんが丁寧に報告してくれるのよ」
「あら、全部筒抜けだったんですね……ちょっと恥ずかしいです……」
「由香ちゃんがフォローしてくれるから、安心していられるの。本当にありがとう」
「いやいや、そんな……」
 静江も珈琲を頼み、軽く水を飲んで、言った。
「で……今日はどう言ったご相談?」
 由香は居住まいを正す。
「誠さんは、お母様の失踪を、いまだにトラウマとして持っているそうなんです……」
 静江は動きを止め……下を向き、大きく息を吐く。
「そう……そうよね……」
 由香は慌てて言った。
「あ、別にお母様の事をどうこう言うつもりはないんです、人生色んな事がある、単純じゃないって、私も分かってるつもりです」
 静江は絞り出すように声を出す。
「私は誠を愛してるわ。身ごもってからずっと……。これを見て……」
 そう言うと静江は、財布の中から一枚の写真を取り出した。丁寧にラミネートされながらもあちこち擦り切れた年季の入った写真、赤ちゃんの頃の誠だった。
「毎日、この写真を眺めてるわ。一度だって忘れた事ないの……。こんなに愛しているのよ。だからあの日、なぜ、あの子を捨ててしまったのか……まったく理由が分からないの」
「理由が分からない?」
「あの子が良く熱を出すものだから、そのたびに保育園から呼び出されてたの。だから、職場で疎まれていた事が凄いストレスだったのはあるのよ。でも、だからと言って、なぜあの子を捨てるような事をしたのか……私も良く分からないの……」
 由香は首をかしげ、どういう事か必死に考えていた。
「あの日、保育園から呼び出されて、新宿の街を駅に向かって歩いていたのね、そしたら大阪行きの高速バスが目の前を横切って、そこに『京都』って書いてあったのよ。その瞬間、緊張の糸がプッツリと切れたの。本当に切れる音がしたわ『プツッ』ってね。その後はもう催眠術にかかったかのように、当たり前のようにバスに乗り込んだのよ」
 これは一体どう考えたらいいのか……。オカルト然とした奇妙な話に、由香は困惑した。
「京都の安ホテルで深夜に我に返ったわ。でも、もうすべては手遅れ、あの子は祖母に引き取られ、私は勘当された……当たり前よね。でも、放心状態の中、身ごもってから六年の束縛から解放された開放感が、私を癒していたのもまた事実なのよ。シングルマザーは私には無理だったという事なのよ」
「大変……だったんですね……」
「いや、もっと大変なシンママなんて幾らだっているわ、私が足りなかっただけ……」
「そんな……」
「これが真相よ、私が足りずにあの子にトラウマを植え付けてしまった……ダメな母親だわ。一生呪ってもらうしかないわ……」
 静江はうなだれ、ポトッと涙がテーブルに落ちた。
 由香はそっと静江の手を取ると、
「そんなに自分を責めないでください。過去に何があっても大切なのは未来です。誠さんとの和解のお手伝いをさせてください」
 そう熱を込めて言った。
 静江はしばらく肩を揺らしていたが、バックからハンカチを取り出し、丁寧に涙をぬぐって言った。
「ありがとう……あなた……あの子のお嫁さんになって……」
 由香は突然の申し出に驚いて、
「お、お、お、お嫁さん……ですか!?」
「私、応援しちゃう」
 静江はそう言って、無理に涙を笑い飛ばし、由香は真っ赤になってうつむいた。
 そして、静江は、
「分かったわ、ちょっと待ってて」
 そう言ってバッグからアンティーク調のレターセットを取り出すと、手紙を書き始めた。
 静江は何度か書き直しながら、謝罪、シアンを産んだ経緯、毎日思い出し愛していることをつづっていった。
 由香は、一生懸命悩んで言葉を選ぶ静江を見ながら、誠がトラウマから解放されることを祈った。

      ◇

 翌日、俺が紙おむつのパックを抱えてシアン部屋へ行くと、由香ちゃんがシアンをあやしていた。
「由香ちゃん、いつもありがとうね」
 そう声をかけると、由香ちゃんは、
「誠さん、シアンのママって誰か知ってる?」と、聞いてきた。
 俺はおむつのパックを棚にしまいながら、
「え? ママは由香ちゃんじゃないの?」と、答えると、
「そうじゃなくて、人工子宮の前に誰のお腹にいたかって事」
 そう言ってこちらをジッと見る。
「え? 赤ちゃんはクリスが連れてきたから、誰だか俺は知らないなぁ」
「神崎静江さんよ」
 俺は固まった。棚からポロポロとオムツがこぼれ、心臓が一気にバクバクと音を立て始める。
全く予想もしなかった名前に、俺は狼狽(ろうばい)を隠せなかった。23年間のトラウマの元凶が、俺の日常にいつの間にか入り込んでいたのだ。
 俺が言葉を失っていると、由香ちゃんが続けた。
 
「私も昨日知ったのよ。驚いて会いに行ったわ」
「会ったのか!?」
「そうよ、シアンのママなら、挨拶しない訳にはいかないもの」
 さも当然かのように言う由香ちゃん。
「クリスめ、何というトラップを仕掛けるんだ!」
 俺がやり場のない怒りをクリスにぶつけていると、
「はいコレ」
 そう言って由香ちゃんは、手紙を俺に渡した。
「誠さんには怒る権利があるわ。でも、怒りは幸せを呼ばない。時間がある時にゆっくりと読んでね」
 俺をチラリと見ると、由香ちゃんは部屋を出て行ってしまった。
 俺は『母より』と書かれた手紙を眺めると、無造作にポケットに突っ込んだ。そして、テーブルをガンと一発叩き、天を仰いで目を瞑った。
 こぶしの痛みで、鼻の奥がツーンとするのを感じていた。