きみがいる、この世界で。

2週間ぶりに訪れた九重壁は、人影ひとつなくひっそりとしていた。既に太陽は水平線の下に隠れていて、海も暗闇に包まれつつある。きっと私が今日最後の訪問者だろう。私にとっては都合が良い。周りを気にせずに考えごとに没頭できるから。

いつものように、崖の先端まで歩いていく。ザブンザブン、と、波がぶつかり合う音がいつもより大きい。九重壁にも、きっと本格的な冬の訪れがきた証拠だ。

5ヶ月前、もっと海が穏やかだったあの日、私は確かにここから、この場所から、あちらの世界へ行った。鈴木さんに声をかけてもらって。あちらの世界で過ごした時間は楽しくて、暖かくて、輝いていて、少し切なくて。私にとって特別過ぎた時間だったからこそ、あちらの世界で過ごした1ヶ月という時間は、本当に存在していたのか、実は夢だったんじゃないか、とさえ思ってしまう時がある。

でも、これほど、息をするのさえ苦しいほど彼が恋しいのだから、きっと本当に実在した時間だったのだろう。

会えない時間が増えるにつれ、どんどん大きくなって、いつの間にか「会いたい」と思う気持ちと同じほど大きくなってしまった「会えないかもしれない」という絶望感を誤魔化すように、大きく息を吸って吐く。


高橋くんに会いたい。もう一度だけでもいいから会いたい。
この気持ちはこちらの世界に帰ってきたあの日から全く薄れていない。
それは自信を持っていうことができる。

それなのに、どうしても最後の最後で、この世界を離れる決意を固めることが出来ない。

きっとそれは、今が、昔に願った通りになっているから。毎日学校へ行って、友達とおしゃべりをして、たまに放課後は遊びに行く。家では相変わらず、お母さんとお父さんと食卓を囲む。たまに、お弁当箱を出し忘れたり帰宅時間が遅くなるのに知らせなかったりして怒られたりすることもあるけれど、私が想像して、そして願っていた”普通”の生活が、今は当たり前のように存在している。

あれだけ願った”普通”の生活を捨ててまで、あちらの世界へ行って高橋くんに会いたいのか。あちらの世界に戻っても、彼は外国に行ってしまったから、もう一度会える確証はどこにもない。それに何より、自分を大切に育ててくれた両親を置いてまで、この世界を去っていいのか。

いや、高橋くんに会えるなら、なんだってするんじゃなかったのか。だからこの世界へ戻ってきたあの日、鈴木さんに『あちらの世界へ行きたい』と頼んだんじゃなかったのか。彼に会いたいと思う気持ちと覚悟は、こんなにも軽いものだったのか。
 
彼に会いたい気持ちは嘘じゃない。

それでも、この世界へ戻っていて4ヶ月も経つのに、私はこの世界を離れる決心ができていない。この世界を離れるのが寂しくて怖いと、どうしても思ってしまう。