「そう言えばシュウちゃんは?」
 美奈ちゃんは、リスみたいに珈琲のマグカップを両手で持って、聞いてくる。
「大学かな? 最近見ないなあいつ。slackには反応してるから、生きてるとは思うんだけど……」
 とは言え、彼に無脳症の赤ちゃんを使った実験を見せるのは、さすがに難しそうだ。
 彼は太陽興産とのパイプ役さえ、やってくれればいいので、オフィスに来ないのは好都合ではある。
 
「…。これ、太陽興産のレポート」
 クリスが手書きのメモをくれた。
 
 そこには達筆な字で、太陽興産が新規に扱うべき商材、やめるべき商材、新規に契約すべき会社、契約解除すべき会社、昇進させるべき社員、問題社員が丁寧に書かれてあった。
 
「ありがとう、清書して修一郎に渡すね」
 俺はニッコリと笑って感謝した。
 きっとこのメモ通りにやれば、売り上げも利益も一段上がるのだろう。まさに神のメモ。AIが完成するまでは、これを『AIの成果』と見せかけないとならないのが、やや鬱陶しいが、百億円には代えられない。
 
           ◇

「Hi Makoto! (誠さーん!)」
 オフィスの奥でコリンが呼んでいる。初代の仮想ロボット版シアンができたらしい。
 画面を見ると、3DCGの草原に、バボちゃんみたいなキャラクターが転がっている。ボールに目と口が付いて足と手が生えた、出来損ないみたいな奴だ。お世辞にもかわいいとは言えない。
 
「え~っ! かわい~!」
 一緒についてきた美奈ちゃんは、キラキラした笑顔で言い放つ。
「……。」
 女の子の感性は良く分からん。
 
 計画では、この仮想現実空間内のロボット版シアンを使って、AIに簡単な世界のルールを学習させる。
 コリンは自慢げに俺に言う
「I've already connected simple machine learning. Look.(すでに簡単なAIは入れました。見てて! )」
 
 そう言って、キーボードを操作すると、バボちゃんは手足をバタバタさせて、ズリズリ動き始めた。
「This guy's moving!(こいつ動くぞ!)」
 俺は思わず、叫んでしまった。
 3DCGではあるが、ヌメヌメと生き物のように動く様は、やはりちょっと気持ち悪い。
 
 美奈ちゃんが不思議そうに聞く、
「これは何やってるの?」
「いろんな行動を、学習させてるみたいだね。きっと立ち上がりたいんだろう。でも立ち上がるって、実はすごい複雑な制御が要るんだよ。立ち上がる事一つとっても、AIには試練なんだ」
「ふぅん、でも、立つだけだよね?」
 美奈ちゃんには、あまり理解されなかった。
 
 しばらく見てると、ズリズリやっていたAIが、何かの拍子で一瞬立ち上がった。
「あ、立った……あ、ダメかぁ……。頑張れ~!」
 美奈ちゃんは、画面をじーっと見ながら応援している。いい娘だ。
 AIは徐々にコツをつかんで、立ち上がる動作に、トライし始めるようになった。
 腕を振り回して、その反動の瞬間に足に力を入れると……立てそうなんだが、やはり絶妙なタイミングが必要で、失敗続きである。これは何度も試行錯誤して学習していくしかない。
 
 品川のIDCにある、数億円相当のAIチップ群が高熱発しながら今、必死にAIの壁を超えようとしている。
 実にロマンあふれるストーリーじゃないか。

           ◇

 翌朝出社すると、マーカスが笑顔で声をかけて来た。
「Hi Makoto. Take a look! (これ見て!)」
 画面では草原の中を、バボちゃんの様なロボット、初代シアンが走り回っている。
 一晩で立ち上がるどころか、走れるようになってる!
 とんでもない進歩である。
「WOW!」
 俺が大げさに喜んで見せると。
「チガウネ! モット ミテネ!」
 と、画面を指さす。
 シアンは急に走るのをやめ、忍び足になった。どういう事なのか見ていると……どうやら獲物を見つけたようだ。
 遠くに、リンゴに足が生えたような動物が、歩き回っている。
 獲物との距離を詰めると、シアンは一回止まった。そしてリンゴの動きを観察している。
 後ろで見ていた美奈ちゃんは、怪訝(けげん)そうに言う。
「あれ? 止まっちゃった……」
 
 何をしてるのだろう、と思って見ていると……、次の瞬間、全力疾走してリンゴに飛びついた。リンゴは直前で逃げようとしたが、間に合わない。シアンはリンゴを両手でつかみ、リンゴはパンと弾けた。
「わぁ! やった~!」
 美奈ちゃんが声を上げる。
「シアン Apple タベタネ」
 マーカスが笑顔で言う。
 なるほど、潰すと食べた事にしてるのか。
「シアンニハ ナニモ オシエテ ナイネ」
「え? この動作は、全部シアンが勝手に自動で学習したの?」
「そう、シアン カシコイ」
「Incredible!!(すげ~!)」
 いや、これは画期的な成果じゃないか?
 昨日、立てもしなかった原生生物が、今では知的なハンターになっている。なんだこの急速な進化は!
 マーカス達は、自慢げに胸を張っている。
 思わず、みんなとハイタッチしまくった。
「Yeah!」「Yeah!」「Yeah!」「Yeah!」
 『深層守護者計画』は今、確実に動き出した。失敗の許されない胃の痛くなるこのプロジェクトだが、出だしは予想以上の成果で飾られた。
『お前ら最高!』
 俺は急に胸がいっぱいになって、鼻の奥がツーンとしてきた。
 いきなりこんな極東の島国に呼ばれて、不慣れな社長の下で無理難題のテーマをお願いされて、それでも健気に凄い成果を叩き出してくれる……。
『ありがとう……』
 俺は潤んできた目をそっと拭った。
 そんな俺を見て、クリスは微笑みながらうなずいた。
 
 深層守護者シアンは、天才たちの手によって驚異的な速度で進化していく。
『お前と語り合える日も遠くないかもな』
 俺は走り回る不細工なロボットを見ながら、まだ見ぬ未来を想った。
 
2-5.チュベローズの誘惑
 その晩、修一郎は一人で銀座の街をトボトボと歩いていた。上品な街灯の明かりの下、楽しそうな人たちの雑踏の中を、下を向きながらいつものバーを目指す。
 夕方に、偶然聞いてしまった陰口が頭から離れず、家に帰る気にならなかったのだ。
『あいつはボンボンだからな』
『あいつが上場企業の社長とか、ぜってー無理』
『太陽興産は二代目が潰すって事だよ』
『親不孝だよな~。ハハハハ!』
 思い出すだけで気分が滅入る……。
「貧乏人はひがんでろ! 僕だってちゃんとできる!」
 そうつぶやきながら、バーのドアを開けると……カウンターに女性が一人。珍しい……。白いワンピースにチャコールグレーのジャケット、ワインレッドの丸いベレー帽で、長い黒髪が綺麗な美人だった。
 ちらっとこちらを見たので、軽く会釈をして、彼女から一つ空けて隣に座った。
「マスター、いつもの!」
「かしこまりました」
 美人がすぐそばに居るだけで、陰口の事なんてどうでも良くなってくる。男って単純だ。
「マスター、こないだ、良かったね。弘子さんと話しできて」
 修一郎はおしぼりで手を拭きながら、明るい声で声をかける。
「本当ですよ、あんな事あるんですかね? でも、弘子に『幸せだった』って言ってもらえて本当に良かった」
「マスター顔色良くなったじゃん!」
「おかげ様で。はい、モスコミュール」
 彼女がマスターにおずおずと声をかける。
「あの~、何かあったんですか?」
 そして、修一郎の方をちらっと見てニッコリと笑った。
 修一郎は、彼女のゾクッとするほど(なまめ)かしい黒く透き通る瞳に魅了され、慌ててぎこちなく笑い返した。
 バーテンダーは
「この方のお友達が、イタコみたいな事やってくれてね……。死んだ妻と話ができたんです」
「死んだ人と話ですか!?」
「いや、ただの話術に(だま)されただけかもしれませんよ。でも、おかげで心はすっきりできたので、私は感謝しているんです」
「でも三年前の浮気って……」
 修一郎が突っ込むと、
「あ、いや、その話は止めましょう……」
 バーテンダーは両方の手のひらを修一郎に向け、恥ずかしそうにうつむいた。
「ふぅん、何だか面白い方達ですね」
 彼女はそう言って、爽やかに笑った。
 バーテンダーは
「この修一郎君は有名大学の学生で、かつAIベンチャーの役員なんですよ。すごいでしょ?」
 客同士をさりげなくマッチングさせるのも、バーテンダーの腕だ。
「え? すごぉい!」
 彼女は大きく目を見開いて、オーバーにアクションする。
「あはは、マスター嫌だなぁ、大したことないよ」
 修一郎は謙遜しながらも、満面の笑みで言った。
「そんなすごい人に出会えるなんて、今日はツイているわ。私は冴子って言います。この素敵な出会いに乾杯しましょ!」
 彼女は修一郎の隣の席に移り、白く細い指で長い黒髪をかき上げながら、グラスを差し出してきた。
 柔らかく透き通る白い肌に、濡れたような真っ赤な唇……、そして、フワッとチュベローズの香りが流れ、修一郎はドギマギしながら高鳴る心臓のままグラスを合わせた。
「カンパーイ!」「カ、カンパーイ!」
 修一郎はグイっと飲み干すと、ライムの爽やかな香りが鼻に抜け、今までにない美味しさに酔った。
 冴子はそんな修一郎を優しい微笑で温かく見つめる。
『今晩は素敵な夜になっちゃうかも!?』
 修一郎は冴子のまなざしにすっかり魅入られて、陰口の憂さもどこへやら、すっかり上機嫌になった。
「マスター! おかわり!」
 そう言って修一郎はグラスをマスターに突き出す。
「おいおい、絶好調だな」
「まあね、僕にも運気が回ってきたかも」
 修一郎はこみ上げてくる喜びを隠さず答えた。
「修一郎さんはどちらの大学ですか?」
 冴子が小首をかしげながら聞いてくる。
「応京です」
「わ~すごい! 名門ですね! 私は令和大学なんです。応京には憧れちゃいます!」
 冴子は両手を顔の前で合わせ、オーバーアクションで持ち上げる。
「憧れなんて……大したことないよ。へへへ」
 冴子はバーテンダーの方をちらっと見て、グラスを持ち上げると、修一郎に少し近づいて微笑みながら言った。
「やられてるAIベンチャーって、どういう会社なんですか?」
 修一郎はドギマギしながらグラスを軽く回し、ちょっと考えて言った。
「マーカスって言う、世界一のAIエンジニアがいるんだ。彼がまたすごくてね……」
「世界一!? すごぉぉい!! そんな会社の役員だなんて、修一郎さんってとてもすごんですね!」
 よいしょされまくって浮かれる修一郎は、頭をかきながら言った。
「あはは、冴子さんうまいなぁ。マスター、彼女にもおかわり! 今日は僕がおごっちゃうよ!」
『そう、僕はすごいんだ! 僕がいなかったらDeep Childなんて、スタートもできなかったのだ! 僕は人類にとって重要な男なのだ!』
 すっかり調子に乗った修一郎は、この夜、モスコミュールを八杯も飲んだ。

        ◇

 夜も更け、二人で盛り上がっていると、急に冴子が修一郎の手に自分の手を重ねてきて言った。
「修一郎さん、私ちょっと……飲みすぎちゃった……かも……」
 修一郎は、慌てて言う。
「そ、それは大変だ……。お水……もらおうか?」
 冴子は上目遣いに(うる)んだ瞳で修一郎をジッと見ると、
「修一郎さんって、優しいのね……。大丈夫、ちょっとだけ休ませて……」
 そう言って、修一郎に身体をもたれかけてきた。
 修一郎は、ふんわりと上がってくるチュベローズの香りに心臓が高鳴る。
 二の腕に当たる、ふくよかな彼女の胸の感触にすっかり魅入られてしまい、どうしようかと修一郎が悩んでいると、冴子は修一郎の手を取り、愛おしそうに指を絡めてきた。
「そ、そうだ。ちょっと行った先に休める所あるよ、や……休む?」
 修一郎がそう言うと、冴子はゆっくりとうなずいた。

 この日、修一郎は家に帰ってこなかった――――