俺はクリスに声をかけた。
「クリス、グッジョブ! 折角だから、BMIの設置までやっちゃおうか?」
 BMIとは、コンピューターと身体を接続する機器の事、つまり赤ちゃんをAI化してしまおう、というわけだ。
 また麻酔をかけて、一度縫合(ほうごう)した所をまた切開、となると赤ちゃんにも負担だろう。
「…。そうだね、一時間くらい様子を見て、問題なければやってしまおう」
「了解! 準備してもらうよ」
 俺はエンジニアチームを集め、事情を話す。彼らは深夜にも関わらず、快く引き受けてくれた。
 マーカスが、大きな声で気合を入れてくれる。
「It's a long night! Cheer up, guys!(長い夜が始まる、気合い入れていこう!)」
「Sure!」「Great!」「Yeah!」
 
 俺はBMIフィルムとケーブル、それから頭に埋め込む予定の、AIと電波接続をするトランスミッタを一式そろえ、消毒を行う。
 ついに本番がやってきた。マウスとは違うのだ、これは違法な人体実験、もう後戻りはできない。人類を守るためとはいえ、犯罪は犯罪。バレたら牢屋(ろうや)行きだ。
 消毒する手が震え、俺は目を瞑って天を仰いだ。そして何度か大きく息を吐くと、俺は覚悟を決めた。
 
 エンジニアチームは、各自席につき、忙しく動き始める。
「Deep network No.1 to 15, OK! (AIの1番から15番までは、準備OK)」
「Transmitter connection No.1 to 5, OK! (電波接続の1番から5番までは、準備OK)」
「Oh! data link from No.13 to No.18 is dead! (データ連携の13番~18番が切れてる!)」
「Restart the session No.13! (13番のセッションをやり直し!)」
「No.13 Sir! (13番了解!)」
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 :
 
 深夜のオフィスが、にわかに活気づく。
 
 由香ちゃんが丁寧に珈琲を入れ、メンバーに配る。
 クリスはシアンを左手で癒しながら、ゆっくりと珈琲をすすった。
 
 俺はクリスに手術の計画図を見せ、最終確認を行う。
 人間の背骨は35個の骨でできている。そして、その一つ一つから左右に神経が出ているので、合計70カ所に、BMIフィルムを巻き付ける必要がある。
 そして、脳幹の所にもBMIフィルムを、設置しないとならない。
 また、目玉は義眼のカメラに、耳はマイクにそれぞれ換装する。
 それぞれのフィルムや機器から出た配線は、全て頭の所に引き回し、そこからトランスミッタでAIと接続する。
 
 実に非人道的な手術ではあるが、人類の守護者となるために、申し訳ないが赤ちゃんには犠牲になってもらうしかない。
 
           ◇

 準備ができた。シアンのバイタルも安定している。
 俺は静かに眠るシアンをそっと見つめた。
 お人形みたいな小さな手足、時折ピクッと動く可愛い唇。まさに天使である。
「ごめん……」
 俺はそうつぶやいて目を瞑り、そして部屋を後にした。
 メゾネットの上の柵から、下のオフィスのメンバーに(げき)を飛ばす。
「Let's start the operation! Are you all ready? (手術開始だ! 準備は良いか?)」
「Sure!」「Great!」「Hell yeah!」「Yahoo!」
 みんなの気合も十分だ。
 
 午前二時過ぎ、いよいよAI接続手術を開始する。
 
 新しい手術着に着替えたクリスが、ゴム手袋を付けた手を胸の前に構え、俺が開けた簡易無菌室の入り口を入っていく。
 小さなベッドに、うつ伏せに横たわるシアン。
 いよいよオペの開始だ。
 マウスの時にやった要領で、クリスは背骨の脇にメスを入れ、クリップで切開部を固定し、マニュピレーターの顕微鏡で、神経線維を探す。
 神経線維を見つけたら、周りの膜を切ってスペースを作り、金のナノ粒子溶液を垂らした上で、BMIフィルムをそっと巻き付ける。
 何度見ても、ほれぼれする様な神の技である。太い糸に、数ミリ四方のサランラップを巻くような作業なので、とても俺ではできない。
 
 その上から固定用のテープを巻き付け、BMIフィルムがずれないようにする。
 この段階で一旦止まって、電気処理を入れる。
 画面を見ていたマーカスが声を上げる
「No.1! Create Connections! (1番接続!)」
「No.1 Sir! (1番了解!)」
 トランスミッタからの指示で、BMIのケーブルに電圧がかかり、BMIフィルムの端子と神経線維の間に、微細な金の回路が構成される。
 数分待ってから次の場所に移る。これを80か所繰り返すのである。
 クリスは丁寧に一カ所一カ所切開し、フィルムを巻き付けていく。正確無比のその技はまさに神業だ。
 俺達はモニター画面を食い入るように見ながら、手術の無事を祈った。
 
        ◇

 夜通し手術は続けられ、結局すべての作業が終わったのは、朝の九時過ぎ、外はすっかり明るくなっていた。
 
 最後に接続の確認試験を行う。
 クリスは、シアンの足の指先から、ゆっくりと指先でなでて、部屋の大画面モニターに表示される、神経電位図の変化をチェックした。
「No.1! Check Deep linking! (1番接続!)」
「No.1 Sir! (1番了解!)」
 クリスがなでるたびに、モニターの一部が赤く明滅する。約80箇所全てのエリアで、身体のどこを触っても、どこかが明滅するのを丁寧に確認した。どうやら、うまくいっているようだ。
 マーカスがニヤッと笑って、俺に親指を立てて見せた。
 俺は、メゾネットの柵の所から大声で言った。
「Deep linking Process Complete! (手術完了!)」
「やったー!」「Yeah!」「ヒャ―――――!」「Hi yahoaaa!」
 オフィス中に歓声が響く。
 俺はマーカス達と、次々とハイタッチをしたのだった。
 
 ただ、由香ちゃんは、手術の成功を喜びながらも、やはり人体実験に使われてしまうシアンの事を思い、暗い表情でいる。
 生まれた後に、数時間ではあるが、一緒に過ごした赤ちゃんはもういない。
 あくびをして、ムニャムニャ口を動かしていた、愛くるしいあの赤ちゃんは、もうAIに接続されて動かなくなってしまった。
 由香ちゃんは、手術のために脱がしたベビー服で、顔を覆い、動かなくなった。
 俺は由香ちゃんの隣に座ると、
「大丈夫、シアンは死んだわけじゃない。シアンの心は、ちゃんとあの体の中にあるよ」
「でも……操り人形にされちゃうんでしょ?」
 由香ちゃんは、ベビー服で顔を隠したまま涙声でいう。
「AIの根底の部分は、身体を無視できない、逆にAIを根底で操るのは、本能的な情動であってそれはまだ、シアンの中に息づいているんだよ」
「本当……なの?」
 ベビー服を少しずらし、真っ赤な目で、俺を真っすぐ見る由香ちゃん。
「逆にそれが無かったら、そもそも人体実験なんて要らないんだよ。人間の身体に、AIを接続する事で出来上がる知的生命体、これが深層守護者計画の目標であって、AIの行動も、赤ちゃんの心は無視できないはずだよ」
「なら……良かった……」
 由香ちゃんは少しホッとして、ベッドの上のシアンを見つめた。
 
 すると、
「うぇ、誠さん、これどうすんの?」
 向こうで美奈ちゃんが、ステンレスケースの中を見て、顔をしかめながら声をかけてくる。
 そこには、摘出した赤ちゃんの目玉が入ってる。
 
 ヤバい!
 そんなの由香ちゃんが見たら、卒倒しかねない。
「あー、適当にやるから放っておいて」
 俺は必死に平静を装い、適当にあしらう。
「適当にってどうすんのよ? その辺に捨てるわけには、いかないでしょ?」
「い・い・か・ら、放っておいて!」
 俺は内心イラつきながらも必死に平静を装う。
「何よ! 私には言えないようなこと?」
「いや、そうじゃないから黙ってて!」
「黙れってどういう事よ!」
 美奈ちゃんもヒートアップしてしまう。
 やりあってる俺たちを見て、由香ちゃんが美奈ちゃんの方を見る。
「何ですかそれ?」
「何でもない、見なくていいよ~」
 俺は冷や汗をかきながら、ごまかそうとしたが……
「これよこれ! 目玉」
 美奈ちゃんが、見せてしまう。
 俺は思わず天を仰いだ。この人、致命的にデリカシー足りないと思う。
 みるみる青くなっていく由香ちゃん。
「えっ!! 目玉取っちゃったんですか!?」
 声を裏返らせながら、俺を問い詰めてくる。
「い、いや、目玉はカメラに取り換え……」と、言い訳をする間もなく、
「鬼!! 悪魔!! ひとでなし!!」
 
 由香ちゃんは、ベビー服をムチのようにして、俺をビシビシと打ち据え、
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!! シアンちゃぁぁん!! うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 号泣してしまった。
 オロオロしていると、
「もう! 信じらんない!!」
 ベビー服を俺に思いっきり投げつけ、部屋から走り出て行ってしまった。
 美奈ちゃんは『やっちまった』という感じで、ひどく申し訳そうな顔をしている。
 俺がにらみつけて、(あご)で『追いかけろ』とドアの方を指すと、
「ちょっとフォローしてくるわ!」
 そう言って、由香ちゃんを追いかけて、出て行った。
 俺は投げつけられたベビー服をひろい、淡くプリントされた可愛いクマさんをじっと眺める。
 冷静に考えれば、由香ちゃんの方が正常だ。狂ってるのは俺たちの方だろう。
 俺は大きく息を吐いて頭を抱える。
 由香ちゃんには改めて、自分たちがやっていることの非道さを、突きつけられてしまった。
 たとえ無脳症であっても、人類のためであっても、人間は一人一人かけがえのない存在である。こんなことはやってはいけないのだ。俺はこの罪を一生背負って生きねばならない。
 せっかく手術が成功したのに、俺は心の底に鉛を流し込まれたような気持ちで、しばらく動けなくなった。





 
 
4-9.女難の相
 
 シアンはもうAIの制御下なので、放っておくとピクリとも動かない。呼吸や心臓の鼓動くらいまではやってくれるが、自分の意志で動かす動作は、全て止まってしまっている。
 しばらくミルク飲みも無理なので、栄養は点滴で摂ってもらうしかない。
 
 次の工程は、感覚神経と運動神経のマッピングである。赤ちゃんのすべての神経線維をAI側に確実に接続していくのだ。これはマウスの時に経験済みではあるが、規模が圧倒的に違うので、手間と難度は格段に高い。エンジニアチームには申し訳ないが頑張ってもらうしかない。
 試行錯誤に憔悴(しょうすい)していくエンジニアチームを、美味しい物で支えたり、シアンの健康をチェックし、体を拭いてやったりしながら一週間、ようやく接続に目途がついた。
 これでシアンは、品川のIDCにある膨大なコンピューター群を頭脳に持った、人類史上初のAI生命体となったのだった。

         ◇

 いよいよ本格的な学習フェーズに入る。まずは、AIの好奇心回路から発生する欲求を、手足の筋肉の運動に繋げ、その結果を感覚で、フィードバックを得てもらうようにした。
 シアンは最初は、手足がピクピクするだけであったが、そのうち、手を上げ下げするようになった。
 しばらくして、上からアンパン〇ンのおもちゃを垂らすと、手を伸ばすようになってきた。最初は、ぎこちなく触るだけだったのが、そのうち段々と動きが速くなってきて、最後にはパンパンと叩き始めた。
 
 さらに、声をかけると「あー」とか「うー」とか返事をする。
 学習のためには多様な刺激を与えた方がいい、という事で、子守はメンバーが変わりばんこで対応している。
 
 俺はシアンの目の前で、アンパン〇ンのぬいぐるみを動かしてみる。
 目がぬいぐるみを追いかける。
 近づけたり遠ざけたり、右に左に動かすと…… ちゃんとついてくる。
 では、これはどうかな?
 右手から左手に、素早くぬいぐるみを投げる…… ついてくる。
 うーん、すごい。
 今度は、メロンパ〇ナちゃんのぬいぐるみも出してきて、二つを同時に動かしてみる。
 二つを目の前においてアンパン〇ンは右に、メロンパ〇ナちゃんは左にそーっと動かしてみる。
 すると目が、左右に別々に開いて行ってしまった。
 アンパン〇ンだけ動かすと左目だけ動いてる。
 左右の目が別々に動くというのは、初めて見たが、極めて気持ち悪い。
 さすがにこれはマズいので、マーカスを呼ぶ。
 マーカスは見るなり、
「ウヒャー! コレハ ダメ デース!」
 と、天を仰いだ。
 AI的には、それぞれの物を追いかけるのは正しいのであるが、人間の守護者になるなら、人間の目の動きをトレースしてもらわないと、人体実験の意味がない。
「I'll fix it! (直すよ!)」
 
 そう言ってオフィスに降りて行った。
 
 しばらくして、直したというので、もう一度やってみると、今度は両目がちゃんと同期している。
 メロンパ〇ナちゃんは無視し、アンパン〇ンだけ追いかけ続けるようになった。
 メロンパ〇ナちゃんより、アンパン〇ンの方がお気に入りらしい。
 
 シアンと遊んでいると、美奈ちゃんがやってきた。
「はーい、誠さん、交代よ!」
 ニッコリと可愛い表情に癒される。
「あー良かった。結構疲れるんだよね、子守」
 そう言って出て行こうとすると、美奈ちゃんに後ろ襟をガシッとつかまれた。
 おえっ!
 首が締まって吐きそうになる。
「ちょっと待ちなさい! これを見て!」
 美奈ちゃんはそう言いながら、シアンのオムツを開いた。
 黄土色のねばねばが、異臭を放っている。
 うんちだ。
 
「乙女に、こんな物を処理させようとしたわね!」
 澄んだ瞳に怒りの色が宿る。
「え? ちょっとまって、気づかなかっただけだよ!」
「うんちに気づかないなんて、ちゃんと子守やってたの!?」
 鋭い正論に言い返す言葉が無い。
「……ごめんなさい」
 俺はお尻ふきを持ってきて、シアンのお尻を丁寧に拭く。
 アソコの所にも、うんちがついてしまっているので、丁寧に拭く。
 
「あら、誠さん上手いじゃない」
 美奈ちゃんがニヤニヤしながら褒めてくる。
「それもセクハラだぞ」
 うんちがアソコの所に残ると、感染症になるので、綺麗に拭かないといけない。
 俺は鼻を突く臭いに顔をしかめながら、丁寧に拭く。
 あらかた拭き終わったら、新しい紙オムツをお尻の下に敷いて、後はテープを留めるだけ。
「はい、さっぱりしまちたね~!」
 俺はうんちの紙オムツを丸めながら、シアンに話しかける。
「あー」
 シアンは半ば機械的に返事を返す。
「女の子の扱い方上手じゃない! 慣れてるの?」
 美奈ちゃんはニヤニヤしながら言う。
「残念ながら慣れてないんでちゅよ~」
 そう言いながら、シアンの足を優しく動かしてみる。
「うー」
 オムツは上手くフィットしているようだ。
 改めて、マシュマロより柔らかな赤ちゃんの感触に、感動するとともに、こんな繊細な生き物を、ちゃんと育てて行けるのか不安がよぎる。
「こんな赤ちゃんが、人類を背負う守護者になるとか、まだ想像できないよなぁ……」
「何よ、急に弱気になって」
「弱気って訳じゃない、ただピンと来ないってだけ」
「えー」
 シアンが何かを言っている。
「ほらシアン、何かすごい所見せてやって!」
 シアンに無茶振りする美奈ちゃん。
「えー」
「まだ無理だよなぁ?シアン」
「ぶー」
「……この子、言葉分かるの?」
 美奈ちゃんが怪訝(けげん)そうにジッとシアンを見つめる。
「あー」
「いや、まだ音声認識回路は、出来上がってないと思うんだが……」
「ぶー」
「ねぇ、シアン、私って綺麗?」
「あー」
「ほら、分かってるわよ」
 美奈ちゃんはうれしそうに言う。
「いや、その確認方法はおかしい」
 俺は腕組みをして、首を横に振って言った。
「えぇ……、じゃぁ……私がママよ~!」
「ぶー」
「ママは由香ちゃんだよな?」
「あー」
「むむ、認識してるっぽいな」
 美奈ちゃんは、ブスっと膨れた顔で言う。
「なによ、シアン、面倒見てやんないぞ!」
「ぶー」
「そんな大人げない事言っちゃダメだよ」
「あー」
「誠は先輩ばっかり贔屓(ひいき)して、私には冷たいの! 酷いと思わない?」
 美奈ちゃんは俺をにらみながら、シアンに言う。
「あー」
「あぁ、シアン、あなたは分かってくれるのね!」
 うれしそうに、小さな可愛い手を取る美奈ちゃん。
「あー」
「いやいや、贔屓なんてしてないって!」
「ぶー」
「ほらほら、シアンはちゃんと分かってるんだから。こないだだって先輩のことハグしてたじゃない」
 (にら)みつけてくる美奈ちゃん。
「いやいや、あれはすごいショックを受けてたから……」
「私がショックを受けてる時は放置なのに~」
「ぶー」
「んんん? ショックを受けてる時なんてあった……?」
「ほら、私の事なんて全然見てないのよ!」
「ぶー」
「悪かった、悪かった」
 俺はすかさずハグしようとすると、
「今やれ、なんて言ってないわよ!」
 そう言って俺の手をピシッと叩く。
 一体どうしろというのか。俺はシアンに聞いてみる
「シアン、この女心分かる?」
「あー」
「ほら、赤ちゃんにでも分かる事なのにねぇ」
「あー」
『なんだよ、お前達!』
 こんな理不尽な話聞いたことがない。
「じゃぁ! 俺がショック受けてる時は、ハグしてくれるの!?」
 俺がそう憤慨すると、美奈ちゃんはすっと俺に近寄り、ハグしてきた。
「なに? こうやって欲しいの?」
 俺はふわっとブルガリアンローズの香りに包まれ、動けなくなった。
「い、いや、別に今やらなくてもいいよ……」
「今やらなくていつやるの?」
 そう言いながら、ギュッときつくハグをしてくる。
 いや、これは本格的に……マズい。
 柔らかく温かい美奈ちゃんの胸が押し付けられ、俺は理性が飛びそうである。
「……。お、俺がショック受けた時にお願い」
「なに? 嫌なの?」
 あたふたする俺を見上げ、楽しむかのように笑顔を見せる美奈ちゃん。
「い、嫌なんかじゃないよ……」
「なら……いいじゃない……」
 そう言ってまた、きつく抱きしめてくる。
 女性の身体ってこんなにも柔らかかっただろうか? 俺の心臓がかつてなく早打ちし、目の前が真っ白になった。
 
 Clank(ガチャ)
 いきなりドアが開いた。由香ちゃんだ。
「シアンちゃん、新しいオムツ、よ……」
 抱き合う俺達を見て固まる由香ちゃん。
 持ってた紙オムツのパックが床に転がる。
「あ、由香ちゃん、こ、これは……」
 Bang(バタン)
 由香ちゃんは走って出て行ってしまった。
「あーあ」
 俺をハグしたまま、うれしそうに言う美奈ちゃん。
「ちょっと! 誤解を解かなきゃ!」
「何? 逃げるの?」
 上目遣いでニヤッと笑う美奈ちゃん
「社内で抱き合ってるなんてマズいよ!」
「自分は先輩とハグしてたのに?」
「いや、あれとこれとは……」
「何が違うの?」
「え? な、何がって……?」
「なぁに?」
 勝ち誇ったように、うれしそうに言う美奈ちゃん。
「そ、それは……」
「冗談よ!」
 そう言って美奈ちゃんは、俺を軽く突き飛ばし、
「早く行きなさい、私はシアンの子守だから」
 そう言って、つまらなそうな顔をしてベビーベッド脇の椅子に座った。
 いきなりハグされ、そして突き飛ばされる。一体彼女は何を考えているのだろうか?
 俺は翻弄されて頭が回らない。
 ただ、美奈ちゃんなりに不満がたまっていた、というのだけは良く分かった。
「……。悪かった……よ。気配りが足りてなかった」
「バカじゃないの! 早く出てって!」
 美奈ちゃんはそう言って、紙おむつを俺に向かって投げた。
 俺は転がる紙おむつを拾い、棚に置いて、
「ごめん……、後はよろしく」
 と、力なく言って部屋を出た。
 怒られてしまった……。
 トボトボと階段を下りる俺。
 
 オフィスフロアで、由香ちゃんはPCに向かって仕事をしている。
 俺は一瞬ためらい、しかし意を決して言葉をかけてみる。
「あー、由香ちゃん、さっきのは美奈ちゃんがふざけてただけだから……」
 由香ちゃんは、PCの画面を見ながら淡々と言う。
「なんでそんな言い訳じみたこと、私に言うんですか?」
「あー、いや、俺と美奈ちゃんが、特別な関係だと思われちゃうとちょっと……」
「別に、誰が何してたって自由じゃないんですか?」
 由香ちゃんはPCを見たまま、トゲのある声で答え、さらに追い打ちをかけてくる。
「それより早く領収書清算してください! いつも遅くて困ってるんです!」
「あ……ごめん」
 俺はトボトボと自分の席に戻る。
『女難の相だ……』
 一体どこで間違ってしまったのだろうか? 俺は頭を抱える。
 だが、何度思い返してみても、俺に非があるとは思えない。なぜ俺は怒られ続けているのだろうか?
『理不尽だ……AIならこんな事態にならないのに……』
 そう憤慨したが……、何かを見落としているような違和感が俺を貫く。
『なんだ……?』
 俺は大きく息を吐き、丁寧に違和感の正体を追った……。
 そして、ようやくその正体にたどり着く。
『逆だ……』
 理不尽だから人間なのだ。全部合理的なら従来のコンピューターでいいのだ。
 俺はここで初めて『人間とは何か』に一歩近づいた。
 俺は思わず天を仰ぎ、そしてつぶやいた。
「そうだよ……、人間は理不尽の中に宿るのだ」
 美奈ちゃんも由香ちゃんも人間なのだ。だから理不尽に輝くのだ。俺は胸のつかえがとれたようにニヤッと笑った。
 しかし……、喜びもつかの間、今後を考えて途方に暮れる。
「何も解決してないじゃないか……」
 俺は頭を抱え、深くため息をついた。