二週間に及ぶエンジニアチームの活躍で、マウスは基本動作を一通りできるようになった。
 飛んだり跳ねたり歩き回ったり、物をつかんだり鳴いたりして、もはや普通のマウスと遜色ない動きを見せてくれる。
 
 さて、いよいよこれから、AIマウス・シアンが自律的な学習をして、知的生命体として育ち始める。
 一体、どんなマウスに育つのだろうか? 全く想像がつかない。
 初代シアンと大差ないお馬鹿さんかもしれないし、一気に人類の守護者レベルにまで、達してしまうかも知れない。
 みんな胸を膨らませて、学習プロジェクトをスタートさせた。
 
 部屋に巨大な鉄道模型の様な、大きなジオラマを用意して、そこにシアンを放して学習させてみる。
 ジオラマには芝生や植木や岩場、プールやジャングルジムなど、いろいろな体験ができる要素を加えた。
 
 AIには、初代ロボット・シアンのAIをベースにした物をマーカスが調整し、実装済みだ。
 
 さて、学習スタート!
 エンジニアチームは皆、画面を食い入るように見つめて、流れていくログや、ステータス表示に異常がないか探している。
 俺は美奈ちゃんと実験室で、シアンの動作を観察する。
 
 シアンは最初、ロボットみたいにぎこちなく、周りの様子をうかがっていた様だったが……
「あ、動き出した!」
 美奈ちゃんがうれしそうに声をあげる。
 まずは芝生の上を真っすぐに歩く。
「おぉ、まずは歩き出したか。次はどうするのかな……」
 しばらく歩いたら、今度はUターンして元に戻り始めた。
 どうしたんだろうか?
 
 怪訝(けげん)な顔で見ていると……しばらくしてまたUターンした。
 一体何をやってるのか良く分からない。
 見てると、またUターンである。
「これ……? 大丈夫?」
 美奈ちゃんが不安げに言う。
 壁に掲げられた大画面モニターには、ステータスが表示されており、特に異状は見られない。
 品川のIDCにある、AIチップの稼働率は60%を超えていて、相当頭使ってる状態だ。
 
「何かを感じて学習していると思うから、いつまでもこうじゃないと思うんだけど……」
 俺も不安になってきた。
 
 その後数十回Uターンを繰り返し、美奈ちゃんが飽きた頃、シアンは植木の方へと動いて行った。
「あら……、ついに何かやるみたいよ」
 あくびしながら美奈ちゃんが言う。
 
 シアンは植木の幹にぶつかると、後ずさりし、しばらく何かを考えた後、再度植木にぶつかった。
「誠さん、ずっとこんな感じなの?」
 美奈ちゃんはあきれたように言う。
「まだシアンは、生まれたばかりの赤ちゃんだからね、まずは一通り、何でも繰り返しやってみる所からが、スタートだろう」
「ふぅん……、じゃ、私は先輩ん所行ってるわ」
 そう言って出て行った。
 まぁ確かに、見てて面白い物じゃないな。
 俺も、植木の周りをぐるぐる回りだしたシアンを見た後、自分の席に戻った。
 
          ◇

 翌日、シアンはジャングルジムに挑戦していた。
 ジャングルジムに登るためには棒をつかむ動作が必要になるが、それをどうも理解できていないようだった。
 ぴょんと飛んでは跳ね返されて戻ってくる、というのを繰り返している。
 確かに失敗を繰り返す、というのがAIの学習には大切ではあるが、こう失敗続きだと学習にならないのではないか、と不安になる。
 
 後から見に来た美奈ちゃんも、すでに同じことの繰り返しで飽き始めている。
「なんでこうつかんで登らないのかしら?」
 美奈ちゃんは可愛いしぐさをして、首をかしげながら言う。
「つかんで登った経験が、まだ一度もないんだよ。一度でも経験出来たら違うんだろうけど……」
「手伝っちゃダメなの?」
 俺の顔をのぞき込んで聞く美奈ちゃん。
 いきなり至近距離にきた、女神様の美貌(びぼう)に、俺はドキドキしながら答える。
「て、手伝ってあげたくなっちゃうよね、でもマウスを手伝うって難しいから」
「あー、指なんかすごいちっちゃいからねぇ……」
「そもそも近づいたら逃げちゃうかも?」
 美奈ちゃんの目がキラッと輝く
「え? 逃げるの? やってみていい?」
 飽きてるから、何か面白い事をやりたいのだろう。
「ダメダメ! マーカスに怒られるよ!」
「大丈夫! 大丈夫! マーカス優しいから」
 そう言って、ジオラマに入ろうとする美奈ちゃんを、すかさず引き留める。
「ちょっと! 女神様! ダメダメ!」
 抱き着いた格好で、手が胸をムニュっとつかむ形になった。
 柔らかくふんわりとしたふくらみがすっぽりと手のひらに収まり、スレンダーで柔らかい美奈ちゃんの肉体が腕全体で感じられ、俺は理性が飛びそうになる。
「あー! どこ触ってんのよ!」
 美奈ちゃんが俺の手をピシピシ叩く。
「痛い痛い! 早く戻って!」
 俺はふんわりと立ち昇るブルガリアンローズの香りに包まれて、クラクラしながら言った。
「分かったから放しなさいよ!」
「いいからちょっと戻ってきて!」
「手を離すのが先でしょ!」
 もめていると、大画面モニタに鬼の形相をした、マーカスの顔が出た。
「Hey! Be quiet!! (静かにして!)」
 烈火の如き怒声が部屋に響く。
「Oh! Sorry……(ごめんなさい)」
 こんなに怒ったマーカスは初めてである。
 俺も美奈ちゃんも、先生に怒られた小学生みたいにしょんぼりとしてしまう。
「Get out! (出ていけ!)」
「は~い」「は~い」
 俺と美奈ちゃんは、目でお互いを非難しながら、ゆっくり部屋を出て、そーっとドアを閉めた。
「それみろ! 怒られちゃったじゃないか!」
「何言ってんの! 私の胸触ったくせに!」
「触りたくて触ったんじゃないぞ!」
「触りたかったくせに~!」
 言い争いしながら、オフィススペースに降りてくると、由香ちゃんの怪訝(けげん)そうな視線が刺さる。
 誤解させたかもしれない。
「先輩~! 誠に胸触られちゃったの~!」
 美奈ちゃんがオーバーに、被害を訴えながら由香ちゃんに走る。
「いやいや、由香ちゃん違うんだよ!」
「セクハラされた~!」
 ウソ泣きのしぐさで、由香ちゃんの胸に顔をうずめる美奈ちゃん。
 由香ちゃんが非難の目で俺を(にら)む。
 マズい、このままではセクハラ社長の烙印(らくいん)を押されてしまう。
「美奈ちゃんが、入っちゃいけない所にいきなり入るから、一生懸命止めただけなの!」
「あー! 傷物にされたー!」
 美奈ちゃんが大げさにわめく。
 由香ちゃんは、美奈ちゃんの頭をなでながら冷たい目で冷徹に言う。
「でも触ったんですよね?」
「いや、まぁ……」
 触った事実については抗弁できない。
「だったら、謝った方が良いかもしれませんね……」
「……。はい」
 俺は美奈ちゃんに謝った。
「……。悪かったよ美奈ちゃん」
 すると、美奈ちゃんはウソ泣きを止めて、
「最初からそう言いなさいよ!」
 と、ニヤッと笑った。
『くそぅ!』
 俺は眉をしかめ、歯を食いしばった。
 でも、柔らかなマシュマロのような、あの手触りは、確かにヤバかったので、致し方ないか……。
「先輩も誠には気をつけてね。どさくさに紛れて胸触るから」
「何てこと言うんだ! 由香ちゃんは『ダメだ』って言う事、しないから大丈夫だよね?」
「まぁまぁ、二人とも落ち着いてください、今、珈琲入れますから」
 由香ちゃんは大人である。
 美奈ちゃんは、勝ち誇ったにやけ顔でこちらを見る。
 とんだおてんば娘だ。
 
「Hi Everybody!(こんちわー)」
 玄関からにぎやかな男がやってきた。修一郎だ。
 タイミングの悪い奴だ。
「皆さん元気~?」
 妙にテンション高く、浮かれてる修一郎をみんな無言で見つめる。
「あれ? どうしたの?」
 修一郎が空気の違いを感じ取る。
「いや、何でもないよ、久しぶりだな、今日はどうしたんだ?」
 俺は冷静を装いながら、淡々と答える。
「いやー、由香先輩がジョインしたって言うからさー、様子見に来たんだよ」
 ニコニコとうれしそうに言う修一郎。
「そうそう、先輩は私の秘書になったのよ」
 美奈ちゃんが自慢気に言う。秘書ではないんだが。
「えー、俺にも秘書つけてよ~!」
 修一郎がバカなことを言い出すので、俺が拒否する。
「お前会社に来ないじゃねーか、秘書なんか要らんよ!」
「えー……」
「どうしても欲しければ、親父さんに付けてもらえ」
「パパはそういうの許してくれないよ……。まぁいいや、それでうちの会社には慣れた?」
 修一郎は由香ちゃんに振る。
「あ、そうね、なんとか……」
「美奈ちゃんに虐められてない?」
 美奈ちゃんのお(つぼね)化を心配する修一郎。サークル内で美奈ちゃんはどういう位置づけなのだろう?
「大丈夫! あ、セクハラはされた……かな?」
「セ、セ、セクハラ!?」
 修一郎はオーバーアクションで、わざとらしく言う。
「あんなの単なる愛情表現よ! 私が誠さんに胸もまれた方が、セクハラだわ!」
 美奈ちゃんは、両手で胸を守るしぐさをしながら被害を訴える。
「え―――――! 誠さん、それ犯罪ですよ! 姫の胸もんだ、なんてことサークルの連中にバレたら、うちの連中暴動起こしますよ!」
「いやちょっと、誤解だって!」
 また、ややこしい話になってしまった。
「でも触ったんですよね?」
 修一郎は興味津々で聞いてくる。
 またこれか……。
「いや……まぁ……」
 すると修一郎は、いきなり俺の肩を組んで、オフィスの隅まで連れてきてひそひそ声で聞いてきた。
「美奈ちゃんの胸には、胸パッドで盛り盛り疑惑があるんすよ。パッドでした?」
 なんだその疑惑は。
 俺はあのふわふわとした、マシュマロの様な手触りを思い出しながら答える。
「いや、触った感じそんなでは……」
 
「聞こえてんのよ! このエロ豚ブラザーズめ!」
 美奈ちゃんは、こっちに駆けてくると、書類を丸めて修一郎と俺の頭を スパーン! スパーン! と叩いた。
 オフィスにいい音が響く。
 何という地獄耳、なぜあの距離で聞こえてるのか?
 
 それにしても先日から胸で揉めてばかりだ、大丈夫かこの会社。







 
 
 
3-9.キスまで5センチメートル
 
 翌日、シアンは、ジャングルジムを登れるようになっていた。日々、急速に進化していくシアン、実に頼もしい。
 
 次は餌を使った学習だ。
 まず、餌をその辺において、自分で取って食べるように仕向けた。
 最初は恐る恐る、餌の匂いを嗅いで逡巡(しゅんじゅん)していたが、餌の美味しさに目覚めると、積極的に餌探しをする様になった。
 
 続いて、手で餌をあげるようにしてみると、人間を認識するようになった。
 俺が飼育部屋に入ると、走ってやってくるのだ。
 さらに、餌をあげずに焦らす様にしてみると……手を上げたり、お尻を振ったり、ダンスをする様になった。
 実に可愛い……
 これは美奈ちゃんに見せねばならない。
「おーい! 美奈ちゃん! ちょっとおいで!」
 俺はメゾネットの上の手すりから、下のオフィスにいる美奈ちゃんを呼ぶ――――
 しばらく待つと、
「何? もうセクハラは止めてね」
 そう言いながら、怪訝(けげん)そうな顔をして美奈ちゃんが部屋に入ってきた。
 俺は言い返すのをぐっとこらえて、
「まぁ、ちょっとやってみてよ」
 と、餌を渡し、シアンを指さした。
「なに? これをあげればいいの?」
 美奈ちゃんは受け取った餌を、恐る恐るシアンの前に出した。
 シアンは、美奈ちゃんの手の匂いを、クンクンと嗅いだ後、餌を両手でつかむと、カリカリと(かじ)って食べた。
「きゃー! かわいぃー!」
 大喜びである。
「餌を見せるだけで、焦らしてごらん」
「えー、かわいそう」
 渋い顔して嫌そうな美奈ちゃん。
「まぁいいから、やってごらん」
「分かったわよ……、ごめんね!」
 そう言いながら、美奈ちゃんは餌を見せながら、手に届かない距離で焦らした。
 シアンはジャンプしたりして餌に飛びつくが、美奈ちゃんは上手くかわす。
「いや~なんか、かわいそう」
「まぁ見ててごらん」
 餌をとるのをあきらめたシアンは、首を軽くぐるりと回すと、踊り始めた。
 両手をあげながら、右向いて左向いて、一度四つ足になって、また右、左。
「あら、何か踊ってるわよ。下手くそな盆踊りだわ」
「そうそう、シアンは餌が欲しいというのを、踊りで表現するんだ」
「へー、上手く踊れました! はい、ごほうび!」
 そう言ってシアンに餌をあげた。
 シアンは、うれしそうに両手をすりすりとこすって、餌を受け取る。
「あら、ありがとうって事かしら? かわいいじゃない」
 ニッコリと笑う美奈ちゃん。
「これをね、もっと上手く躍らせたいんだよね」
「え? もっと上手くなるの?」
「理論上は、世界一上手く踊れてもおかしくないよ。だってAIだもん」
「え~?」
 不審げに眉を寄せる美奈ちゃん。
「美奈ちゃんたちのサークルは、ダンスサークルだろ、ちょっと何か、見本を見せてやって欲しいんだよね」
「見本って……私に踊れって言うの?」
「いやいや、スマホで動画とか、見せてやって欲しいんだよね、何をどう見せたらいいか、俺良く分からんので」
「ふーん、盆踊りの次ねぇ……ソウルダンス?」
 そう言いながら美奈ちゃんは、スマホでソウルダンスの動画を検索し、シアンの前に置いた。
 画面の女性はリズミカルに軽く腰を落としながら、足を開いて右行って左行って、手はクラップ。
 音楽も流していい感じだ。
 シアンは警戒し、草むらに隠れてしまったが……スマホをじっと見ている。興味はあるようだ。
 さて、どうなりますか……。
 
 動画を繰り返し再生していると、音楽のリズムに歩みを合わせながら、草むらから恐る恐る出てきた。
「お、音楽には合わせてるね~」
 俺が感心してると、
「ビビってないで踊りなさいよ!」
 と、美奈ちゃんの(げき)が飛ぶ。いやいや、初見で踊れは無理だろう。
 そのうちにシアンは二足で立つと、身体を左右に振り始めた。
「お、いいぞ、盆踊り!」
 美奈ちゃんはうれしそうだ。
 さらに見ていると、今度はステップを踏み始めた。
「おー、いいねいいね!」
 そう言いながら、美奈ちゃんも踊り始めてしまった。
「シアン! こうよ! こう!」
 美奈ちゃんは、リズミカルに左右に重心を移しながら、足をシュッシュと伸ばし、肩を上手く使いながら腕を回し、収める。
「おー、さすが! 動きのキレが違うね~!」
「あったりまえよ!」
 調子が出て来たのか、足をクロスさせて本格的に踊り始めちゃう、美奈ちゃん。
 思わず見入ってしまったが、ふとシアンを見ると……踊ってる!
 なんと、美奈ちゃんの踊りをコピーしてるのだ。
 いや、これはすごい……。
 こんなダンス、俺には踊れない。
 確かに動きはぎこちないが、ちゃんと踊れてる。
 これを初見でコピーとは、シアンのポテンシャルの高さに思わず脱帽である。
「ハハッ! やるじゃんシアン! じゃ、これはどうかな!」
 そう言って、今度は足をくねくねさせながら、複雑なステップを入れてきた。
 負けじと、それをコピーするシアン。
 モニターに表示されているコンピューター稼働率は、百%で真っ赤になっている。AIは全力で美奈ちゃんのダンスを吸収しているのだ。
 なんだよ、そこまでついて行けるのか……
 俺はAIの性能の凄さに唖然(あぜん)とした。
 渾身(こんしん)の踊りを初見でコピーされた美奈ちゃんは、ムキになって、
「次はこれよ! ズールスピン!」
「あ! 床はダメ!」
 俺の制止も聞かずに、今度は床を使ってズールスピン。
 グルリと一回転目は決まったものの、二回転目でジオラマの壁にガン!と衝突。
「オゥフ!」
 喚きながら反動で、俺の方にゴロゴロ転がってくる美奈ちゃん。
「危ない!」
 俺は華麗にジャンプで回避する……が、着地点にシアンの餌が……。
「グアッ!」
 仰向けの美奈ちゃんの上に、覆いかぶさるように倒れ……。
 しかし、ガッシリと腕立て状態で、衝突は回避!
 俺の真下で、ハァハァと荒い息を立てて、紅潮する美奈ちゃんと目が合った。
 キュッキュッと琥珀(こはく)色の瞳が動く……。
 すぐ目の前で、ぷっくりとした美味しそうな唇が、ゆっくりと動いている。
 思わず見つめ合う二人……
 徐々に……キスしたくなる衝動に襲われ、少しずつ縮まる二人の距離……
 すると、美奈ちゃんがそっと目を閉じた。
『え?』
 目を瞑ったという事は、キスしていいというサインだと思う……のだが人生経験が足りない俺には全く判断がつかない。セクハラを誘っているのでは? という穿(うが)った見方すら頭をもたげる。
 透き通るような美しくしっとりとした肌、形のいいギリシャ鼻、そして熱い果実のような唇……
 本当に女神様の生まれ変わりの様な、尊いまでに美しい存在が、すぐ前でキスを待っている。そんな事本当にあるんだろうか? 夢? (だま)されてる? 俺は頭の中がグルグルしてしまい、ショートしたように何も考えられなくなった。
 そして怖くなった俺は逃げるように立ち上がり、何もなかったかのように美奈ちゃんの両手を取って、優しく引き起こした。
「……。」
 美奈ちゃんは、何も言わず立ち上がると、服に着いた(ほこり)をはらう。
「大丈夫? いいダンスだったよ」
 冷静を装って、そう声をかけると、美奈ちゃんは不機嫌そうにこっちを(にら)んだ。
「きょ、今日はセクハラじゃないよね?」
 引きつった笑顔で俺がそう言うと、美奈ちゃんはキッと(にら)んで、俺の頬を軽くはたいた。
「恥かかせたわね!」
 そう言って、美奈ちゃんはドアを『バタン!』と乱暴に閉め、出て行ってしまった。
 
 俺はあまりにいきなりで対応できず、はたかれた左の頬をさすりながら、立ち尽くしていた。
 やがて後悔や苛立ちのぐちゃぐちゃした混乱の海が押し寄せ、眩暈(めまい)を覚えた。
 
 触ったら「セクハラ!」、我慢したら「恥かかせた!」、一体どうしろというのか?
『無理ゲーじゃないか!』
 俺は、美奈ちゃんが出て行ったドアを思わず(にら)んだ。
 ただ……、認めたくはないものの、俺が人間として何か足りないという事を、再度突きつけられた気がした。『キスしてもいいよ』と言う女の子の弾む気持ちを無下にして、あまつさえ罠かもと疑って、体裁ばかり考えた俺のクズさが心を(さいな)む。
「はぁぁ~」
 俺は頭を抱えて大きく息を吐いた。
 人の心はかくも難しいものか……。
 
 ふと、見るとシアンは、頬をはたく真似をしている。
「そんなのコピーしなくて、いいんだよ!」
 俺がそう言うと、シアンはキョトンとして首をかしげた。
 そして流れ続ける音楽に乗って、さっきの美奈ちゃんのダンスを踊り始めた。
 
 滅茶苦茶上手い。
 さっきに比べてぎこちなさが減り、滑らかに動いている。
 小さな真っ白いマウスが、高度なダンスを軽やかに踊る――――
 これは凄い……、こんなの見た事ない。
 これ、YouTubeで流したら、きっと一億PVは行くだろう。一夜にして世界のスターだ。絶対そんな事できないのだが。
 
 俺は餌をシアンに出したが……。
 餌には目もくれずに踊っている。もはや、餌が欲しいから踊っている訳じゃないようだ。
 初代シアンは、決して踊らなかった事を考えると、リズミカルに身体を動かしたい欲求、というのが生身の身体には宿るのだろう。
 これは大切な知見と言える。
 
 でも……、女心の知見の方が……欲しかった……。

 すぐ目の前にあった、美しく曲線を描く(まつげ)、柔らかく潤いを含んだ(いちご)のような唇、そしてふんわりと上がってくるブルガリアンローズの香り……。思い出すだけで心臓のドキドキが止まらなくなる。
「キス……したかったなぁ……」
 キスまでたった5センチメートル。しかし、この5センチを超えられずダメ人間の烙印(らくいん)を押された俺は、はたかれた頬をゆっくりさすりながら、悶々(もんもん)とし……、頭を抱えてブルーになった。