「うひゃー! 大漁! 大漁!」

 台風一過の青空の下、伊豆の磯で小学校四年生の和真(かずま)は潮風を浴びながら網を振り回し、絶好調で魚をすくっていた。

「あっ! パパ! そっちデカいの行った!」

「よし来た! 任せろ!」

 和真のパパもノリノリで思いっきり網を水面に叩きつける。

「ヨシ!」「ヤッター!」

 台風直後は水が(にご)り、酸欠で魚がプカプカ浮いてくる。カラフルな熱帯魚からアジやイワシまで、すくい放題だった。

「ここで、こんなに獲れるなら、突端の向こうまで行ったらもっと大物が獲れるよ!」

 和真はウキウキしながら言う。

「和ちゃん、そりゃ断崖絶壁の向こうじゃないか、落ちたら死んじゃうからダメダメ!」

 パパは渋い顔で首を振る。

「え――――っ! すごく大きいお魚獲ってママをびっくりさせようよ」

「いやいやいや、あんな崖、無理だよ」

「パパなら行けるって! お願い!」

 和真は手を合わせてパパを見る。

 パパは和真の顔をじーっと眺め、ふぅと大きく息をつくと言った。

「じゃあ、行けそうか様子を見るだけ見てみるか」

「やったぁ!」

 和真は両手を振り上げてピョンと飛ぶ。凄い大物が獲れたらどうしようと、わくわくで胸がいっぱいだった。

 パパはじっと断崖絶壁の岩を見つめ、しばらくルートを確認すると、軽くジャンプしてでっぱりに取り付いた。そして、ヒョイヒョイとボルダリングをやるように登っていく。パパの黄色い上着が、まるで断崖絶壁の上を()うクモのように、するすると突端へ向かって動いていった。

「すごい、すごーい! 頑張れー!」

 和真はノリノリで応援する。

 しばらく上って和真の方を振り返ったパパは、

「いや、これ、怖いんだけど……」

 と、渋い顔を見せた。

「大丈夫、大丈夫!」

 適当なことを言う和真にパパは、

「おまえなぁ……」

 と、いいながら足場を確保し、また奥の出っ張りへと腕を伸ばした。



 やがて突端にまで到達したパパは向こうの入り江をのぞき込む。

 和真は手に汗を握りながらそんなパパをじっと見守っていた。



 その時だった。

 ぐはぁ!

 パパは変な声を上げるとバランスを崩す。

「パパぁ!」

 和真は焦り、叫ぶ。

 果たして、パパはそのまま真っ逆さまに落ち、

 ザバーン!

 と、激しい水音を立てながら岩場の向こうの海へと消えていく。それはまだ幼い少年の和真の心をえぐるには十分すぎる絶望的な悲劇だった。

「パ、パパ――――ッ!」

 和真は急いで崖に飛びついた。パパを助けないと、ただその一心で必死に登っていく。

 しかし、小学生の和真にはどうしても手が届かない段差に阻まれる。

 くぅ……!

 和真は覚悟を決め、全ての力をこめてジャンプする。なんとしてでもパパのところへ行かねばならない。

 しかし、指先は空を切り、願いむなしくそのまま磯へと落ちていく。

 ぐはぁ!

 全身をしたたかに打ち付け、ゴロゴロと転がる和真。

 口中に血の味が広がっていく。

「うわぁぁぁ! パパ――――ッ!」

 磯にはただ、血まみれの和真の悲痛な叫びだけが響いていた。



        ◇



 ――――それから六年。



「パパぁ!」

 和真はガバっと起き上がり、辺りを見回す。そこはいつもの自分の部屋だった。

 ふぅと息をついて布団をパンと叩く。

「またあの夢か……」

 高校生になった和真は、いまだにパパを殺してしまったことにさいなまれていた。

 パパの遺体は原形をとどめていなかったが、その破れた上着の黄色に和真は現実を突き付けられたのだった。

 泣き崩れるママに、和真は自分がパパを煽ったことを言い出せず、それがまた心の重しとなって和真の人生に影を落としていた。

 危険行為上の死亡となって生命保険は下りず、ママはシングルマザーとして朝から晩まで忙しく働くはめとなり、笑い声の消えた家は寂しく、味気のない空間となってしまった。そんな暮らしの中、和真はちょっとしたイジメで心の糸が切れ、不登校になってしまっていた。



 ドタドタと足音がする。



「おっはよぉ――――!」

 ドアがいきなりバーン! と開き、嬉しそうな顔をして幼馴染の芽依(めい)が突入してきた。

 白いワンピースにダボっとしたグレーのニットを羽織った芽依は、キラキラした笑顔を振りまきながら和真のベッドにダイブする。

「ドーン!」

 可愛い効果音を叫びながら飛び込み、チラッと和真を見上げる。

 寝ぼけ眼の和真は仏頂面で、

「あのなぁ、入るときはノックしろっていつも言ってんだろ!」

 と、芽依をにらんだ。

「だってもう十時よ? いくら日曜だって寝すぎじゃない?」

 ニコニコしながら答える。

「十時でもノックは要るんだけど?」

「……、あら、すごい寝汗。どうしたの?」

 芽依は起き上がって和真の額に手を伸ばすが、和真ははねのけた。

「あー、何でもない!」

 そんな和真をジッとみつめる芽依。そして、背中から優しく和真をハグした。

「またパパさんのこと思い出してたのね……」

 ふんわりと立ち上る甘酸っぱい優しい香りに包まれ、和真はドキッとする。

 そして目をつぶって大きく息をつくと、

「いや、もう、終わった話だから……」

 そう言いながら芽依の手をポンポンと軽く叩いた。

「辛くなったらいつでも芽依に言ってね?」

「……。大丈夫……、ありがとう」

 和真はお転婆ながら自分のことを考えてくれる芽依の優しさに感謝しながら、軽くうなずく。

 そして、ふぅと息をつくと、聞いた。

「で、メタバース教えに来てくれたんだろ?」

「そうそう、仮想現実が今後の社会を変えるからね。和ちゃんも慣れておかなきゃ!」

 芽依はそう言うが、動かない。

「おい、くっついてちゃできないだろ?」

「あら? 君はJKがこんなにサービスしてるのに嬉しくないの?」

 芽依はちょっと不満そうにぎゅっと胸を押し付けてくる。

「サ、サービスって……」

「可愛い幼馴染がいて良かったわねぇ……」

 そう言って和真の耳たぶにふーっと息を吹きかける。

 からかわれてムッとした和真は言い返す。

「サービスって言うのは、もっとバーンとしたふくらみなんじゃないの?」

「フフーン」

 しかし芽依には謎の余裕がある。

「な、なんだよ?」

「君はツルペタの方が好きだって、芽依は知ってるんだなぁ……」

 ギクリとする和真。

「お、お前まさか……」

 和真はつい本棚の方を見てしまい、芽依は嬉しそうに答える。

「まさか何?」

「……。見たな……」

「何を?」

 ニヤニヤする芽依。

 くっ! 和真は思わず顔を両手で覆った。ロリ系の薄い同人誌を本棚に隠しておいたのが見つかったに違いない。しかし、それを口にするわけにもいかない。

 くぅ……。

 いろいろと言い訳を考えてみるが、どんな言い訳も自爆にしかならなかった。

「君は芽依くらいなのが好みなんでしょ?」

「……。ノーコメント!」

 和真は芽依の手を払いのけ、バッとベッドを下りる。そして、真っ赤な顔で芽依を指さして言った。

「ちょっと準備してくるから動くなよ!」

「アイアイサー!」

「人の物を勝手に見るのはプライバシーの侵害だからな!」

「え? 見られちゃ困る物まだあるの?」

「ま、『まだ』ってなんだよ!」

「分かったわよ。もう見ないわ」

 芽依は布団に潜り込み、顔だけ出してうれしそうに笑った。

「全くもう!」

 和真はドタドタと洗面所へと走った。





















2. 宇宙へ伸びる滝



「はい! これ着けて!」

 着替えて戻ってきた仏頂面(ぶっちょうづら)の和真に、芽依はヘッドマウントディスプレイを渡した。目を覆うごついガジェットで、これを装着すれば仮想現実空間にダイブできるのだ。

「かぶるだけで……いいのか?」

 和真は恐る恐る受け取り、バンドを引っ張って具合を確かめる。そして不慣れな手つきでディスプレイを装着した。

「うわっ! なんだこれ!?」

 視界全面に展開される、宇宙船の内部のような映像に和真は声を上げる。その高精細な映像は首の動きに追随して動くので、まるで自分が宇宙船の中にいるような錯覚に襲われた。

 すると、向こうの方から可愛い女の子のアバターが近づいてきて手を上げる。白を基調としたぴっちりとした服は豊満な胸を強調し、オレンジ色の鮮やかなラインが入ったスニーカーを履いている。

「はぁい!」

 和真が戸惑っていると、

「これが私よ?」

 そう言ってウインクした。

「め、芽依? 随分と……」

「随分と何よ?」

 そう言いながらモデルのように体をくねらせ、胸を強調しながらポーズを決める芽依。

「お、大人だなって」

 つい、その豊かな胸に目が行ってしまう和真。

「ふふっ。大人な私もいいでしょ? 和ちゃんも慣れたら自分のアバターをいじってみるといいわ」

 と、ニヤッと笑った。



 和真が操作方法を試行錯誤してると、

「さぁ行くわよ!」

 と、芽依のアバターはすたすたと向こうの方へ行ってしまう。

「あっ! ちょっと、待ってよぉ!」

 和真も急いでよたよたしながら追いかける。



 通路の向こうは広いホールのようになっており、個性的に着飾ったアバターが行きかっている。そして、壁のそばにはきらびやかな映像のパネルが空中に何枚も並んでいて、まるで美術館のようだった。芽依はそのうちの一つの前で止まる。

「最初はここのワールドにしましょ」

 そこには美しい水の街が映し出されており、中央に【Enter】というボタンが浮いている。

「ま、任せるよ」

 そんな気おされ気味の和真を見て、芽依はいたずらっ子の顔でうなずく。そして和真の手を取ると、ボタンを押した。

 ピュン!

 という効果音とともに真っ暗になり、キラキラとした光の筋がゆるやかに流れはじめる。そして、【入国審査】という文字がふんわりと浮かんできて赤く点滅した。



「うわぁ……」

 和真はキョロキョロしながら自分の周りを覆うきらびやかな幾何学的な光の筋のアートに見入った。



 直後、

 ビュヨン!

 と、いう音が響いて一気に視界が開け、青空が広がる。

 そこは水の街の上空、何と空中だった。

「おわぁ!」

 思わずわたわたと手足を動かしてしまう和真だったが、別に落ちるわけでもなくふわふわと浮かんでいる。

「きゃはは、仮想現実なんだからあわてなくても大丈夫よ」

 芽依は楽しそうに笑い、和真は顔を赤らめて頭をかく。



 そこは絶景だった。眼下には湖のほとりに作られた中世ヨーロッパ風の石造りの街が広がっている。街には水路が縦横無尽に通っており、ヴェネツィア風のゴンドラが行きかう。そして圧巻なのが、街の中央の池から上がる水の柱【スカイフォール】。それは下の方が太く、それが徐々に細くなっていきながら、どこまでも澄んだ青空を突き抜けて宇宙にまで達していた。



「うはぁ……。あれ、どうなってんの?」

 まるで宇宙エレベーターのように、はるかかなた上空まで続く水の柱は、限りなく透明で清らかな(あお)色を放っている。

「行ってみましょ!」

 芽依はニコッと笑うと、和真の手を握ったままツーっと空中を飛ぶ。

「うわぁ!」

 まだ空中での姿勢の取り方に慣れない和真は、バランスを必死に取りながら、芽依に引っ張られていく。



 スカイフォールに近づくと、思ったよりも大きく、そのスケールは圧巻だった。タワマンくらいの太さのある、清らかな青い水の柱が一直線に宇宙までつながっているのだ。燦燦(さんさん)と輝く太陽の光に照らされて、表面がキラキラと輝き、美しいアクセントとなっている。

 そして、近づいて分かったのだが、水はゆっくりと上空へ向かって流れている。つまり、池から宇宙に向かって水が吸い上げられているのだった。

「うわぁ……」

 和真は圧倒されながらその澄んだ水に手を伸ばす。すると、ビュヨン、と音がして入口がぐわっと開いた。

「え!?」

 予想外の展開に驚く和真。

 芽依はニヤッと笑うと、

「さぁ行きましょ!」

 と、和真の手を取って中へと案内した。























3. 十万円で売れた落書き



 中は高級ホテルのような上質な雰囲気で、木材で作られた廊下が伸びており、そこを進むと突き当りが巨大な丸い吹き抜けだった。

 見上げると、まるで高層ビルのように見渡す限り無数のフロアが構成され、各フロアはそれぞれ個性的なインテリアがのぞいている。多くの人が楽しそうに吹き抜けを行きかい、フロアでは楽しそうに話している。まるで数千階建てのイオンモールといった風情だった。

 そしてあちこちに出ている看板はアニメキャラやレトロなネオンサインなど華やかで、文字も英語や中国語など多彩な言語が並んでいる。

「うはっ、これはすごい!」

 その圧倒的ににぎやかな雰囲気に和真は目を輝かせた。

「このスカイフォールは一つのショッピングモールであり、オフィスビルであり、都市なのよ」

「都市? ここはゲームの世界……だよね?」

「ゲームって言ったって百万人同時接続してるからもう生活基盤だし社会なんだわ。居心地いいからゲーム関係なくここにオフィス構えてる会社もあるし、ゲームの中でお金儲けもできちゃうのよ」

「ゲームで金儲け!?」

 想像もしなかったことに和真は目を丸くする。

「P2E(Play to Earn)と言って、ゲームで得たものが高値で売れちゃったりするのよ。知り合いはそれで億万長者だわ」

「遊んだだけで?」

「遊んだだけよ?」

 芽依は肩をすくめる。

「……、ちょっとそれ、教えてくんない?」

「焦らない、焦らない」

 芽依はニヤッと笑ってそう言うと、和真の手を取って吹き抜けに飛び込み、上空へツーっと飛んだ。

 どこまでも続くフロアはまさに都市そのものだった。百万人の人がこのスカイフォールの中で遊んだり商売したり会議したりしているのだ。物理法則を無視できる仮想現実空間ならではのダイナミックな構造物に和真は圧倒されていた。

 ある階はクラブのようなきらびやかな照明が瞬き、ある階は森林のようだった。そして、楽しそうに活動している人々、それはたかがゲームだと思っていた和真の先入観を根底から破壊した。

 しばらく上ると、芽依は大理石でできたシックなフロアに着地する。



「ようこそ私の画廊へ」

 芽依はそう言いながら重厚なドアを開けた。

「『私の』って……何? ここ芽依のなの?」

「そうよ。この部屋は私が買ったんだ。百万円くらいしたけど」

「ひゃ! 百万!? どうしたのそのお金?」

 和真は目を丸くして芽依を見つめた。とても一般の高校生買えるような金額じゃない。

「描いた絵をね、NFTというブロックチェーンデータにして売ってるのよ」

 そういって芽依は壁に飾られているアートを紹介した。

 それは点の集合体で作られたピクセルアート、いろいろな表情の犬の絵がずらりと並んでいた。

「え? 何、この落書き。こんなの買う人なんているの?」

 和真は怪訝(けげん)そうに絵を眺める。

「落書きとは何よ! これ、十万円くらいで取引されているのよ?」

「十万!? 買う人バカじゃないの!?」

 和真は額に手を当てて宙を仰ぐ。

「分かってないわねぇ、十万で買った人は二十万で売るのよ」

「へっ!? どういう……こと?」

「NFTアートの市場は今どんどん大きくなってるから持ってると値上がりするのよ」

 芽依は嬉しそうに笑った。

「じゃぁ、買った人は儲けるために買ってるの?」

「そうよ、それに彼ら仮想通貨で億単位で儲けてるからね。十万円くらい小遣い感覚よ」

「はぁ~、何それ……」

 和真はゆっくりと首を振った。

「おかしいとは思うんだけどね。でも、この流れは誰にも止められないわよ」

「いやいや、そんなのただのバブルだって。現実を見なきゃ!」

「もちろんこんな絵が十万で売れるなんてこと、いつまでも続かない。でも、これからもっともっと多くの人がこの世界に入ってくるわ。そして、人口が増え続けている間はバブルは続いちゃうんだな」

「それって……いつまで?」

「三年から五年じゃないかな? それまでに何億円か稼げたら足を洗うわよ」

 芽依はニコッと笑った。

「何億って……、どうやって?」

「例えばこのスニーカー、これ、CriptoEllasseの初期の作品なんだけどこのシリーズは世界で三十足しかないのよ」

 芽依は自分が履いている、オレンジ色に輝くラインの入った先進的なデザインの靴を指さす。

「へ? それで?」

「今だと数千万円で売れると思うわ」

「は? この靴が?」

「そう、これが」

「やっぱおかしいよ……」

 和真は目をつぶって首を振った。

「で、これ、多分来年には億に達すると思うわ」

「この靴で億万長者ってこと? ……。ほんと、バカバカしい!」

「バカバカしいと笑うか、バカバカしいなら儲けるかどっちがいい?」

 芽依はニヤな目で和真を見る。

「……。そりゃぁ……儲けたい……」

「はっはっは! みんなそうなのよ。だからどんどん値段は上がっちゃうの」

 芽依はドヤ顔で笑い、和真は大きく息をついた。















4. ハッカー集団の脅威



「じゃあ、芽依画伯の十万円の落書きでも見させてもらうわ」

 と、和真は壁に並んでいる犬のドット絵をつらつらと眺めていった。

 純白の大理石の壁にうやうやしく掲げられたピクセルアート。子供が描いたような落書きがまるで名画のように飾られている様は、何度見ても滑稽(こっけい)だった。しかしこれを十万円で買う人がいるのだ。和真は思わずため息をついた。



 その時だった、ギギィと音を立ててドアが開く。お客が来たらしい。

「いらっしゃいませ」

 芽依はすかさず接客に回る。

 客は若い男で、原色のキツいジャケットにチャラチャラとしたアクセサリーを揺らしながら入ってくる。そして、つまらなそうな表情で犬の絵をぐるりと見まわし、

「これはあんたが描いたの?」

 と、ぶっきらぼうに聞いてくる。

「そ、そうです。これでも二次流通は……」

「真似ばっかりでグッとクるものがないのよね」

 虹色の髪の毛をかき上げ、吐き捨てるように言った。

 芽依はふぅと息をつくと、

「ご意見ありがとうございました。お帰りはあちらです」

 と、出口を指さした。

 つまらなそうな男は、帰ろうと思って振り向きざまに芽依の足元を見てハッとする。

「ちょっ、ちょっと待って……、あなた、そのスニーカー百万で売ってよ!」

「いやいや、これはリストしてないんです。非売品です」

 芽依は慌てて断る。百万円なんかでは絶対に売れないのだ。

 男は芽依にぐっと近づくと、にらみつける。

「……。あのねぇ、スニーカーは履く人によって値段が決まるのよ? あなたが履いてたんじゃ高値はつかないわ」

「いや、あなたのファッションにこのオレンジラインは合わないと思いますね」

 芽依はムッとして答える。

「何? あんた私のファッションにケチつける気? 私はハッカー集団HackinGreedyの幹部よ? 舐めたら痛い目にあうわよ!」

 恐ろしい形相で男は吠えた。

「ハッカー集団? ならなおさら売れませんね」

 芽依は毅然と答える。

「何あんた、ハッカーを舐めてんじゃないの? ハッカーこそがこの世界を支配してるのよ?」

「システムに取り付く寄生虫、ダニみたいな連中が『支配』なんですか?」

「ダ、ダニ!?」

 男は怒りのあまりぶるぶると体を震わせる。

 そして、ずいっと芽依に迫ると、男は言った。

「あんた、ここが仮想現実空間だから何言っても平気だと思ってんじゃない?」

「実際平気ですよね、殴られるわけでもないんだし」

「なめやがって……。奥の手使って(なぶ)ってやるしかないわね……」

 男はニヤリといやらしい笑みを浮かべる。

 後ろで見ていた和真は、男の目の奥に揺らめく怪しい光に底知れぬ恐怖を感じ、現実世界で装着していたヘッドマウントディスプレイを投げ捨て、隣で余裕を見せている芽依のヘッドマウントディスプレイを力任せに引きはがした。

「うわっ! 何するのよぉ!」

「いや、あいつヤバイって! 身元がバレたらどうすんだよ? 襲われるぞ!」

「大丈夫だって! あんな奴口先だけなんだから」



 と、その時、和真が引きはがしたヘッドマウントディスプレイからモコモコと煙が上がる。

 うわぁ!

 思わず投げ捨てる和真。

 シュワシュワシュワ、と不気味なお湯が沸くような音が部屋に響き渡る。

「か、和ちゃん、何これ!?」

 芽依は和真の腕にしがみつく。

「わ、分からん……」

 やがて立ち上った煙が集まっていき、何かの形を構成していく。

 それを固唾を飲んで見守る二人。

 直後、激しい閃光が走り、二人とも手で目を覆った。



「はっはっは! ハッカーから逃げられると思った?」

 部屋に男の声が響く。

「えっ!? なんで?」

 芽依は驚き、恐る恐る目を開けると、そこに立っていたのは先ほどの男だった。

 メタバース内と全く同じ格好をし、ドヤ顔で和真の部屋に立っている。それはあり得ない事態だった。



 ひっ!

 芽依は急いで逃げ出そうとしたが、男は指先から触手のようなものを素早く射出し、あっという間に芽依をぐるぐる巻きに縛り上げてしまう。

 いやぁ――――!

 悲痛な叫びが部屋に響いた。

















5. 金髪おかっぱの龍



「何すんだよ!」

 和真はおもちゃのバットをつかむと男に殴りかかるが、男は冷静に指先から何かを放った。すると、パン! という音がして、バットは四角いブロックノイズに包まれ、消えてしまった。

 えっ!?

 あまりのことに混乱していると、男はニヤッと笑い、和真に対しても触手を射出する。

 和真は払いのけようとしたが、触手はつるつると滑り、なすすべなくぐるぐる巻きにされ、床に転がされてしまう。

 ぐはぁ!

「あぁ! 和ちゃん!」

 芽依は悲痛な叫びをあげる。

「さーて、お仕置きタイムよぉ」

 男は嬉しそうにそう言うと触手を操作して芽依を足から持ち上げ、逆さ吊りにする。ワンピースがめくれ、縞柄のショーツが丸見えになってしまう。

 いやぁ!

 芽依は必死に抵抗しようとするが、触手の力は圧倒的で身動きが取れなかった。



「ハッカーってすごいでしょ? 生意気な小娘は思う存分(なぶ)ってやらないとね」

 男は嬉しそうに芽依のすらっとした太ももを撫でた。

「何すんのよぉ!」

 くねくねと身をよじらせる芽依。

「止めろ――――! お前それ犯罪だぞ!」

 和真は叫ぶ。

「犯罪? そんなの捕まんなきゃいいだけよ。あんたはこの小娘が凌辱(りょうじょく)されるのをゆっくりと見てなさい。ふふふ」

 そう言うと男は芽依をベッドの上に転がした。

 ひぐぅ!



 男は新たな触手を芽依の両足に絡めると、大きく広げる。

「止めてぇ!」

 悲痛な叫びを上げる芽依。

「あら、まだ処女なの? いい声で鳴かせてあげるわ」

 男はそう言うとショーツに手をかけ、むしり取った。

 いや――――っ!

 悲痛な叫びが部屋に響き渡る。

「てめー、ふざけんな!」

 和真は芋虫のように器用に床をはって男に迫ったが、

「はっはっは! バカねぇ」

 と、(あざけ)り笑う男にあっさりと蹴り飛ばされた。

 くぅ……。

 和真は顔を歪ませ、男をにらむ。

 そんな和真を満足そうに見下ろすと、

「さぁて、ショータイムよ!」

 男はニヤッと笑い、むしり取った縞柄のショーツを和真に放った。



 その時だった、いきなり部屋に閃光が走る。

 うわぁ!

 思わずギュッと目をつぶる和真。



「こん、()れもんがぁ!」

 少女の声が響き渡り、いきなり空中から現れた人影が男を蹴り飛ばした。

 ぐほぉ!

 たまらず床を転がる男。

 えっ!?

 和真が見上げると、おかっぱの金髪に赤い瞳をした女子中学生のような娘が腕を組んで嬉しそうに仁王立ちしている。透き通るようなすべすべの肌に整った目鼻立ち、その美しい顔には自信が満ちていた。



 そして、彼女は、

「ハッキングは重罪じゃぞ! キャハッ!」

 と、楽しそうに笑う。

 男はよろよろと起き上がると、

「お前……、いいところを邪魔しやがって……」

 そう喚くと、少女をにらみつけた。そして、セイヤッ! と掛け声をかけ、触手を射出する。

 しかし、少女は瞬間移動のように男の胸元までワープすると、

「ざーんねん!」

 と、叫びながら、中腰になって綺麗なフォームで正拳突きを放った。

 ぐふっ!

 男は吹き飛ばされ本棚に激突し、倒れてきた本棚から降ってくる本たちに埋もれた。

「き、貴様……。管理局(セントラル)の犬だな……」

 男はギロリと少女をにらんで言った。

「犬じゃない、龍じゃ」

 少女は余裕の表情で見下ろす。

「くっ! 死ねぃ!」

 余裕を失った男は指先を光らせるとシュッと横に腕を振り切った。

 ビュヨン!

 不思議な電子音とともに空間が切れ、

「うわぁ!」

 と、少女は慌ててかがむ。

 少女の真紅のヘアクリップが真っ二つに切れてはじけ飛び、美しい金髪がパラパラと散った。

「あっ! ヘアクリップが……。何すんじゃ!」

 目を三角にして怒った少女は指先を男に向ける。すると、キン! という音とともに指先を中心に空間が波打ち、同心円状の波紋が部屋に広がっていく。

「やべっ!」

 男は焦って逃げ出そうとしたが、男を中心に球状に切り取られた空間は断絶されて縮み始め、男は逃げ場を失った。

 男は必死に何か術を出して逃げようと画策するが、発動せずに途方に暮れる。

 アパートの床や壁もろとも徐々に縮退していく男は、顔を真っ青にして、

「わ、悪かった。なんでもする! 許してくれ!」

 と、必死に懇願し始めた。

 しかし、少女はドヤ顔で、

「女の敵には天誅(てんちゅう)じゃ」

 と、見守るだけだった。



 やがて、バレーボールくらいのサイズに縮められた男は、

「この野郎! ふざけんな、ロリババア!」

 と、甲高い声でわめき散らす。

「誰がロリババアじゃ!」

 少女は一括すると、雷を男に落とした。

 ピシャーン!

 と、部屋の中にスパークが走る。

「ぐはぁ!」

 ミニチュアサイズに縮められた男は断末魔の悲鳴を上げ、ぶすぶすと煙を上げながら倒れた。

 そしてさらに小さくなっていった球は最後には点になってピュン! という音を立てて消えていった。

 和真の部屋には綺麗に球状にえぐられてしまった大穴が残り、隣の家の庭からの風がビュゥと吹き込んでくる。

 少女は、唖然としている和真と芽依の方を見ると、

「災難じゃったな、今助けてやる」

 そう言って何かをつぶやき、パチンと指を鳴らして触手を消し去った。そして、

「ケガはないか?」

 と、二人の顔を見る。

 二人はお互い顔を見合わせ、

「だ、大丈夫です」「わ、私も……」

 と、答えた。

 仮想現実空間から抜け出して芽依を襲った暴漢に、それを瞬殺した不可思議な自称龍の少女。あまりに現実離れした出来事に二人ともあっけにとられていた。



「あー、これ直すの面倒くさいのう……」

 少女は渋い顔をして丸く穴の開いた壁を眺める。

「あのぉ……」

 和真は声をかける。

「ん? なんじゃ?」

 壁の切断面をなでながら答える少女。

「助けてくれてありがとうございます。管理局(セントラル)の龍……さんというのはどういう……」

「そのまんまじゃ、それに答えたってどうせ忘れちゃうしのう」

 そう言うと、少女は和真を見てちょっと寂しそうに笑った。

「忘れる……?」

 和真が怪訝そうに眉をひそめると、少女はすっと和真に手をかざす。

「え?」

 直後、和真は意識を失い、ぱたりと床に倒れてしまった。