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 いつまでも休んでいるわけにもいかず、私は翌日、学校へ行った。

 いつものように、始業時間より三十分早めに到着するように家を出る。

 早く行ったって、もう修ちゃんに会えるわけじゃないのに。ただ、この習慣をやめてしまうと私の中の修ちゃんが消えてしまう気がして、結局高校に上がった今でも続けている習慣だった。

 今日のお昼休みは、屋上に行くのはやめよう。

 今日、だけじゃなくて、これからもずっと。もう、蓮くんとどんな顔をして会えばいいのかわからない。

 とにかく、蓮くんが修ちゃんに言われていやいや私のそばにいたのなら、もうそんなことはやめてほしかった。

 理由はわからないけれど、そんなことされたら私の方がつらい。本心では私のそばにいたいわけじゃない人と、一緒にいられるわけがない。

 修ちゃんが何をどう蓮くんに言ったのかはわからないけれど、もしそれが蓮くんの心を無視するようなことであれば、そんな〝お願い〟は反故にしていいと思った。

「おはよ」

 教室に入ると、井上さんがもう自分の席に座っていて、びくりと体が揺れてしまった。

 ……蓮くんのことを考えていたせいで、井上さんのことをすっかり忘れていた。

 井上さんとも、気まずくてどんな顔をしたらいいのかわからない。蓮くんは一番遠いクラスだからまだマシだけれど、井上さんは私の目の前の席。卒業まで同じクラスだし、逃げることなんてできない。

 気まずい私をよそに、井上さんはいつも通りの笑顔を浮かべている。

 私もそっと、おはよう、と返してみたものの、あまりに小さい声だったので彼女の元まで届いたかはわからなかった。

 井上さん、なんでこんなに早くに来てるんだろう。

 そう思いながらも、答えはひとつしか思い当たらなかった。私と二人きりで話すためだ。その可能性を思い出せてさえいたら、せめて今日は井上さんと二人きりにならないように、遅刻ギリギリに登校していたのに。

 ……でも。

 ふと、疑問がよぎる。

 井上さん……今までなんで、早く登校していたんだろう。

 いつも授業中に寝てしまうくらい、眠がりなのに。早く来たって、何か用事がある風でもないのに。いつも私と朝の挨拶をして、時々意味のない雑談をしてはホームルームまでスマホをいじってるだけなのに。

 どうでもいいことを考えながら席に着くと、私を目で追っていた井上さんが、私の心を読んだかのように話し出した。

「……私さぁ、相澤さんと話すきっかけ欲しくて、いつも朝早く来てたんだ。中学までは遅刻魔だったんだけどね。知らなかったでしょ」

 驚いて、体が固まった。

 私と……話すために?

 井上さんはふふ、ともう一度笑うと、話を続けた。

「あとねぇ、相澤さんと席が前後になるように、前の席変えの時に不正したの。元々この席のクジをひいてた子から、窓際に行きたいからお願いっ!って無理言って交代してもらってさ。すごくない? 私の努力」

「修ちゃんに……頼まれたから?」

〝修二のお願いでしょ?〟

〝修二が悲しむよ〟

 井上さんも、蓮くんと同じ。

 修ちゃんに言われるがまま、私と仲よくしてたの?

 修ちゃんが、私と仲よくしてあげてほしいって頼んだの?

 今まで、井上さんと友達みたいに話せてこれたのはうれしかった。でも、頼まれたからって無理やりそうしてたのならショックでしかない。

 私は今、きっと不安な気持ちを隠せない表情をしている。

 でも、井上さんはいつものように、明るい笑顔を携えたままだった。

「……ねぇ。たまにはさ、授業サボんない?」



 屋上に出ると、心の中とは裏腹に、さわやかな風が吹いて私の気持ちを少しだけ和ませた。

 井上さんが、両手を空に伸ばしながら、うーっと気持ちよく息を吸う。柵に寄りかかる井上さんにつられて、私も井上さんの横に立った。

 空は雲ひとつない晴天。地上を見下ろすと、ぽつぽつと登校する生徒たちの姿が見えた。

 なのに、この世界には私たち二人しか存在していないように感じた。

 蓮くんといた時も、そう。ここにいるといつも下界はただのミニチュアになって、この場所は何も気負いすることのない、自分たちだけの空間になる。

 そして、心のうちに秘めていた言葉が溶け出して、自然体になれるのだ。

 不思議な場所……。

 そんなことを考えながらグラウンドを見つめていると、景色を楽しみ終えた井上さんが話し出した。

「私、屋上って好きなんだ。ここの鍵古いから、ピンセット突っ込むと意外と開くこと知ってね、たまに来てた。風が気持ちいいよねー、空が近いし」

 井上さんが、何かを掴もうとするように右手を空へ伸ばす。

 その仕草がなんだか美しくて、やっぱり井上さんと私は本来なら別の世界に生きる人間なんだろうな、と思えた。

「天国があるとしたらさー、ここにいれば修二との距離もちょっと近くなる気がするしね」

 修二……。

 私の目の前で、はじめて井上さんの口から修ちゃんの名前が出された。

 その事実に違和感しか感じられなくて、動揺する。でも同時に、本当に知ってたんだと冷静に見ている自分もいる。

 修ちゃんからは、井上さんや蓮くんの話なんて聞いたことがなかったのに。

「……ごめんね。私、ずっと秘密にしてた」

 伸ばしていた手をだらりと下ろすと、井上さんは両腕を柵にもたれさせた。

 私も同じように、柵を掴む。

 もし今この柵が倒れたら、私たちは二人して転落死してしまうのかなとぼんやりと思った。

「私と修二と蓮、はね。中学の頃、同じ塾だったんだ。私と蓮はこの高校の編入目指しててさ。修二が、私たちが目指してる学校の生徒だっていうから知り合ったの。でも修二、うちらより全然成績悪かったもんだから、不公平だー、なんて言い合ってさ。中学受験でがんばったからこそ、今修二がいい学校に行けてるってことはわかってたけどね。それでも修二があまりにばかだから、腹立つ!ってよく騒いでた。でも、成績競ってるうちに結局仲よくなって、よく一緒に遊んでたな」

 塾のつながりだったんだ。

 修ちゃんが塾に行ってることも、私は知らなかった。

 修ちゃんのお母さんは比較的教育熱心な人だから、修ちゃんはイヤイヤ行っていたのかもしれない。

 修ちゃんは明るくて遊ぶことが大好きで、ガリガリ勉強するタイプじゃなかったから、塾に行ってるなんて恥ずかしくて言えなかったのかもしれない。

「修二さ、よく話してた。相澤さんのこと。幼馴染とこの店来たことあるんだよなーとか、幼馴染も甘いもの好きなんだよねーとか。私と蓮は、もう耳にタコができるくらい聞かされてた。私といる時もさぁ、話すことは相澤さんのことばっかりで。やんなっちゃう。デートしてるのに、他の女の子の話しないでほしいよ」