こわれた私を拾ってくれたのは優しすぎる彼でした

明莉が眠った部屋の前で、楓はしばらく立ち尽くしていた。扉の向こうからは、規則正しい寝息が聞こえる。泣き疲れて眠ったのだろう。その静けさが、かえって胸を締めつけた。

――あの日の笑顔を、もう一度。

心の奥で、何度も繰り返してきた言葉だった。守りたい、救いたい、取り戻したい。その願いだけが、今の楓を支えていた。

楓はリビングに戻り、灯りを落とした部屋でひとりソファに腰を下ろした。目を閉じると、自然と“あの日”の光景が浮かんでくる。

まだ大学生だった頃。駅前の横断歩道で、老人が倒れた。周囲の人々が戸惑う中、真っ先に駆け寄った少女がいた。

小柄で、髪をひとつに結んだ少女。

その顔を見た瞬間、楓は息を呑んだ。

――佐伯明莉。

テレビで見たままの、あの明るい笑顔。けれどその日は、ただの“ひとりの女の子”として、必死に老人の手を握っていた。

「大丈夫です、救急車呼びましたから」

そう言って微笑んだその顔に、楓は一瞬で心を奪われた。胸の奥が熱くなり、息が少しだけ苦しくなるほどだった。

初恋だった。

けれど、その想いは胸の奥にそっとしまい込んだまま、彼女の人生に触れることなく、ただ遠くから見ているだけだった。

——あの日までは。