全速力で駅に戻り、学校へ向かう。九重壁に寄ってからの登校だけど、かなり早くに家を出たからか、校門から校舎へ続くまでの道に、生徒はまだほとんどいない。今になって、この高校のどこに彼がいるのか、いつ来るのか、肝心なことを聞いていなかったことを思い出した。
さすがにこんなに朝早くにはまだいないか。そもそもどうしてここで会えるんだろう。ここで会えるどころか、どうしてこの世界に彼がいるのだろう。……彼も、世界交流体験をしに来た?それでこの高校に通うことになった?そんな都合のいいこと起こりうるのだろうか?
とりあえず一旦教室に荷物を置いて落ち着こう。少しだけ心に余裕ができたら、本当はすごく疲れていることに気がついた。教室へ着いたらゆっくりお茶でも飲もう。それから彼を探そう。
はあ、と大きく息を吐きながら階段を登りはじめた時、
「この演奏……」
どこからとなく聞こえてきたピアノの音色に、ハッとする。
知っている。この演奏を、知っている。
ノクターン、第二番。
ショパンが残した楽譜よりも、ゆっくりめのテンポ。強弱が緩やか。楽譜にはないところで少しだけ力強く音が発せられる。
階段を駆け上る。
ありえない。
でも、この演奏をできるのは、私以外に一人しかいない。
私自身の癖が反映された演奏を、ここまで忠実に再現できる人は、一人しかいない。
音楽室のドアを勢いよくあける。
あまりの大きな音に、少し離れた場所にいた一人の生徒が勢いよく振り返る。
けれど、ピアノを弾いている本人はこちらをみない。
「嘘……」
こんなこと、起きるはずがないと思っていた。
むしろ、起きる可能性すら考えたことがなかった。
演奏を終えた彼の肩を叩くと、誰もいないと思っていたのか、彼は振り返る前に慌てふためき、椅子から転げ落ちそうになった。
その姿に、彼と出会った日を思い出す。じわりと視界がぼやけた。
「高橋くん……」
名前を呟いてから、相手は私のことはわからないのだと気づいた。私があちらの世界を去ったと同時に、彼の頭の中から私の存在は消えているはずで。
名乗らなければ、と彼を見つめると、彼は私よりもずっと大きく目を見開いた。
『いずもと、さん?』
確かに彼の口はそう動いたはずで。
「どうして……」
どうして、私のことを覚えているの。
どうして、ここにいるの。
驚きのあまり、お互いに見つめたまま固まり合う。それはすごい長い時間のように思えた。
そんな静止した時間を解いたのは、高橋くんだった。彼はピアノのそばに置いていたスマートフォンを手に取ると、文字を打ち込む。
テキストでのやりとりが懐かしく、胸がいっぱいになる。
【もしかして、泉本さんも世界交流、していたの?】
彼の質問を見て、ようやく働かない頭でも状況を理解し始めた。
世界交流体験では、被験者は、別の世界での記憶を忘れない。
彼には私の記憶があって、私にも彼の記憶があるということは。
【高橋くんも、世界交流であっちの世界へ行っていたの?】
私の言葉に、高橋くんは深く頷く。
彼の言葉を見て、また涙が溢れ出る。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた。
でも、彼はここにいる。彼は、この世界にいる。
彼の存在を確かめるように、彼の長く綺麗な指を掴む。すると高橋くんは、ギュッと私を抱きしめてくれた。
「泉本さん」
ささやくような、小さな声。不明瞭で弱々しい声。
それでも、今まで生きてきて、間違いなく一番と言えるほど嬉しかった。大好きな彼に、名前を呼んでもらえたことが。初めて彼の声を聞くことができた。
【俺、後悔していたことがある。泉本さんにあったらすぐに伝えたいと思っていたことがある】
高橋くんは抱きしめていた腕を緩めると、優しい目で私を見つめた。
「泉本さんが、好きです」
たどたどしい言葉。それでも十分すぎるほど気持ちは伝わった。だって、話すことをやめた彼が、”声”で伝えてくれたのだから。
「ありがとう……」
また涙が溢れる。彼は「もう、いつまで泣くの」と言いたそうに苦笑したけれど、彼の目にもうっすらと涙の膜が張っている。
私の涙が止まるまで高橋くんは隣で背中をさすってくれた。
さすがにこんなに朝早くにはまだいないか。そもそもどうしてここで会えるんだろう。ここで会えるどころか、どうしてこの世界に彼がいるのだろう。……彼も、世界交流体験をしに来た?それでこの高校に通うことになった?そんな都合のいいこと起こりうるのだろうか?
とりあえず一旦教室に荷物を置いて落ち着こう。少しだけ心に余裕ができたら、本当はすごく疲れていることに気がついた。教室へ着いたらゆっくりお茶でも飲もう。それから彼を探そう。
はあ、と大きく息を吐きながら階段を登りはじめた時、
「この演奏……」
どこからとなく聞こえてきたピアノの音色に、ハッとする。
知っている。この演奏を、知っている。
ノクターン、第二番。
ショパンが残した楽譜よりも、ゆっくりめのテンポ。強弱が緩やか。楽譜にはないところで少しだけ力強く音が発せられる。
階段を駆け上る。
ありえない。
でも、この演奏をできるのは、私以外に一人しかいない。
私自身の癖が反映された演奏を、ここまで忠実に再現できる人は、一人しかいない。
音楽室のドアを勢いよくあける。
あまりの大きな音に、少し離れた場所にいた一人の生徒が勢いよく振り返る。
けれど、ピアノを弾いている本人はこちらをみない。
「嘘……」
こんなこと、起きるはずがないと思っていた。
むしろ、起きる可能性すら考えたことがなかった。
演奏を終えた彼の肩を叩くと、誰もいないと思っていたのか、彼は振り返る前に慌てふためき、椅子から転げ落ちそうになった。
その姿に、彼と出会った日を思い出す。じわりと視界がぼやけた。
「高橋くん……」
名前を呟いてから、相手は私のことはわからないのだと気づいた。私があちらの世界を去ったと同時に、彼の頭の中から私の存在は消えているはずで。
名乗らなければ、と彼を見つめると、彼は私よりもずっと大きく目を見開いた。
『いずもと、さん?』
確かに彼の口はそう動いたはずで。
「どうして……」
どうして、私のことを覚えているの。
どうして、ここにいるの。
驚きのあまり、お互いに見つめたまま固まり合う。それはすごい長い時間のように思えた。
そんな静止した時間を解いたのは、高橋くんだった。彼はピアノのそばに置いていたスマートフォンを手に取ると、文字を打ち込む。
テキストでのやりとりが懐かしく、胸がいっぱいになる。
【もしかして、泉本さんも世界交流、していたの?】
彼の質問を見て、ようやく働かない頭でも状況を理解し始めた。
世界交流体験では、被験者は、別の世界での記憶を忘れない。
彼には私の記憶があって、私にも彼の記憶があるということは。
【高橋くんも、世界交流であっちの世界へ行っていたの?】
私の言葉に、高橋くんは深く頷く。
彼の言葉を見て、また涙が溢れ出る。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた。
でも、彼はここにいる。彼は、この世界にいる。
彼の存在を確かめるように、彼の長く綺麗な指を掴む。すると高橋くんは、ギュッと私を抱きしめてくれた。
「泉本さん」
ささやくような、小さな声。不明瞭で弱々しい声。
それでも、今まで生きてきて、間違いなく一番と言えるほど嬉しかった。大好きな彼に、名前を呼んでもらえたことが。初めて彼の声を聞くことができた。
【俺、後悔していたことがある。泉本さんにあったらすぐに伝えたいと思っていたことがある】
高橋くんは抱きしめていた腕を緩めると、優しい目で私を見つめた。
「泉本さんが、好きです」
たどたどしい言葉。それでも十分すぎるほど気持ちは伝わった。だって、話すことをやめた彼が、”声”で伝えてくれたのだから。
「ありがとう……」
また涙が溢れる。彼は「もう、いつまで泣くの」と言いたそうに苦笑したけれど、彼の目にもうっすらと涙の膜が張っている。
私の涙が止まるまで高橋くんは隣で背中をさすってくれた。



