「お、お部屋のことだって!」

こんな時でも。
彼は美しく微笑みました。


「お父上と決めたら?
 僕は伯爵邸に入るだけだよ?
 僕が求められているのはそれだけだ」

相変わらず微笑んでいるのですが、彼の緑の瞳は笑っていませんでした。
ここまで冷たく冴えた彼の瞳は、見たことがありません。


どう言葉を返せばいいのか、正解がわかりませんでした。
何か、彼が間違ったことを思い込んでいる気が
しました。


『伯爵家に入るだけ』
『求められているのはそれだけ』

いつからそんな風に、彼は考えていたのでしょうか。


「もう行くよ、書類仕事が山積みなんだ
 休む前に片付けたいからね」


ノーマン様が本当に片付けたいのは、
騎士団の書類ではなく、私なのかも。
そう感じました。


このまま彼を行かせてはいけない。
気持ちは焦るのですが、どうしたらいいのか、
わからなくて、全く動けずにいました。


ノーマン様はハンカチを取り出して私の涙を拭くと、そのまま手に握らせました。
先月、私が刺繍してプレゼントしたハンカチでした。


「秋になったら会おう、楽しみにしてる
 君が夏をどう過ごしたか、話を聞かせて?」

(どうしてそんなこと言うの?
本気で言ってるの?)


夏の思い出なんて作れないと、思いました。
作れないのがわかっていて、意地悪を言われた
気がしました。


ノーマン様は振り返らず、応接室を出ていきました。


この日、彼が私のことを。
『シャル』と、呼ばなかったことに気付いたのはしばらく経ってからでした。


そして、私が危惧した通り。
婚約者としてのノーマン様に会ったのは、
この日が最後になりました。