3-1. 戦闘準備



 その日、俺は淡々と作業をこなしていった。ギルドマスターとかけあい、金貨を出してもらって、その金貨を買い取ってもらい、そして卸売問屋に殺虫剤の買い付けに行った。

 在庫にあった千個全てを買い取り、倉庫で人目につかないように気をつけながら、床に置いた鏡に放り込んでいく。何しろ殺虫剤は全部で五百キログラム、到底運べないのだ。

 鏡に放り込んだ殺虫剤は、宿屋に立てかけておいた鏡からポーンと飛び出してきてベッドの上に転がる。ネオ・エステルはそれを拾って箱の中に入れていく。百個くらい送った後に様子を見たら、

「まだまだ行けるですよ!」

 と、ネオ・エステルは笑っていた。

 だが、五百個を超えた辺りから疲労が目立ち始め、ただのエステルに戻っていた。仕方ないのでペースを落とし、途中、手伝いながらなんとか千個全部異世界へと運び込めた。これで普通の殺虫剤一万六千個分に相当する。十万匹叩く上ではそこそこ頼れそうだ。

 俺は五百キログラムの頼もしい殺虫剤の箱の山を見て、グッとこぶしを握った。



       ◇



 夕方、コンビニで買ってきたクリームブリュレとコーヒーで休憩を入れる。

「どうだ、ネオ・エステル、美味いだろ?」

 俺が聞くと、

「もう、ネオは止めたんですぅ」

 そう言ってうつむいた。

「あれ? どうしたの?」

「一時的に気合入れるだけじゃ足りないんだなって、思ったんですぅ」

「おぉ、いいじゃないか。それを気づけただけで、もうネオ・エステルだよ」

「えっ?」

「そういう気付きを積み重ねて成長していく事が大切じゃないか、って最近思うんだ。偉そうに言ってるけど、俺自身勉強させられてるよ」

 そう言って微笑みながらエステルを見た。

「うふふ……、ソータ様、ありがとですぅ」

 エステルはそう言って、クリームブリュレをすくって食べ、顔を揺らし、幸せそうに微笑んだ。



       ◇



 続いて線香を使った遅延発火殺虫剤のテストである。殺虫剤の缶を三つ束ね、それぞれに長さの違う線香をさして時間差発火で長時間煙を出し続ける。他の人が使っても効けば成功である。理屈は分からないが、俺が着火すれば誰が持っても効くに違いない。



 鏡を一旦リセットして、俺たちは最初にエステルに出会った位置からダンジョンにエントリーする。

 慎重に進み、広間を見たらゴブリンが五匹いた。彼らでテストをしたいと思う。

 俺は長さを変えた線香に火を点け、束ねた殺虫剤の点火口にさしていく。さて、上手くいきますかどうか。

 線香が順調に燃えていくのを確認し、俺はエステルに持たせた。

「煙が出てきたらゴブリンに向けてね」

「分かりました!、ドキドキしますぅ」

 エステルは緊張して頬が紅潮している。俺は上手くいかなかった時のために、ハチ・アブ・マグナムZを装備してガチャッとロックを外した。



 やがて最初の缶に火が入り、ボシュー! とすごい勢いで殺虫剤が噴き出してきた。さすがに十六倍の薬剤の入った業務用、煙の濃度が段違いにすごい。

「エステル! GO!」

 俺の掛け声でエステルがテッテッテと駆けていく。俺は後を追った。



 気が付いたゴブリンたちが、

「ギャッギャッギャ!」「グゥゴォ――――!」

 と、喚きながらこっちに駆けだして……、「ギャウッ!」と断末魔の悲鳴をあげながら魔石になっていった。



「やった! 成功だ!」

「やったぁ!」

 俺たちは見つめ合って喜んだ。

 そのうちに殺虫剤の噴霧が止まり、次の殺虫剤に火が入った。

 ボシュー!

 噴き出す強烈な薬剤。

「ちょっとこれ、止められないですか?」

「あー、一度火がついたら無理だなぁ……」

「ちょっと煙いですぅ」

「困ったな、部屋に戻るか」

「あっ、ちょうど魔物が出ました!」

 エステルはそう叫ぶと、殺虫剤を持って向こうの洞窟へと駆けていく。

「あっ、走っちゃダメだって!」

 俺は急いで追いかける。

「大丈夫ですぅ――――」

 そう言いながらエステルはテッテッテと駆けていくが……。



 カチッ!

 嫌な音が洞窟に響いた……。



「きゃぁ――――!」

 パカッと落とし穴が開き、エステルが落ちて行く。

「エステル――――!」

 穴へと消えていくエステルを見て、俺は真っ青になった。



















3-2. ドジっ子大ピンチ



「いやぁぁぁ!」

 穴をのぞくと、ホーリークッションをかけたエステルがぼうっと淡く光をまといつつ、ゆっくりと落ちながらこっちを向いて叫んでる。大変にマズい事態になった。エステル一人で行かせるわけにはいかないが、俺が飛び込んだらホーリークッションで受け止めきれるだろうか……?



「ソータ様ぁ! 来てくださいぃ!」

 悲痛な叫びがあがる。

 俺は逡巡したが、エステルを失う訳にはいかない。意を決して穴に飛び込んだ。



 ヒュー! と風を切りながら、あっという間に加速しながら落ちて行く俺。

 エステルは俺に向けてホーリークッションをかける。だが、減速はしてもすごい速度の俺はそう簡単に止まらない。あっという間にエステルを追い抜いていく。



 ヤバい!



 俺は必死にエステルをつかんだ。

 ガシッとつかんだ先は足首。

「きゃぁ!」

 エステルは一気に引っ張られ、二人してしばらく落ちていたが、やがて減速して何とか転落せずに済んだ。



「危なかったぁ……」



 俺はホッと胸をなでおろす。



「ダンジョンは走っちゃダメ!」

 エステルの足につかまりながら、俺は怒った。

「だって、こないだまでこんな落とし穴なかったですぅ……」

 言い訳してしょぼくれるエステル。

「これからは絶対に走らないこと!」

「はぁい……」



 それにしてもこの穴はどこに繋がっているのだろうか……、前回は六十階のボス部屋だったから、その辺りの階層に違いない。相当魔物は強いだろう。俺は嫌な予感がしたので、鏡で帰ることにした。



「エステル、鏡出して! 帰ろう!」

「は、はい!」

 エステルは急いで背負っていた鏡を下ろすが……、

「きゃぁ!」

 手を滑らせて鏡が落ちて行く。

「うわっ!」

 俺は手を伸ばして一瞬つかんだが、鏡は重い。俺の手をすり抜けて、鏡は真っ逆さまに落ちて行く。

「あぁぁぁ!」「いやぁぁぁ!」



 しばらくして、ガーン! という衝撃音がして鏡がフロアに激突した。



 あまりの事に、俺は言葉を失った。

 鏡が壊れたらもう二度と日本には戻れない。俺は目の前が真っ暗になった。



「ごめんなさいですぅ……。うっうっうっ……」

 上でエステルが泣いている。

 エステルがミスしたら俺の責任、そうは言ったがこれはあんまりじゃないかなぁ……。俺は何も言うことができず、ただ、うなだれていた。



 やがて、フロアが見えてきたが、そこにはうじゃうじゃと魔物の影がうごめいていた。モンスターハウスだ。俺はハチ・アブ・マグナムZのロックを外し、噴射を始める。

 「ギャウッ!」「グギャァ!」

 次々と溶けていく魔物たち。

 やがて、フロアに降りると、俺は残りの魔物たちに向けて噴射を続けた。

 この時、カン! と俺の左腕の丸盾に何かが当たった。見ると、矢が転がっている。

 矢で射られているのだ。

「エステル! 弓矢だ! 気をつけろ!」

 そう言って辺りを見回すと、遠くで弓を引いている魔物が二匹見えた。残念ながら殺虫剤が届く距離ではない。



「きゃぁ!」

 エステルが叫んで倒れた。

「エステル――――!」

 見ると、矢が太ももに刺さっている。これはマズい。

 俺はエステルを物陰に運び、辺りを見回した。他の魔物は倒し終わったようだった。

 しかし、弓矢の魔物は相変わらず射程外から淡々と矢を射ってくる。矢はマズい。当たり所が悪ければ死んでしまう。

 俺はゆっくりと深呼吸を繰り返し、

「セイッ!」

 と、掛け声とともに盾を前にし、弓矢の魔物に向かって駆けだした。魔物は小人で頭の上に光るものを乗せ、可愛い顔しながら弓を巧みに使って矢を射ってくる。

 俺はカン! カン! と盾で矢をはじきながら接近する。射程距離に入ると横にステップして殺虫剤を噴射し、弓の魔物に浴びせた。

 「グギャッ!」「グゥゥ!」

 と、悲鳴をあげ、溶けていく魔物たち。



 俺は急いでエステルの方に戻る。エステルは太ももを抑えながら脂汗を流し、泣いている。

「うっうっうっ……、ソータ様ぁ……」

「大丈夫だからね」

 そう言って俺は矢の刺さっている所の服を裂いた。すると、真っ白な美しい太ももに矢がブッスリと刺さり、刺さったところは赤黒く変色していた。

 俺はあまりにも生々しい惨状に思わず気が遠くなり、目をつぶった。こんなのどうしたらいいのか? 

 俺は混乱して動けなくなり、手が震えた。























3-3. 立ち昇る死の香り



「ソータ様ぁ……」

 エステルは荒い息をしながら痛みに耐えつつ俺に訴える。

 矢は抜かねばならないが、矢じりが残ってはマズい。つまり、切り裂いて取り除かねばならない……、が、切るの? 俺が?

 俺は思わずクラクラした。



 しかし、これは一刻を争う。俺は落ちて転がっている鏡を拾い、段ボールケースから引き出した。

 木製の枠の左上の角は粉砕され、枠も外れかけていたが鏡面は無事だった。試しに潜ってみたら俺の部屋に繋がっている。大丈夫なようだ。

 俺はエステルを抱き上げると部屋のベッドに横たえた。



 そして、カッターナイフを取り出すと、殺菌用のアルコールで綺麗に拭いた。太ももも俺の両手もアルコールで全部消毒する。



「見るなよ、歯を食いしばれ!」

 そう言って俺は矢の食いこんでいる太ももにカッターの刃先を当てた。

「ソータ様ぁ……」

 苦しそうなエステルの声が響く。

 カッターがカタカタと震えている。

 俺は目をつぶって大きく深呼吸を何度も繰り返し、そして、

「行くぞ!」

 そう言って、ザクッと刃を押し込んだ。

「ギャ――――!」

 悲痛な叫びが耳をつんざく。

「頑張れ!」

 噴き出してくる真っ赤な血の中に指を入れ、矢じりを見つけ、俺は矢を引き抜いた。

「うわぁぁぁん!」

 取り乱し号泣するエステル。

 俺は傷口をタオルで縛り、

「矢は抜いた、ダンジョンに連れてくから治癒魔法を使え!」

 そう言って鏡をリセットすると、エステルを抱き上げ、ダンジョンへと連れて行った。



 苦しみながらエステルは必死に治癒魔法を唱えた。

「ヒ、ヒ、ヒール!」

 エステルの身体がボウっと光り、傷口は回復しているように見えた。

 俺は再度抱き上げてベッドに寝かせる。

 しかし……、エステルはまだ苦しそうだ。

 タオルを外して傷口を見ると、傷は縫合されていたが、赤黒い色が落ちていなかった。

 毒……、かもしれない。



 俺は急いで解毒のポーションをカバンから出してエステルに飲ませた。

 しかし……、赤黒い色はどんどんと大きくなり、太もも全体に広がり始めた。

「えっ!? なんでだよ!」

 俺はポーションを太ももにかけてみた……。

 全然効果がない。

 そして俺はここで大きな過ちに気が付いた。日本ではポーションは効かないのかもしれない……。

 つまり、鏡の向こうで飲まさなければ効果は発揮しないのではないだろうか?

 しかし、ポーションは全部使ってしまった。

「ヤバい! どうしよう!?」

 俺は頭を抱えた。

 今から魔道具屋に行くにはダンジョンをダッシュで抜けて駆けて……うまくやっても1時間くらいはかかりそうだ。

 エステルを見ると太ももの赤黒い色はどんどんと広がり、下腹部まで変色してきている。とても1時間ももちそうにない。

 詰んだ! あの、殺された盾の若者のおぞましい死体がフラッシュバックしてくる。

 ど、ど、ど、どうしよう……。

 俺はエステルを失いつつある現実に目の前が真っ暗になった。

「ソ、ソータ様ぁ……」

 もうろうとするエステルが、うなされてうわごとのようにつぶやく。

 俺はエステルの手を両手でしっかりとにぎった。

「な、なに? どうした?」

 涙がポロポロと湧いてくる。



「ドジで……、ごめんなさい……」

 くぅ……! 俺は涙でぐちゃぐちゃになった。

 違う、ドジなのは俺だ。貴重なポーションをまぬけにも無駄にしてしまった。

 ダンジョンで飲ませるだけだったのに、なぜ、気が付かなかったのか……。

「ゴメン、ゴメン! ドジは俺の方だ!」

 俺は叫んだ。



 俺はどうしたらいい?

 彼女を失う訳にはいかない。寝食を共にし、死線をかいくぐってきた大切な仲間。今エステルに死なれたら俺はどうにかなってしまう。



 ダメだ、考えろ! 考えろ!

 何か手があるはずだ。

 救急車を呼ぶ? いや、こんなファンタジーな毒、現代医学で対応可能かどうかも怪しい。

 こんな毒を治せるのは……、そうだ! 先輩だ! 先輩ならこんな毒一瞬で治せるに違いない。何としてでも頼み込んで治してもらうしかない。



 俺はスマホを取り出すと、メッセンジャーから『通話』を選んでタップした。

































3-4. 一生、一緒



 トゥルルル……、

 俺は必死に祈った。

 先輩! 出て! 頼む!



『ハーイ! ソータ!』

 明るい声で先輩が出た。

「せ、先輩! お願いがあります!」

『ダメよ!』

 いきなり拒否られる俺。



「えっ!?」

『女神はそう簡単に願いなんて聞けないわ』

 冷たい声で突き放す先輩。



「えっ! えっ! 一生のお願いです! 何でも言うこと聞きます! 彼女を助けてください!」

 俺は必死に叫んだ。

『何でも?』

「何でもです!」

『絶対?』

「二言はありません!」

『じゃあ、あなた、その子と結婚しなさい』

「はぁっ!?」

 俺はあまりに唐突な条件にあっけに取られた。

『できないの?』

「い、いや、そのぉ……。結婚って彼女の意志もあるわけで、私の一存では……」

『昨日夢の中で聞いたら『結婚? そうなったら嬉しいですぅ』って言ってたわよ』

「えっ? えっ?」

 俺は言葉を失った。

『どうするの? するの? しないの? 切るわよ』

「ちょ、ちょっと待ってください! 彼女まだ子供ですよ?」

『何言ってんの。彼女、あなたよりずいぶん年上よ』

「はぁ!?」

 俺は予想外の事態にうろたえた。見るからに十代半ばの女の子が俺より年上だなんて一体どういうことだろうか?

『どうすんの? 私忙しいのよ』

「えっ、こういうのはじっくり考えないと……」

『その程度の相手ってことね。残念だわ。じゃあ……』

「ま、待ってください! します! 結婚……、いや、プロポーズ……します……」

『……。なんだか微妙に逃げようとしてない?』

「あ、いや、ちょっと心の準備がいるので、ちょっと時間だけください」

『ふぅん……、急いだほうがいいと思うんだけどな……。分かったわ。結婚式には呼んでね』

 ガチャ!

 そう言って電話は切れた。

「えっ!? 先輩、せんぱーい!」

 切られてしまって唖然(あぜん)とする俺。

「エ、エステルは?」

 俺はエステルの方を見た。すると……、太ももは真っ白だった。

「や、やったぁ!」

 俺は急いでその白くすべすべとした太ももをなでてみる。温かく柔らかく、傷一つなく完治していた。さすが先輩、完璧な仕事だった。

 俺は思わずガッツポーズをした。

「良かったぁ……」

 俺はへなへなと床にへたり込んだ。



 と、ここで、約束を思い出す。

 プロポーズ……、するって言っちゃった……。今さらなかったことには……できないよなぁ。

 俺はボーっとエステルの顔を眺めた。

 スースーと穏やかに寝るエステル。

 この子と結婚? 俺が? 彼女いない歴二十一年の俺がいきなり結婚?

 俺は一体どうしてこうなったのか、ひどく混乱した。

 もちろん、エステルは可愛いし、失いたくない大切な人だ。しかし、こんな簡単に一生を共にする伴侶(はんりょ)を決めていいのだろうか?



 俺はジーッとエステルの可愛い顔を眺める。サラサラとした綺麗な金髪に透き通るような白い肌。ちょっと低いけど、スッと鼻筋の通った形の良い鼻。プックリとおいしそうな果実のような唇。

 彼女が俺の嫁になる……。いいの? 本当に?

 俺はそっと頬をなでた。

「ソータ様ぁ……」

 寝言を言うエステル。俺はドキッとした。

 心の底からエステルへの愛おしい想いが噴き出してきて、俺は胸がキュッとなった。



 俺は目をつぶり、彼女と共に暮らす生活を思い描く。それはきっと毎日イベント盛りだくさんのにぎやかな暮らしになりそうだった。俺の隣にいつもエステルがいる……。あれ? 悪くない……かも……。

 エステルがいない暮らしとどっちがいいか? 答えは明白だった。そうだよ、俺はエステルと一緒にいたい。



「一生、一緒……。うん」

 俺はそう言って、彼女の頬にそっと頬ずりをする。

 エステルのモチモチとした柔らかい頬が、俺の心に温かい灯りをともした。



 先輩は、俺の人生をねじ曲げようとした訳じゃなかったのだ。自分の心の声に気が付かない間抜けな俺に呆れ、背中を押しただけだったのだ。さすが女神様。俺より俺の事知ってるんだ……。俺は先輩に心から感謝をした。



 俺はそっとエステルの隣に潜り込み、添い寝をする。愛しい人の温もりを感じ、優しい香りに包まれながら寝入っていった。















































3-5. 新たなる異世界



 目が覚めるとすっかり暗くなっていた。

 エステルはというと、まだぐっすりと寝ているようだ。



 俺はコーヒーを入れ、飲みながらゆっくりと状況を整理する。

 さて……、次は何するんだったかな……。



 殺虫剤はうまく機能したから、線香の長さを調整したセットをいくつか作って、缶を束ねれば魔物の襲来に対する準備はいいだろう。

 後は魔王と交渉……、そうだ、先輩に魔王の居場所を教えてもらわないと……。

 俺はメッセンジャーで居場所の催促(さいそく)を送った。



 えーとそれから……、

 と、ここで、壊れた鏡が気になった。鏡は生命線だ。壊れたままにしておくわけにはいかない。



 壊れた鏡の枠を見てみると、鏡の端が露出して見えている。ここが異世界への出入り口の境目……。

 俺は興味が湧いてきて、鏡の端にカッターナイフの刃を当ててみる。すると、鏡面に当たってる部分は異世界へと送られ、当たってない所はそのまま前へと進み、切れてポトリと落ちた。

 つまり、極めて鋭利な刃物状態になっていた。空間を裂いている訳だから理論上最強の刃物である。俺はゾッとした。

 逆にこれを鏡面の内側からこじってみたらどうだろうか?

日本の空間と、異世界の空間の間にカッターの刃を立ててそのまま端に動かしてみる。ちょうど真ん中だったら刃はどっちの空間に出てくるのだろうか?

 すると、刃はガッと硬い物に当たって止まってしまった。どちらかの空間に出てくるはずなのに止まっている。ここはどうもイレギュラーな匂いがする……。



 俺はそのまま力を入れて刃をグリグリと動かした。すると、ベリベリっという感覚と共に刃が突き抜けた。突き抜けた先は、日本でも異世界でもなく、どこか別の空間へと突き抜けている。俺は驚いた。どうやら第三の空間に繋がってしまったのだ。

 俺は丁寧にカッターの刃でこじっていき、切り口を広げていく。そしてそーっと手を入れると、どこかに手は消えた。いよいよ、面白いことになってきた。

 俺はさらに切り口を大きくし、身体が入るくらいまでに広げた。これで、まっすぐ鏡に入ると異世界、斜め横へ行くと別の空間に行く鏡が出来上がった。

 こんな事、先輩に知れたらまずいことになるかもしれない。

 自分で見つけた新たな異世界、俺は静かに興奮していた。



       ◇



 装備を整え、俺は新たな異世界へと入ってみることにした。

 のぞき込むと……、そこは赤茶色の洞窟だった。ゆっくりと身体を通し、降り立つと、何とも気持ちの悪い雰囲気がある。これはどこかで見たような……、と、思い返すと、胃カメラだ。胃カメラの映像を見た時の雰囲気に似ている。どこかの怪物の胃の中だったりしないかちょっと不安になった。

 壁面を観察すると、ゴムのような弾力があり、ところどころに切れ目が入っている。切れ目を押し広げると、向こうには別の空間が広がっていた。多くが全く何もない暗闇であったが、森や空の上のような景色に繋がっている所もあった。

 どうも、イレギュラーな空間の裂け目を回収するような機能を持つところのようだ。つまり、空間管理上のゴミ箱。計画にはない空間の裂け目があると、自動的にここに繋がっているようなのだ。であれば、何か有用なところに繋がっている切れ目があるかも知れない。

 しばらく次々と切れ目をのぞいていったが、何一つ面白い物は見つからなかった。そもそも多くが何もない暗闇なのだ。ちょっと押してみて暗いところのほとんどが外れと考えていいようだ。

 俺は、ヘッドライトを消し、洞窟を暗闇にする。すると、明かりが漏れてくる切れ目がポツポツとあるのが分かる。

 俺はそれらを一つずつ押し広げてチェックしていく。あるところはウユニ塩湖のような壮大な風景に繋がっていたし、別の所は広大な麦畑だった。さらに次々と押し広げて見ていくと衝撃の光景を見つけた。なんと、無数の魔物が整然と並んでいる巨大な倉庫に繋がったのだ。

「はぁ!?」

 俺は思わず声が出てしまい、急いで口を押さえた。





















3-6. 百万匹の魔物



 切れ目は倉庫の上方に開いていて、全体の様子が良く見えた。

 そっと様子をうかがうと、手前の所にはゴブリンらしき魔物が一メートルおきに整列していて、それが二百メートル四方くらいに及んでた。つまり、四万匹である。そして、ゴブリンたちは全員微動だにせず静止している。

 隣の区画にはコボルト、その奥にはオーク、トレント……と並び、何キロも先の奥の方には巨大な魔物が並んでいるのが見える。ワイバーンより大きい物すらいそうだ。ドラゴンだろうか?

 数はパッと見える範囲だけで百万匹に達しそうだった。ここは魔王の秘密倉庫? ここから街を襲撃する魔物たちを出しているのだろうか? 俺はどうしたらいいか混乱していた。



 ガチャ! ギギギー!



 下の方でドアの開く音がした。

 俺はそっと切れ目を少し戻し、聞き耳を立てる。



「マリアン様、次の侵攻の準備はバッチリです」

 しゃがれた男性の声が響く。

「ほう、いいじゃない……。あれ? ゴブリンはこんなに要らないって言わなかったっけ?」

 若く張りのある女性の声だ。

「こ、これは失礼いたしました。半分に減らしておきます」

「しっかりしなさいよ! それじゃ、後は手はず通りに王都とバンドゥによろしく!」

「ははっ、かしこまりました」

「また一歩理想郷(フェアリーランド)に近づくのね」

 女性は感慨深そうに言う。

「楽しみでございます」

 そう言って、二人ともしばらくうれしそうに笑い合っていた。

 やがて出て行ったようで、ガチャン! と重厚なドアが閉められた。



 きっと魔王の関係者だろう。ここに用意した魔物を王都とバンドゥに十万匹ずつ送り込むつもりらしい。俺は決定的な拠点を探し当てた興奮で心臓が高鳴り、思わずガッツポーズをした。スマホで証拠写真も撮っておく。

 それにしても理想郷(フェアリーランド)とは何を指しているのだろうか? 人類を滅ぼして何をやろうとしているのか……。俺は魔王の考えがさっぱり理解できなかった。

 いや、そんな事後回しだ! 急いでこいつらを処分しなくてはならない。

 俺はダッシュで部屋に戻るとエステルを叩き起こした。



「エステル! 出番だ! お前の力を貸してくれ!」

「ソ、ソータ様……? 何があったですか?」

 エステルは寝ぼけまなこをこすりながら起き上がる。

「世界を救う方法が見つかった! 急いで宿屋の殺虫剤を取りにいこう!」

「わ、分かったです! エステル、頑張るです!」

 エステルは半開きの眼でよろよろと立ち上がると、右手を挙げた。



        ◇



 俺たちは急いでダンジョンを抜け、宿屋へと走った。倉庫に誰もいないうちに魔物たちを倒してしまわないとならないのだ。時間との勝負である。

 宿に着くと、スマホの写真を見せながら作戦を伝える。

 エステルは殺虫剤を淡々と魔物倉庫のフロアに下ろす。俺はそれをリュックと袋に積めるだけ積んで、二十メートルおきに火をつけて置いていく。一個でどのくらいの魔物を倒せるか分からないので、倒せた範囲を見て次の置き方を検討する。こんな感じだ。



「分かったですぅ!」

 エステルは目を輝かせて殺虫剤をゴロゴロと赤茶の洞窟へ放り投げ始めた。

 俺は殺虫剤を両手とリュックに満載して魔物倉庫のフロアに降りると早速殺虫剤に火をつけていった。

 幸い、魔物は整然と区画で整理されているので、区画間の通路にどんどんとおきながら走っていける。

 とは言え、魔物は百万匹。三キロくらい先までビッシリだ。それに、強い魔物は奥の方にあるので非常に骨が折れる。

 また、途中で彼らが戻ってきたら計画は終わりにせざるを得ない。一応ドアノブはヒモでグルグル巻きにしてあるが、そんなのすぐに突破されるだろう。時間は限られている。

 俺はダッシュで殺虫剤を置いていく。まず、一直線に三十個、六百メートルほど置いてみた。そして、帰りながら魔物の退治具合を観察する。

 この密度で配置していくと、通路から五十メートルくらいの範囲の魔物は倒せるらしい。で、あれば、二列で三キロ、百五十個ずつ配置していけばほとんどの魔物を倒せる計算になる。

 俺はエステルに『三百個お願い!』と頼み、また、殺虫剤を満載して配置へと走っていった。

























3-7. ジョッキ爆散



 魔物が倒れた後には当然魔石が転がっている。まさに魔石の畑状態だ。しかし、残念ながら拾っている暇はない。殺虫剤を配置し終わって、時間が余っていたら回収したい。

 俺は淡々と殺虫剤を配置していったが、途中から異常に速く走れるようになっていることに気が付いた。ステータスを見るとなんとレベルが七十になっていた。よく考えれば当たり前である。十分の一の魔物を倒しただけで十万匹の魔物を倒したことになるのだ。これは冒険者の十年間分くらいの経験値に相当するのではないだろうか?

 さらに俺は奥の方のドラゴンの区画へ行った。そこにはアパートくらいのサイズの巨大な恐竜のような魔物がずらりと並んでいた。ワイバーンの二回りくらい大きい巨体はびっしりとウロコで覆われており、鋭い爪や恐ろしい牙が光っていた。そんなのが何十匹も並んでいるのだ。動かないと分かっていても近づくのは本能的に避けたくなる迫力がある。

 隣には一つ目の巨人、サイクロプス。その奥にはドラゴンよりデカい岩の巨人、ゴーレムの群れが鎮座していた。

 俺はそれらの区画にも丁寧に殺虫剤を配置していく。

 ドラゴンの魔石はきっと相当高額になると思ったので、これだけは集めておいた。

 また、この奥の区画は経験値がめちゃくちゃ高いらしく、ステータスを見るとレベル百二十に上がっていた。

 このくらいまで上がると運動能力の向上は顕著で、三キロくらいなら一分もかからず走れてしまう。

 二時間くらい頑張って、ようやく三百個の殺虫剤を配置し終わった。

 あちこちにまだ魔物は残っているが、ここまで叩いておけば侵攻は中止になるだろう。



 と、この時、ガチャガチャ! とドアノブが音を立てた。どうやら戻ってきてしまったようだ。

 魔石集めは諦め、急いで撤退する。



         ◇



 部屋に戻ると、俺はエステルとハイタッチをした。

「イェーイ!」「やったですぅ!」

 ニコニコと笑う可愛いエステル。

 俺は我慢できずにそっとエステルに近づくとハグをした。

「ソータ様ぁ……」

 エステルもうれしそうに俺のハグを受け入れてくれた。

 甘酸っぱい優しい香りに包まれ、例えようのない幸せが俺を包んでいった。

 このままベッドに押し倒してしまおうか……、一瞬欲望が頭をもたげる。しかし、まだ告白もしていないのだ。グッと我慢をする。

 ちゃんとプロポーズしてから……。さて、どこでどうやって?

 さすがにこんなホコリまみれのまま、自室でするようなものじゃないなと思う。ちゃんとタイミングは図ろう。



「今日はありがとう。ご飯食べに行こう」

 と、ぎこちない笑顔で言った。

「うん、お腹すいたですぅ!」

 屈託のない笑顔で笑うエステル。

 いつになく笑顔が輝いて見えた。



      ◇



 エステルお勧めの近場のレストランへと移動する。ここは揚げ物が美味しいそうだ。



 まずはお互いの健闘を祝って木製のジョッキで乾杯。

「カンパーイ!」「かんぱーい!」



 ジョッキをぶつけると……、



 ドゥガーン!



 派手な音がしてジョッキが爆発した……。

 泡だらけになる二人……。



 店員がタオルを持って飛んできた。

「ごめんなさい、何があったんでしょう?」

 申し訳なさそうな店員に、俺はタオルで拭きながら言った。

「いや、ちょっと力加減を間違えただけです。ごめんなさい。おかわりください」

 何があったのか全く分からないエステルに、

「ステータスを見てごらん」

 と、言った。

「ステータス……? ひゃぁ!」

 驚くエステル。

「レ、レベル百二十……ですぅ」

 エステルは困った顔をして俺を見る。

「Aランク冒険者、ネオ・エステルになったな」

「え? 私、殺虫剤を下ろしてただけですよ?」

「殺虫剤を置いてただけの俺はレベル百五十だよ」

 苦笑する俺。



 見つめ合う二人。

 そして……、

「くっくっく……」「ひゃっひゃっひゃ……」

 お互い変な笑いが湧いてくる。段々おかしくなってきて、

「はっはっは!」「きゃはは!」

 大きく笑った。



 そこに新しいジョッキがやってくる。



「よし! 俺たちスーパーAランクパーティにカンパーイ!」「かんぱーい!」



 うれしくなってジョッキをぶつけた。



 ドゥガーン!



 また泡だらけである……。俺は自らの馬鹿さ加減にちょっと呆れたが、それより湧き上がるうれしさが勝っていた。



「はっはっは!」「きゃはは!」

 俺たちはお互いのずぶ濡れの様を見てまた大笑いした。

 俺は久しぶりに心の底から笑った。就活地獄の日々から打って変わって、この数日に詰め込まれた、まるでオモチャ箱みたいなイベントの数々……。うん、人生絶好調だ!



















3-8. ダイヤモンドリング



 ピロン!



 その時、スマホが鳴った。新着メッセージだ。

 ここは異世界、圏外である。電波など飛んでない。なのにメッセージが届く……。先輩だ。こんな事ができるのは彼女しかいない。

 俺はタオルで顔を拭くと、スマホのロックを解除した。



『魔王の住所はこちら→カルセーヌ通り233 明日朝十時に行く事。 で、まだなの?』

 俺は文末を見て思わず噴き出した。

「ソータ様、どうしたですか?」

 エステルがタオルで髪を拭きながら、首をかしげて俺を見つめる。

 先輩がどうやら楽しみにして監視しているらしい。趣味悪いなぁ……。



「い、いや、大丈夫。ところでカルセーヌ通り233ってどの辺?」

「え? ここがカルセーヌ通りですよ? 233ならあの辺じゃないですかね?」

 エステルは通りを指さす。

「マジか……」

 俺は思わず額に手を当てる。魔王は近所にお住まいだった……。

 俺は先輩に返事を返す。

『朝十時了解です。例の件は、指輪とかの準備が要るので……』



 ピロン!

 すぐに返事が返ってきた。

『右ポケットに用意しておいたわ。良かったら使ってね♡』

 右ポケット!?

 俺は急いで右ポケットに手を突っ込むと……、硬い物が入っていた。

 まさか……。

 俺はその四角い小さな箱をそーっと取り出し、机の下でひそかに確認する。

 箱を開けると、そこには立派な指輪が入っており、大きなダイヤモンドがキラキラッと光った。

 俺は思わず天を仰ぐ。なんだこのイリュージョンは!?

 着実に外堀を埋めてくる先輩。こんな急かされなくてもやりますよ。

「それ何ですか?」

 エステルが机の下をのぞいて聞いてくる。

「あ――――っ! 何でもない! 何でもないよ――――!」

 俺は冷や汗をかきながら、急いでポケットに突っ込んだ。

 怪訝(けげん)そうな顔をするエステル。

「エ、エステルの将来の夢って何かな?」

 急いで話題を変える。

「しょ、将来ですか? うーん、お嫁……さん、かな?」

 真っ赤になって下を向くエステル。話題が変わっていない……。

 折角だから、さりげなくリサーチをしてみよう。

「ど、どういう人と結婚したいの?」

 エステルはチラッと俺を見て、

「昨日の夜に、女神様が夢に出たです。女神様は『あの人がいいんじゃないか』っておっしゃってくれたんですぅ……」

 と、恥ずかしそうに言った。

「あ、あの人って誰かなぁ?」

 心当たりある俺はドギマギして聞いた。

「そ、それは……。ひ、秘密ですっ!」

 そう言って真っ赤になり、

「おトイレ行ってきます!」

 と、言ってテッテッテと駆けて行った。



 ピロン!

 スマホが鳴った。

『そういうの、男らしくないと思うわ』

 女神様からの突っ込みが入る。なんで見てるんだよ! 俺は思わず周りを見回してしまう。

 でも、確かにちょっとズルかった気がする。反省した。

『魔王の件が片付いたら言います』

 そう返事をしておいた。



      ◇



 かなり酔っぱらって二人は宿屋に帰ってきた。

 エステルはベッドにピョンと身を投げると、

「えへへ、幸せですぅ」

 と、最高にうれしそうな顔をして言った。

「今日もいろいろあったなぁ……」

 俺もエステルの隣にゴロンと転がって言った。

「ソータ様と出会ってから、驚くことばかりですぅ」

 エステルはニコニコしながら俺を見て言う。

「それは俺も同じだよ」

 そう言って二人で見つめ合って、笑った。

 そして、俺は酔いも手伝って、

「俺……、今晩……、ここで寝ていいかな?」

 と、勇気を出して言った。

「いいですよ!」

 うれしそうに言うエステル。

 やった! 俺は秘かにガッツポーズ、期待に胸がはちきれそうになった。

「じゃあ、私はソータ様の部屋のベッドで寝るですね! このベッド寝心地最高ですよ!」

 そう、ニコニコして言った。

 あれ……? そういう意味じゃ……、ないんだけどな……。

「じゃあ、また明日! おやすみですぅ!」

 そう言ってエステルは、ピョンとベッドから飛び降りると、鏡の中へと消えて行った。

「あ……」

 俺は力なく手を伸ばし……、はぁ~っと大きく息をついた。

 本当にあの人、俺より年上なんだろうか?

 一瞬、スマホが鳴るんじゃないかと身構えたが、さすがにそんなことは無かった。





























3-9. 秒間三百回の世界



「なんだよぉ……」

 俺はやりきれない気持ちを抱えながら上着を脱ぎ、椅子の背に向けてポーンと放つ……。

 その時、ふと違和感を感じた。

 ランプの炎が優しく照らす中、飛んだ上着は何だかコマ送りのように、ギザギザな残像を残したのだ。

 それは安物のLEDランプの時に感じるような、ほんの些細な事だったが、すごく気になった。

 俺は手のひらをブンブンと振ってみる。すると、やはり、滑らかな残像とならない……。おかしい……。ランプの炎はアナログだ。像は必ず滑らかになるはずなのだ。

 ハンドタオルを丸めて結び、壁に向けて投げてみた。ハンドタオルは点々と残像を残して飛ぶ。ざっと計算すると、三百分の一秒ごとに像が生成されているようだった。

 昨日まではこんな事なかったのに……、と思って気が付いた。レベルが150に上がって、動体視力が上がったのだ。普通の人じゃ全く気が付かない像の異常に、気がつくようになってしまったのだった。

 と、なると……。この世界は三百分の一秒ごとに像が生成されている仮想現実空間と言う事になる。言わばMMORPGのようなゲームの世界の中と言う事だ。俺はにわかには信じられなかった。美味しい料理、旨い酒、エステルの柔らかな頬に温かさ、これら全部が仮想現実上のデータと言う事になる。つまり、エステルもただのゲームのキャラクターになってしまう。結婚を考えていたあの愛しい存在がただのゲームのキャラクター? そんな馬鹿な……。

 俺はゾッとして冷や汗がタラりと流れた。



 思い返せば、魔法にしても殺虫剤にしても美奈先輩の起こす奇跡にしても、仮想現実空間であればいくらでも説明がつく。データを都合よく処理しているだけだからだ。

 俺は手のひらをジッと眺めた。表面に刻まれた微細なしわ、指紋、皮膚の中に巧妙に入り組んだ赤と青の血管たち……。その全てが動かせば微妙に形を変えながら柔らかく追随(ついずい)していく。これが全部コンピューターが作り出したものだって?

 一体だれが何のためにこんなシステムを組んだんだ? そもそもそんな事できるのか?



 と、ここで俺は嫌な事を思い出した。スマホだ。俺はスマホを取り出してロックを解除した。音楽を選ぶと当たり前のように鳴り出す。しかし、ここは仮想現実空間。三百分の一秒ごとに像が生成されている世界だ。なぜ、日本のスマホがそのまま動くのか?

 そしてさらに嫌な事を思い出す。美奈先輩は日本の俺の部屋のエステルをそのまま治療していた。これはもしかして……日本も仮想現実空間……なのか?



 いや待て! そんな馬鹿な事があるか? 日本が三百分の一秒ごとに像が生成される世界だったらさすがに誰かが気づくだろう。高速度撮影カメラは幾らだってあるし、いろんな観測装置があるんだから……。

 俺は頭が混乱した。俺の生きてる世界ってどうなっているんだ? 素粒子が波で作り上げてるって話じゃなかったのかよ? 科学者何やってんだよ!



 その後もいろいろ考えてみたが、結論は出なかった。ただ、手を揺らせばいつまでも残像はギザギザのまま。この世界は仮想現実空間、それだけは間違いなかった。



 その晩、俺はなかなか寝付けなかった。



      ◇



「ソータ様! 朝ですぅ! 起きるですぅ!」

 耳元で大声を出された。

「う? もうちょっと……」

 俺は毛布に潜り込む。

「ダメですよぉ! 食堂しまっちゃうですぅ!」

 エステルは毛布を引っ張る。

「寝かせてよぉ!」

 俺はグンっと毛布を引っ張り返した。

「きゃぁ!」

 エステルが俺の上に倒れ込む。

「うわぁ!」

 重なる二人……。柔らかい重みが俺を押しつぶす。

 この重みも仮想現実? 俺は寝ぼけながらボーっと感じていた。



「起きるです……」

 エステルが耳元でボソっという。

 俺はエステルの優しい香りを胸いっぱい吸い込みながら考えた。

 仮想現実かどうかなんて、どうでもいいのかもしれないな……。仮想現実でもなんでも幸せになれば勝ちなのだから。



















3-10. 魔王の悩み



「ゴメン、起きるから先行ってて」

 俺はエステルを優しくゴロンと横に転がした。

「もぅ、ソータ様は世話が焼けるですぅ」

「ゴメンね、これからも毎朝起こしてくれる?」

 ニッコリしながら聞いてみた。

「起こして欲しいです?」

 エステルはキョトンとしながら聞いてくる。

「うん、ずっと……」

「ずっと……、ですか? まるでお嫁さんみたいですね」

 エステルはニッコリと笑って言った。

「そういうの……、嫌かな?」

 俺はゆっくりと起き上がりながら聞く。

「……。ずっと一緒なのはうれしいです……、ですが……」

 エステルはうつむいてしまう。

 いつもと違う調子に俺は焦り、早口で聞いた。

「な、何か問題が?」

「……。じ、実は……」



 コンコンコン!



 ドアがノックされ、

「朝食でーす!」

 おばさんが声をかけてきた。



「ハーイ!」

 エステルは返事をすると、

「先に行ってるです!」

 そう言って、出て行ってしまった。



 肝心のところが聞けなかった。エステルが気に病んでいることは何なんだろう?

 先輩の話では、彼女は俺との結婚を望んでいるという事だったのに。

 望んでいても結婚は出来ないってこと? 実は婚約者がいるとか、宗教上の制約があるとか……、なんだろうな?

 これはプロポーズしても断られる可能性があるという事だ。いまさらそんな展開アリか?



「なんだよぉ……」

 俺は額に手を当て、ベッドに背中からバタリと倒れ込んだ。なんだか急にエステルが遠い存在になってしまった気がした。



      ◇



 結局、言い出す機会もなく、エステルの問題は謎のまま時間になり、俺たちは魔王の屋敷まで来ていた。

 石造りの重厚な建物には、233と書かれた小さくオシャレな金属パネルが掲げられ、立派なドアがある。

 俺は大きく深呼吸を繰り返すと、コン! コン! とライオンのドアノッカーで叩く。



 しばらくしてドアが開き、中から黒いスーツを着た男性が姿を見せた。

「いらっしゃいませ。どうぞ……」



 俺たちは男性の後をついて廊下を進む。

 この世界の破滅をもくろむ魔王。一体どんな人なのだろうか?

 なぜ、こんな所に一般人のように暮らしているのか?

 謎だらけである。



 男性は居室のドアの前で止まると、コンコンとドアをノックして、

「マスター、お客様がお見えです」

 と言った。そしてドアを開け、

「どうぞお入りください」

 と、俺たちを部屋へと案内した。



 部屋に入って驚いた。そこには巨大なモニターが何枚も展開されており、数字、グラフ、世界各地の映像がびっしりと表示されていて、まるで証券トレーダーのディーリングルームのようだった。



「よく来たね、まぁかけて」

 Tシャツにジーンズ姿の大柄な白人男性がニコッと笑うと、ソファーを指さした。

 魔王? 彼が? 俺はおどろおどろしい悪魔の化身のような存在を想像していたが、実際はアメリカのハッカーみたいな人だった。



 俺たちは言われるがままに座ると、スーツの男性がうやうやしく紅茶を注いでくれた。

「魔王……様ですか?」

 俺は聞いてみる。

「そう、僕は魔王。ソータ君だね。ヴィーナ様からよく話は聞いているよ。こちらが……フィアンセかな?」

「フィアンセ?」

 エステルが首をかしげる。

「あー、彼女はパートナーです! パーティー組んでるんです!」

 俺は冷や汗を流しながら説明する。先輩はどんな説明してるんだ? 非常に困る。

「あ、そうなんだ。ふむ」

「魔物の襲来なんですが、止めてもらうことはできますか?」

 俺は単刀直入に言った。

「あれね、私がやってるんじゃないんだよ」

 魔王は肩をすくめて困ったような顔をする。

「え? じゃ、誰が?」

「それが……、分からないんだ」

 魔王は額に手を当て、眉をひそめると目を閉じた。