彼女は少し茶色のセミロングパーマの髪を夏の風に揺らしながら、白いワンピースに薄い迷彩のパーカーを羽織り、微笑んでいる。
 アイドルグループに居てもおかしくない美貌に、心臓が高鳴る。
「も、も、もちろん、どうぞ! 美味しいよ!」
 俺は飛び上がるように席を立ち、少し震える手で彼女にプラカップを渡し、注いだ。
 彼女は片手をそっと添えて、丁寧に受け取る。
 品のいい娘だ。
 
 彼女はにこやかに一口、ワインを含む。
 透き通るような肌に、シャープなギリシャ鼻、そして心を捉えて離さない大きな琥珀(こはく)色の瞳……もし、女神がいるとしたら、彼女のような風貌かもしれない。
「うわぁ~! これは凄いですねぇ!」と、(まぶ)しい笑顔で歓喜の声を上げる。
 今の瞬間を撮ったら、TVCMにでも使えそうなビジュアルだ。思わず見()れてしまった。
 話を聞くと彼女は応京(おうけい)大学の学生だそうだ。今日はサークルのBBQでお隣に陣取っていたらしい。
 サークルでBBQ、実に羨ましい。
 ばぁちゃんとの約束を果たそうと、バイトに研究に必死だった俺の貧乏学生時代とは大違いだ。
 ワインを交わしながら歓談してると、若い男がやってきた。
 
「ダメだよ。美奈(みな)ちゃん! お隣さんに迷惑かけちゃ!」
 ボーダーのインナーに、紺のシャツを羽織った、少し甘いマスクの男が女の子に声をかける。
 
「え~、ワインもらっただけだし」
 美奈ちゃんはムッとした表情で、面倒くさそうに答える。
 俺もすかさず言う。
「迷惑なんかじゃないですよ、良ければ一緒に、ワインどうですか? 美味しいですよ」
 男はちらっとテーブルのペットボトルを見ると、
「ペットボトルのワインなんて、美味い訳ないだろ? 僕はパパから、いつも一流のワインを飲ませてもらってるんだ。ちゃんとしたワインじゃないと、体が受け付けない」
 またこれか、ワイン好きというのは本当に面倒な連中だ。
 
「じゃ、このワインが美味しかったら、どうする?」
 俺がそう聞くと、
「はっ! パパ行きつけの、三ツ星フレンチに招待してやるぜ!」
 ふてぶてしい態度で小僧は挑発してくる。これは神様の力を、思い知らせてやらんとならん。意地でも『美味い』と、言わせてやる。
「よーし、みんなー! フレンチ行くぞ~!」
 俺は仲間連中に向けて叫ぶ。
「おぉぉぉ!」「やったー!!」「キャ―――――!」
 奇声が上がる。
 酔っ払いたちは、騒げるネタならなんでもいいのだ。
 
「美味かったら、だからな!」
 男が念を押してくる。
 
「まぁ、飲んでみろ」
 俺は微笑みながらカップを渡す。
 
 男は受け取ったワインの香りを嗅いで……眉間にしわが寄った。
「なんだ……この香りは……」
 そして、軽く口に含んだ
「んんっ……」
 黙ってしまった。
 
 俺はニヤッと笑うと、
「フレンチは明日の晩、十名様で予約してくれよ」と、言ってやった。
 
 男は憤慨しながら、
「いや、僕は認めないよ! こんなの全然美味くない!」
 俺と目を合わさないようにして、ふてぶてしく言い放った。
 
「シュウちゃん、ウソついちゃダメよ、こんな美味しいワインに、ケチ付けるなんて最低よ!」
 美奈ちゃんは、クリっとした可愛い目を見開いて諭すが、男は引かない。
 
「美味いかどうかは主観で決まる、僕が美味くないと言えば、美味くないのだ!」
 そう言って、残りのワインを、その辺にパッと()いて捨てた。 
 向こうで、クリスの表情が堅くなったのを、見てしまった。俺はこの小僧の事を少し哀れに思った。
 クリスが静かに歩み寄ってきて、問いかける。
「…。この聖なるワインを侮辱するのであれば、それなりの神罰が下るが良いのか? 太陽興産の、跡取り息子の修一郎(しゅういちろう)君」
 
「な、何で俺の事知ってんだ? 美奈だな! 勝手に個人情報話すなよ!」
 憤慨する修一郎に、美奈ちゃんはムッとして返す。
「私じゃないわよ!」
「…。美奈さんは関係ありません。私はあなたの事を良く知っています。その右ポケットに入っている物が何かも知っています」
 修一郎という名前らしき男の顔色が変わった。
「お、お前には関係ないだろ!」
 
 何かヤバい物を持っているらしい。おおかたマリファナとかその手の類だろう。イキがる若者はそういう物に()かれるからな。
 それにしても、太陽興産という会社名は聞いた事がある。確か、中国との貿易で最近業績を伸ばしていた会社だ。
 スマホで検索すると……株価もここの所右肩上がりである。社長は田中修司(たなか しゅうじ)、きっと修一郎の親父さんだろう。
 
「太陽興産だって? 最近絶好調な所じゃないか」
 俺が声をかけると、
「そう! パパは凄いんだ。応京大学OB会の理事もやってるのさ」
 修一郎は自慢したくて仕方ないらしい。
 
 クリスは俺のスマホを(のぞ)き込むと……
「…。なるほど、それじゃ神罰は太陽興産に下るだろう。『太陽興産には失望させられたよ』」
 そう言った瞬間、太陽興産の株価の表示が真っ赤になった。
 俺はその表示に焦った。
「うわ、株価が暴落し始めたぞ!」
 
 修一郎は俺のスマホをひったくると
「な、なんだこりゃ!?」と、言って、顔面蒼白(そうはく)になった。
 とんでもない数の売り玉が、次々と買い板を飲み込んでいく。
 さっきまで前日比プラスだったのに、もうマイナスに落ちている。
 修一郎は焦ってクリスに絡む。
「お前! 一体何をやったんだ!?」
「…。別に何も? 単に失望しただけだが? 『太陽興産には失望させられたよ』」
 また大きな売りが追加された。
 株価の下げは、留まるところを知らない。
 修一郎は、食い入るようにスマホを見つめるが、売りは増えるばかりで、株価はどんどん落ち続ける。
 もうすでに、50億円近く時価総額は落ちている。
 修一郎が下らないウソをついただけで、50億円が飛んだのだ。
 
 そもそも株価はマーケット参加者の気分で決まる。これから値上がりすると思えば、買いが増えて値が上がり、値下がりすると思えば、売りが増えて値が下がる。
 クリスがどうやってるのかは分からないが、マーケット参加者の気分を弱気にしたのだろう。皆が値下がりすると思えば株価は下がる一方なのだ。
 みるみるうちに、株価はどんどん下げていく。
 
 修一郎は真っ青となり、クリスに食って掛かる。
「ワインが美味いかどうかで、なんで株価暴落するんだよ!」
「…。美味いかどうかじゃない、侮辱をするかどうかを、神は見ているのではないかな?」
「俺にとって美味いかどうかは俺が決める! 俺が美味くないと言ったら、美味くないでいいじゃないか!」
 その瞬間、また多量の売りが出て、さらに株価の暴落が加速していく。愚かな事だ。
 クリスは軽く首を振りながら、憐みの表情で修一郎を見つめている。
 
「パ、パパに電話しなくちゃ……」
 震える手でスマホを操作した。
「パパ、僕だよ、修ちゃん。え……? やっぱり暴落は本当なの? まずいの? あれ? パパー? パパー?」
 切られてしまったらしい。
 株価はさらに落ち続け、もう時価総額は百億円くらい消えてしまった。
 
 修一郎はしばらく呆然(ぼうぜん)としていた。
 理屈は分からないが、とんでもなくダメな事をしてしまったのを、本能的に理解したようだ。
 修一郎は意を決して、クリスに向き直ると、
「僕が悪かった……。何でもする。だからパパを助けて……」
 そう言って頭を下げた。もはや涙声である。
 イキがって、調子に乗った奴の末路は悲惨である。ちょっと胸がスッとする。
 
「…。ワインはどうだったかね?」
 クリスは淡々と聞く。
「美味しかった! 美味しかった! 最高でした!」
 修一郎はクリスの手を握って必死にアピールする。
「…。無理して言わなくていいんだよ」
 クリスはゆっくり諭すように言う。
「大丈夫っす! カベルネソーヴィニヨンですよね? メッチャ美味いっす!」
 クリスはがっくりとして目を(つむ)り、首を振った。
「……。ピノノワールだよ……」
「あ、あれ……?」
 ばつが悪そうな修一郎。
 カベルネソーヴィニヨンは渋い葡萄(ぶどう)の品種で、ピノノワールはその逆でフルーティ。普通間違えないのだが……。これからいろいろ飲み比べて覚えていってもらうしかない。
 俺は修一郎の肩をポンポンと(たた)いて言った。
「フレンチ十名様、予約入れろよ!」
 すると修一郎は
「入れる! 入れる! 今すぐ入れる!」と、必死に言った。
 
 クリスは気を取り直し、修一郎の目をじっと見つめ、小声でつぶやいた。
「…。『太陽興産は言うほど悪くなかったな』」
 
 すると、あれ程多量にあった売りがパッと消えた。
 その後、徐々に買いが入り始めた。買いが出てくると動きは速く、株価は急速に元に戻って行った。
 それを見ると、修一郎は大きく息を吐き、力なくよろよろと椅子に沈んだ。
 真夏の日差しの中、修一郎の流した冷や汗が、お洒落(しゃれ)な北欧の腕時計にポタリと落ちる。 
 決してクリスを敵に回してはならない、俺はそう強く心に誓った。
 
 それにしてもクリスの力は恐ろしい。株価を操れるという事は、無限にお金(もう)けができるという事。何億でも何十億でも好きなだけ(もう)けられるという事。とんでもない力だ。
 やり取りを見ていた美奈ちゃんが、するするっとクリスに近づいて(まぶ)しい笑顔で話しかける。
「すごぉい! 一体どうやったんですかぁ?」
 実にストレートな突っ込みである。
 
「…。私は何もやっていない。不誠実な者に天罰が落ちるのは、当たり前でしょう」
「ふぅん……。クリスさんは天罰を呼べるんですねっ」
「…。全て神の思し召しです」
 そう言って、クリスは祈る仕草をした。
 
 修一郎はレストランに電話しているようだ。
「予約取ったから、明日七時に銀座のここに行ってくれ」
 そう言って、ぶっきらぼうにスマホの画面を俺に突き出した。
「お、こないだ三ツ星になった店じゃないか! 本当にいいの?」
 俺がちょっと気後れして聞くと、
「男に二言はない! 今回の事は僕が悪かった。楽しんできてくれ! その代わり……、このワインを何本かもらいたいんだけど……」
 修一郎はそう言って手を合わせ、お願いしてくる。
 確かにこれは神の飲み物、お金で買えるような代物(しろもの)じゃない。良く分かってるではないか。
 俺はニヤッと笑うと、クリスに聞いた。
「クリス、ワイン欲しいんだって、いいかな?」
「…。いいでしょう、ピノノワールの心地よい酸味と果実味をしっかり勉強してください」
 そう言ってニッコリと笑った。
 
 
              ◇

 しばらく歓談していると、教授が声をかけてくる。
「誠君、ちょっと……」
 俺はテント裏に連れてこられた。
「ワイン美味かったでしょ?」
 俺がワイン片手に、上機嫌で自慢すると……
「美味すぎる、これはオカシイよ……」
 そう言って深刻そうな声を出す。
「こんなワイン、人の作れるものじゃないし、あんな株価操縦なんてできるはずがない。人間技じゃないよ!」
 確かにクリスは人間じゃない。それは良く知っている。
「うーん、だから神様なのかと思ってるんだけど……」
 教授は(あき)れた顔をして言う、
「誠君、君はエンジニアだろ? そんな非科学的な事言っちゃダメだよ!」
 教授はただのあだ名ではなく、大学で素粒子物理学を教えている本物の教授だ。非科学的な事なんて絶対に認めない。俺は工学系なので、理屈よりも結果が出る事を重要視する。だから、奇跡をどう使うかしか考えないが、理学系の教授には理屈の方が気になるらしい。
「じゃ、教授はクリスを何だと思ってるの?」
「可能性は三つ……」
「1.ナノテクノロジーを駆使できる、高度な科学文明を持った知的生命体」
「2.幻術を使う催眠術師」
「3.シミュレーション仮説上の管理者(アドミニストレーター)
「これしか考えられない」
「シミュレーション仮説って何?」
 俺が聞くと、
「この世界が仮想現実だって言う話。つまり、ここはVRゲームのフィールドだって事だよ」
 そう言って教授は眉をひそめた。
「え? これが仮想現実空間!? ま、まさか……いや……しかし……」
 とんでもなく荒唐無稽(こうとうむけい)な事を言われて驚いたが、技術的には不可能な話ではない。ただ、やる意味も価値もないから誰もやらないと思うのだが……。
「さすがに、それは無いとは思ってるよ。地球をシミュレートしようと思ったら、地球よりずっと大きなコンピューターと、天文学的な莫大(ばくだい)なエネルギーが必要なんだから。そんなバカげたこと、何のメリットもない。だとすると、ナノテクか催眠術師か……」
「催眠術師だったら……俺達、化かされてるって事? このワインも水?」
 俺達はジッとワインを見つめた……
 しかし、どう見てもワインにしか見えない。
 そして再度慎重に味わってみた……
「美味い……よなぁ……」
 
「分かった! うちの大学の同僚に頼んで、成分分析をしてもらう。これでナノテクか催眠術か、白黒つくだろう」
「お願いします。結果わかったら教えてください」
 そう言って、俺達は秘密裏に、クリスの正体を探ってみる事にした。
 とはいえ、クリスが『ナノテク・マスター』か『スーパー催眠術師』だったとしても、俺からしたら十分に神様だし、人類の危機を救わねばならない事も変わりない。人類を救うAIはどっちにしろ必要なのだ。





 
1-4.神様はバックパッカー
 
 仲間の子供達を見ると、皆ソファーでゴロゴロしだしている。どうやらお眠の時間の様だ。
「さて、そろそろ帰らないと。クリスも明日フレンチ行きますよね? 今晩はうちに泊まりませんか?」
 さり気なく誘ってみる。
 
「…。いいのか?」
「何言ってるんです、クリスのおかげで、こんなに楽しい事になっているんだから、遠慮せずにうちで飲みなおしましょう!」
「…。なら……お言葉に甘えて……」
 
「ねぇねぇ、美奈も行っちゃダメかなぁ?」
 ちょっと首をかしげて、甘い声で美奈ちゃんが割り込んできた。美奈ちゃんもクリスに興味津々なのだ。
 可愛い娘にお願いされて、断れる男など居ない。
「お、俺は良いけど、クリスはどうかな?」
 
 クリスは、美奈ちゃんの目をじっと見ると、言った。
「…。私たちに付いてきたら、もう二度と今までの暮らしには戻れない……。それでもいいですか?」
 俺は驚いた。一体どういう事なのか? 俺は、単に飲みなおすだけのつもりだったのだが……。
「丁度いいわ! 今の暮らしに、飽きてきた所なのよねっ!」
 美奈ちゃんは人差し指をくるっと回し、小悪魔風に微笑んだ。
 
「…。ならいいでしょう」
 クリスはそう言ってニッコリと笑った。
 クリスは女子大生に何を見たのか……。クリスの思惑は読めない。

       ◇

 八丁堀にある、築五年の1DKのマンションが俺の家だ。都心に近いが、下町だけあって家賃が安くて気に入っている。
 二人を、コンビニに買い出しに行かせている間に、俺は部屋を頑張って片付けた。
 ヤバい物は急いで段ボールに詰め、物置に追いやった。独身男性の部屋には、女の子にはとても見せられないような物だってあるのだ。
 掃除機で仕上げをしていると、二人がやってきた。
「あら、誠さんの部屋、綺麗(きれい)ねっ!」
 美奈ちゃんが、ずかずかと奥まで入ってきて言った。
 ギリギリ間に合った。セーフである。
「あっ、あれはスカイツリー?」
 そう言いながら美奈ちゃんは、まだ昼の熱気が残るベランダに出た。
 遠くに青くライトアップされたスカイツリーが、夏の夜を涼しげに彩っている。また、眼下にはその青が隅田川の支流に反射してゆらゆらと(きら)めき、下町っぽい風情を演出していた。
綺麗(きれい)でしょ?」
 俺が並んでそう言うと、
「何だかお菓子みたいね、食べたら美味しそう!」
 美奈ちゃんは嬉しそうにこっちを見て微笑む。
「君はゴジラかい?」
 俺は笑いながら、美奈ちゃんを見るが、その魅惑的な瞳にキラキラと反射する夜景に、思わず吸い込まれそうになる。
 高鳴る心臓を悟られないように、急いでスカイツリーに視線を移したが、少し不自然だったかもしれない。
 まだ少し生ぬるい風を浴びながら、俺はそっと深呼吸をした。

      ◇

 俺は部屋に戻って、買い出ししてもらった物をテーブルに並べ、皆に座布団を勧めた。
 
「私は梅酒~っ!」
 美奈ちゃんが上品に座りながら、梅酒の缶をプシュッと開ける。
 
 クリスはハイボール、俺はビールを手に取った。
「それじゃ、明日のフレンチを祝して、カンパーイ!」
「カンパーイ!」「…。乾杯」
 ゴツゴツと鈍い音が部屋に響く。
 俺はホップの苦くてややフルーティな香り、爽快感が脳髄を揺らすのを堪能する。幸せが染みわたっていく……。
「クリスさんは、何をしてる人なんですかぁ?」
 美奈ちゃんが早速クリスに絡む。
「…。ただのバックパッカーだよ」
 クリスは透き通った声で淡々と答えるが、バックパッカー!? 神様の仕事ってバックパッカーでいいのだろうか?
「ふぅん、いつまでバックパッカー続けるの?」
 お、ナイスな突込みだ。
「…。希望が見える……までかな……」
「今は希望が見えないの?」
 美奈ちゃんは首をかしげ、不思議そうに聞く。
 
 クリスはハイボールを(あお)ると、目を(つむ)って静かに言った。
「…。全くダメだな。八方ふさがりだ」
「八方ふさがり? 人類がヤバいって事……なの?」
 
 クリスはあごに手を当てて、少しうつむき、言葉を選びながら言った。
「…。ヤバいというより……、糸が切れた(タコ)、という状態かな? 何をどうしたら、世界が良くなるか、皆目見当がつかない」
 そう言うと、ハイボールを一口飲んだ。
「…。昔は単純だった。病気や、飢饉(ききん)や、災害や、戦争を回避するよう祈れば良かった。そうすれば世界は良くなっていった。だが、この時代にまでなってみたら、何が何だか分からなくなった」
「うーん、それは、世界が複雑になったという事?」
「…。それもある。大抵の病気は病院で治るし、食べ物は捨てるほどある。そして、衣食住完備され、安全で安心な社会になったのに、みんな常に仕事に追われ、余裕無く(あえ)いでいる。一体なぜ、こんな事になっているのか、分からないんだ」
 クリスは首を振って目を(つむ)った。
 実に重い話だ。
 沈黙の時間が流れる。
 確かに、昔に比べたら全てが改善した。夢の社会ができたはずだった。でも、人々は暗い顔して暮らしている。一体何が間違っているのだろうか……。
 
「お、お金……かな? みんなにお金をパ―――――ッと配ったらどうかな? みんなに一億円ずつ配ったら、みんな元気になりそう!」
 美奈ちゃんが、オーバーに両手を広げて言う。
「一億はどうかと思うけど、お金を配るというのは確かにいいね。ベーシックインカムと言って、国民全員に毎月十万円配ろう、という計画もあるよ」
 俺も話を(つな)げる。
「いいじゃんそれ!」
 美奈ちゃんが、無邪気に俺を指さして喜ぶ。
「でも…… 財源が足りないんだよね~」
「あらら……」
 二人して下を向く。
 これは経済システムの問題だ。
 クリスに幾ら力があったとしても、毎年百四十兆円をクリスが生み出し続ける訳にも行かない。神様の守備範囲外の問題だ。
 
 クリスは目を開けると続けた。
「…。さらに少子化と温暖化という、さらに深刻な問題が控えている。現状は、かなり絶望的と言わざるを得ない」
「絶望的!?」
 美奈ちゃんは、可愛い目を大きく見開いて驚く。
「…。この問題も対策のしようがない。解決策があっても、人類はそれを選ばない」
 クリスが暗い顔でつぶやく。
「でも、少子化は先進国だけの問題よね?」
 美奈ちゃんは首をかしげながら言う。
「…。そうだが、少子化によって経済崩壊と移民や人種間のトラブルが起こる。先進国に経済と軍事力が集中してる状況で発生するトラブルは、温暖化で起こる異常気象による飢饉(ききん)とあいまって、取り返しのつかない事態を引き起こす」
 クリスは目を(つむ)って首を振り、深刻そうに頭を抱えた。
 神様をもってしても簡単に滅亡は回避できない、という現実は重い。
「クリスさんにも無理だったら、もうダメって事?」
 美奈ちゃんが眉間(みけん)にしわを寄せて聞く。
「…。誠に案があるんだよね?」
 クリスは俺を見てニヤッと笑った。